13.少女はついに、竜に化身する
次の階への階段は、長かった。
あまり長いので、一度パースは扉を通り過ぎてしまったかと思い違えたほどだ。
だが、扉を開けて照明を起動させると、その理由は、すぐに分かった。
天井が、とてつもなく高いのだ。
それまでの各階の天井も高かったが、ここは倍以上に高い。
そして、なぜそのように作られているのかも、すぐに理解できた。
収容されているものが巨大なのだ。
地下の空間にもかかわらず、最期の日まで葉の茂っていたであろう枯れた巨木の数々。
合間には、林立する巨大な金属の柵や、深く掘られた濠。
その中には、死してなお、家よりも巨大な白骨が散らばっていた。
クエリが、思わずといった様子で声を上げる。
「でっかい……馬……?」
入り口から最も近い檻の中に崩れているその骨は、彼女のいう通り、馬に見えた。
パースは馬の頭蓋骨というものを博物誌で見たことはあったが、実物は初めてだ。
クエリにしても、その近くに転がっていた足の骨を見て分かったようだ。
見回せば、他の檻でも大きな動物の骨が、黒ずんだ染みの上に横たわっていた。
体毛や顔の肉がないので、生前の姿は想像のつかない者も多い。
だが、頭蓋骨だけでパースの背丈より大きな巨人や、大亀などは見て取れた。
水が張られていた形跡もないのに、巨大な魚の骨が横たわっている場所もある。
(霊薬は……無いか)
だが、もはや引き返すしかあるまい。
クエリの方に向き直ってそれを告げようとした、その時。
「誰か……いるのか」
それは非常に低く、今にも途絶えそうな声だった。
「…………!?」
「誰……?」
クエリが尋ねると、その声は答えた。
「プリメレファス……ここだ……
……私の幻覚では……なかったようだな…………」
声はそこで、一度途切れた。
クエリの顔を見ると、彼女も同じことを考えていたらしい。
「パース、行ってみよう!」
「うん……!」
数知れない巨獣の屍を収めた檻と、枯れ果てた大樹の隙間を走り、二人は走った。
少しすると、それはすぐに見えてきた。
丸太のような四肢と、長大な管のような鼻、二本の長い牙に蓮の葉のような耳。
それはパースにとっては博物誌の挿し絵でしか知らない、ゾウと呼ばれる巨獣だった。
ただし、目の前の檻の中にいる生物の様子は、挿し絵とは異なる。
まず、それは四肢で立てないのか、横たわっていた。
白化した多量の剛毛の下の肉体は痩せさらばえて、今にも崩れそうに見える。
「…………!」
しかしそれでもなお、圧倒的にそこに存在する巨体。
パースはそれに飲まれて言葉が出なかったが、代わりにクエリが尋ねてくれた。
「あなたが、えーと……プリメレファス……?」
「そうだ…………そう、名づけられた……
お前たちは……何という…………?」
白い滝のような剛毛の下から覗く、乾いて窪みつつある眼が、彼らを見ている。
ゾウという獣が、人語を喋るという記述はなかったはずだ。
だが確かに、長い鼻の下の口元は動いていた。
竜人の少女は、再びそれに答えて言う。
「アズ・ダハクの、クエリ・ルダーヴ。
ほら、パース」
「あ、え……!?
ま、マハルの村のパース・フェクティフです……」
二人が自己紹介をすると、プリメレファスと名乗った巨象は弱々しく返事をした。
「幼いが……竜人の戦士と、その付き人と見た……」
「ぷ」
「そりゃ君に比べればそんな扱いだろうけどさ」
揃えた指を口に当てて吹き出すクエリに、出来る限りの渋面を作って抗議する。
「ところでプリメレファス、不都合でなければ、色々と訊きたいんだけど……」
「……死にかけの私の答えで、構わないならば」
クエリが尋ねると、白く毛深い象は弱々しく鼻の位置を変え、答えた。
「そうね、まず……あなた自身のことを」
プリメレファスは、少し間を置いて語り始めた。
「私もさほど詳しくは知らない……だが……私はここで生まれた……」
「育ちも……ここ?」
「育つ、とは……正確ではない。わたしを産んだのは、実験……
我が魂と肉体は……万物の創生を再現する、試みによって……生み出されたのだ。
ここに晒された……無數の屍たちと同じくな……」
「万物創生の、再現……!?」
パースはその言葉を聞いて、驚愕した。
神々が悪鬼たちと力を合わせて海をかき混ぜたことで、万物が生まれた。
この世の中の起こりについての神話では、そのように説明されている。
プリメレファスの言うことが確かなら、少なくとも実験の一部は成功したことになる。
彼は巨象に、もっとも気になっていることを尋ねた。
