19.甘露が、溢れ出す
(上階に移動して……もう一度心臓を……!)
だが、既に相当量の生命力を消耗していたのか、彼女の翼は思うように動かない。
サッファークの言う通りだとしたら、元よりクエリの心臓は父の半分。
そして更にその半分をパースに分け与えてしまい、これまでに大きく消耗した。
パースから心臓を返してもらったとはいえ、彼も矢毒竜の毒で消耗していたのだ。
今のクエリは、1/4以下の心臓と、それで発揮できる力しか持ち合わせていないのだ。
彼を背負ったままでは、飛ぶどころか走ることすら出来ない己の有様に、歯噛みする。
(それでも……今なら……)
諦めず、パースを背負って石段を登る。
まずは地底湖から離れて、出口へ。
そうすれば、少なくとも毒の化身の巨体が追いかけてくる恐れはなくなるはずだ。
成人の5倍以上の高さのある魔神像の、更に倍以上の高さの巨体だ。
だが、その毒の化身が軽く足を突き出しただけで、二体の魔神像は同時に吹き飛んだ。
派手な破壊音が、クエリの耳をつんざく。
「――っ!?」
岩壁に激突、破砕されて降り注ぐ破片の向こうに、サッファークの姿が見えた。
毒の化身もそれを見出したのか、姿勢を落としてそちらへと手を伸ばす。
「く、来るなーーッ!」
サッファークは飛ぶよりも、竜化して抗おうと試みたようだ。
確かに竜の姿になれば、体重が増えて毒への抵抗も強まる。
だがそれが裏目に出た。
毒の化身にしてみれば、それこそ全く無意味なことだったのだろう。
鋭い四本の牙の生えた口が開き、光が漏れてサッファークを照らす。
そしてそこから一見してただの煙のような気流が流れだし、白い竜を包んだ。
「うぅ……――――」
サッファークの竜の鱗は急速に黒ずみ始め、壊死した体組織の強烈な悪臭が広がる。
その体が力なく石畳の上に倒れた時、既にそれは腐った肉塊と化していた。
時間にして、10秒と経っていない。
原点に大きく劣るらしいとはいえ、これが“世界最初の毒”の化身の力なのだろう。
(あたしたちも……ああなる……!?)
毒の化身がその気になって大きく吐息を漏らしたならば、すぐにでも。
クエリはその時、次はお前たちだ、と言わんばかりにこちらを睨む、毒の化身を見た。
「…………っ!!」
それでも彼女は足を止めず、そのまま上階への出口を目指す。
すると巨大な毒の化身が、何と跳躍した。
「!!?」
クエリは死力を振り絞って、パースを背負ったまま飛び退く。
どれほどの体重があるのか、毒の化身は彼女たちの退路を塞ぐように着地した。
石畳が粉砕され、小さな破片の一つが彼女の額を打つ。
その振動で彼女は平衡を乱し、パースの遺体が背中から落ちそうになった。
慌てて抱きとめるが、もはや状況はどうにもならないように思われた。
少年の体をかき抱いたままの彼女を見下ろす、毒の化身の爛々と輝く視線。
「っ……父さん……」
彼女は祈りつつ、自分の視線の端に入ったものを見逃さなかった。
「あたしに、父さんの心臓と同じだけの勇気をください……!」
最下層に来てサッファークに出くわした当初、パースに荷物とともに預けた斧。
パースの遺体をそっと石畳の上に横たえると、クエリは斧を引っ掴み、走った。
彼の遺体から、毒の化身の目を逸らすために。
そこまでは狙い通り、赤く光る眼は彼女の動きを追っていた。
「はッ!!」
体に残った全力で、彼女は斧を、毒の化身に投げつける。
鋭い軌道を描いた斧は、化身のかざした手に弾かれて、岩壁へと弾かれた。
そこを狙って、彼女は肩から下げていた短弓に最後の弓を番え、撃つ。
びしり、と叩くような音を立て、矢は見事に、毒の化身の左目に突き立った。
猛毒の息を吐こうとしていたらしい化身は、目を押さえて仰け反る。
「――――――!!!!!」
嵐のような悲鳴を上げて、毒の化身は彼女に向かって拳を振り下ろした。
彼女は飛翔して、かろうじてそれを回避――武器はもう、なかった。
(毒を吐かれたらおしまい……
目を潰して悪いけど、毒は吐かないで!)
あとは逃げ回って、化身が出口を離れた隙を見計らう。
上手くいくかどうかは分からない。
「死んでも負けない……!」
そんな自棄になったような決意を固めた、その時。
「……え?」
一滴の雫が、彼女の頬に垂れた。
(地下水――)
という可能性は、彼女より低い位置に地底湖がある時点で違うようにも思える。
目でその出所を追えば、それは岩壁に突き刺さった彼女の斧から滴っていた。
そこに再び、毒の化身が彼女に向かって毒の息を吐こうとする。
「…………!」
だが今度は彼女が回避する前に、苦痛に顔を歪めて後ずさった。
くぐもった唸り声が、その鼻から漏れて地底湖に響く。
「…………?」
不可解な動きだった。今度は、彼女は何もしていない。
クエリは、やや勢いを強めて滴り続ける液体に気づいた。
まさか、これのためなのか。
(このしずくが、当たったせい……?)
なぜか体に活力が湧いてきた気がして、彼女は翼で大気を叩いて飛び上がった。
雫が身体に当たるたびに、力が強まるようにさえ感じられる!
目指すは、毒の化身に弾かれて、岩壁に深々と突き刺さった愛用の斧。
近づくと、その亀裂からはさらさらと液体が降り注ぎ、小さな雨になっていた。
そこに近づき、斧を引き抜く。
「ゎぷ――!?」
巨大な水鉄砲のように噴出した透明な液体に、クエリはハエのように叩き落された。
離れた横合いに誰かがいれば、岩壁の高所から噴出した大量の液体を見たことだろう。
ずぶ濡れになって石畳に落ちたクエリは身をよじるが、痛みはすぐに消えた。
その不自然さに恐る恐る背中に手をやると、服は破れたまま傷口だけが消えていた。
「…………!?」
液体は水のようにも思えたが、不思議と甘い匂いがする。
唇の隙間から入り込んでくるその味も、古くなった水ではなく、甘露を思わせた。
そして彼女が見たのは、悲鳴を上げてよろめき、地底湖へと更に後ずさる、毒の化身。
彼女の体に活力が戻り、苦痛や傷が消えたことと併せて考えると――
「……これが、アムリタ……!?」
大量の液体は、石畳に倒れたパースの亡骸も押し流そうとしていた。
それはいけない、と、彼女は飛び出すが、すると。
「ぶは……!」
確実に死んでいたはずの少年が、クエリの目の前で息を吹き返した。