「あの、その実験って……もしかして、最後に現れるっていう――」
「そうだ……神々が万物を作り出したのも、元はと言えば霊薬――
アムリタを作るついでに過ぎぬ。
竜人たちも……霊薬を求めた……他は……ついでだ。
私も……所詮はその再現を試みる過程に生じた、いわば付属物だ」
「てことは、ここには、本当に霊薬があるんですか……?」
更に尋ねると、巨象はゆっくりと瞬きをして、その先を続ける。
「創世の伝説は、知っているのだったな……
神々と悪鬼は霊薬を手に入れるために……協力して海をかき混ぜた……
その途中、海からは無数の瑞獣……新神……奇貨……そして、毒が生まれた。
世界最初の毒が化身となって現れ、世界を蝕もうとした……」
その知識は、パースの知る、人間の世界に伝わるそれと一致していた。
プリメレファスがどうやってそのような知識を得たのか、興味は尽きない。
ただ、パースはその続きを想像しつつ、聞き続けた。
「神々の一人が化身を殺し、もう一人の神が毒を飲み干した。
それで世界は救われたが……霊薬を作ろうとすれば、毒が生まれるのだ」
「……それは、つまり……?」
要領を得ないその言葉の続きを、パースは促した。
「……毒を殺し、その身に受け止めてくれる神々は……ここにはいない。
竜人たちは……私の耳で聞けた限りではだが……
実験で得られた、劣った霊薬を使って、次の実験で生まれた毒を中和する……
ということを繰り返していたらしい。ふふ……」
倒れ伏したままの巨象の、わずかに覗く口元から笑いらしき息が漏れる。
「霊薬を得んとすれば猛毒が生まれ、その猛毒を消すには霊薬が必要……
何とも……矛盾した話だな……」
そこで一区切りと見たか、クエリがため息をついた。
「……つまり、霊薬はとっくに使い切っちゃってるってこと?」
「実験の場で生まれて、すぐにここに閉じ込められた。
その私の耳で聞いただけのことだ……
霊薬がどこか、それが今も残っているのかどうかなど、知りようもないさ……」
「…………そりゃそうだけど」
たとえ創世実験の申し子だとしても、事のあらましを何もかも知っているはずはない。
パースは、この迂遠な巨大老獣に更に質問を重ねようとした。
だが、その時。
「何か来る……!?」
クエリのその言葉通り、空気が振動を強めていた。
床から壁、そして天井に揺れが伝わって、箱の中の空気全体が震える音。
それはすぐに大きくなり、何らかの重量物がここへ来るのだと感じられた。
直後、クエリが振り向いて睨みつけた先の金属の扉が、轟音とともに外れて、倒れる。
プリメレファスや、他の死亡した巨獣たちを入れるための物だったのだろう。
家よりも巨大な金属の引き戸を強引に押し倒して姿を現したのは、石の巨人だった。
「……え、何で?」
思わず、そんな言葉が口からこぼれた。
巨人の、石像としか例えようのない形状と、質感。
それが――どうやって関節を動かしているのかは分からないが――、動いている。
動く甲冑と遭遇こそしても、ここに来る途中、あのような大きなものはなかった。
そしてそれは、しっかりとした足取りでこちらに歩いてくる。
枯れた巨木をなぎ倒し、長い年月の間に床に溜まった塵芥を巻き上げながら。
(……逃げないとダメな状況……?)
こちらに歩いてくる巨人像を見てから、パースは臥せっている白い巨象の様子を見た。
彼とクエリは走って逃げられるだろうが、プリメレファスは?
クエリもまた、この動けない巨獣を置いて退避するかどうか、迷ったようだった。
白い剛毛に埋もれた老獣は、特に取り乱すこともなく二人に告げる。
「事情は分からぬが……逃げろ……私は動けぬし、お前たちにも動かせぬ」
「…………!」
パースは、プリメレファスを見るクエリの表情が変化するのを見た。
驚きとも、怒りとも取れるその視線を、彼女はすぐに巨人像へと戻す。
その人間の十倍はある歩幅で歩けば、20歩とかかるまい。
このまま行けば彼らを踏み潰すか、真上を素通りして背後の老象を踏み潰すはずだ。
それでもなお、どうするべきか決め兼ねていたパースに、クエリの声が聞こえた。
「パース、荷物よろしく……危ないから気をつけて」
「え……?」
「……あんまり見ないでね」
彼女は背負っていた荷物を捨てるように下ろすと、巨人像に向かって走り出す。
腰から生えた翼を大きく横に広げた彼女の全身から、靄のようなものが漂い始めて――
――そして少女は突然、巨大な青い竜へと変身し、巨人像へと飛びかかった。
「ガオォォォォォォォン!!!!」
少女の面影など欠片も残らない、怪物のような咆哮を上げて。