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ユルスク星辰調査室  作者: 井上数樹
第五話 終夏祭
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第三節

砂糖吐きそう。

「リネ君、何かあったの?」


 ごめんなさいのすぐ後にミルッカの口から出たのは、そんな質問だった。いや、三白眼で睨んでいるため、ほとんど詰問と言っても良いだろう。キルスティンは普段通りに振る舞っているが、どこか憂鬱そうな雰囲気を漂わせているし、リネットはリネットで顔に暗い影を落としていた。何かあったのかとミルッカが訝しむのも無理からぬことだった。


「あ……いえ」


 リネットは少し口ごもってから否定した。キルスティンから聞かされた話は、決して他人に洩らさないということになっている。

 キルスティンからは完全に振られてしまった。だが、彼女にとって恋愛感情よりも遥かに大切なことを自分に語ってくれた。それは、あるところ自分のことを認め、信頼してくれたからなのだろう。

 恋人にはなれなかったが、信じるに足る人間だと認めれてもらえた。もちろん悔しさを感じてはいるし、落胆を覚えてもいるが、空虚さだけが残ったわけではなかった。重大な秘密を預けられるというのはそれだけで名誉なことなのかもしれない。しばらく胸の疼きは消えないだろうが、いずれ大きな自信へと変化するだろうという予感があった。


「気にしないで良いですよ。キルスティンさんも……俺は、なんともないですから」


 リネットは少しだけ寂しそうに笑った。そんな彼の表情を見て、彼ならいつか誰かを幸せにしてあげられるだろうなとキルスティンは思った。ミルッカはミルッカで、どこか大人びた空気を漂わせている彼を生意気だと感じてもいたのだが。

 外に出ると、すでに日が暮れかけていた。おまけに風も吹いていないため、橇船を飛ばしても調査室までは戻れないだろう。


「困ったわね……」

「村に泊まる?」

「そうね。望遠鏡を貸してもらって、ちょっとだけでも観測しておかないと」

「でも、まだ明るいよ」

「だから、それまでは遊ぶのよ」


 呆れるミルッカを引っ張ってキルスティンは歩き出した。こんな顔をしていても、内心では乗り気でいることまで彼女は見抜いていた。ミルッカの素直でない性格は、本人にとっては損なものかもしれないが、傍から見ている分には面白いし可愛い。


 空を覆う闇を払うように、村のあちこちに吊り下げられたランタンから橙色だいだいいろの光が放たれている。七色の飾り布が、歌声や歓声、汗や酒の臭気とともにそよ風のなかで揺れていた。

 人の流れに飲まれて二人はあちこち歩き回った。露店で適当に食べ物や飲み物を買い、歩きながらそれを食べた。味を楽しむというより、祭りの空気や、行儀悪く振る舞っても誰も気にしないという状況を楽しんでいた。普段は窮屈なところに詰めているせいか、キルスティンはミルッカの手を引いてどんどん人ごみの奥へと入り込んでいく。

 村の広場には大きな焚き火が燃やされ、少年少女が手を繋いで踊っていた。女性の方は頭に夏草や花で編んだ冠を被っている。極海領に昔から伝わる風習で、未成年者は花冠を被って終夏祭を過ごし、翌朝に海に流すと、一年の健康が守られると言われている。


「ねえミル、せっかくだから買わない?」

「や、やだよ恥かしい! 十六にもなって花冠なんて……って、ちょっと! キリ!」


 ミルッカの返事を待たずに花冠を買ったキルスティンは、恥かしがって身をよじるミルッカの頭にそれをのせた。


「うん、似合ってるよ」

「じゃあキリも買いなよ」

「私は駄目よ。もう十八歳を越えちゃったもの」

「ずるい!」

 キルスティンはくすくすと笑った。

「あとで海に流せば、一年間健康でいられるわね」

「ふんっ、こんなの無くたって、僕は大丈夫だよ」

「ふふ、そうね。ミルは元気だものね」

「キリの方こそ、気をつけなきゃダメだよ?」

「分かってるわ……ねえ、少し踊らない?」


 キルスティンが手を引いて、焚き火の周りに出来た輪の中に引き入れようとする。


「またそんな……普通、男と女で組になるんだから。女同士なんて変だよ。絶対目立っちゃう」

「良いじゃない。一人ぼっちで踊るよりずっとマシよ」

「そこまでして踊らなくたって……って、言っても無駄なんだよね」

「ええ! 雪が溶けたら野イチゴを摘み、屋根が隠れたら雪かきをしろって言葉にならわなきゃ」

「旬には旬のことを、だね」

「そうよ。私にもミルにも、この夏は一度しか来ないんだから。さあ、来て!」

「はいはい」


 曲の途切れ目を待って、二人は輪の中に跳び込んだ。

 さほど激しくない、手に手をとってステップを踏んだり、まわったりするだけの簡単な踊りだ。ヴァイオリンや横笛が軽妙な音楽を奏で、それに合わせて影法師がゆらゆらと揺れる。

 キルスティンの手を取ったミルッカは、ぎこちない彼女を一歩リードする形でステップを踏んだ。お世辞にも上手とは言えないが、キルスティンは満面の笑みを浮かべていた。

 一周、二周と焚き火の周囲を回り、音楽が変わるたびに少しずつステップを変える。その度にキルスティンは、長いスカートを踏んでは転びそうになったが、ミルッカはその手を引っ張るようにしてなんとかリードし続けた。

 少しからかってやろうかという意地悪な欲望が、ミルッカの中で沸き起こって来た。そうして顔を上げた時、ミルッカの時間が止まった。


 紅葉色の長い髪が舞い、その隙間からまるで木漏れ日のように焚き火の光が覗いた。赤い髪が一瞬燃え上がったかのように輝く。それは音楽の中の一小節、あるいはステップとステップの間に現れた刹那の美だったが、はっとするような鮮烈な印象を備えていた。音も臭いも触感も、何もかもが宙空に静止し、ただその光景だけがミルッカの瞳に焼き付けられた。


 世界の秒針が時を刻み、一切が動き出した。


 呆けていたミルッカはバランスを崩し、彼女に身を任せていたキルスティンもたたらを踏んだ。踊りの輪から転がり出た二人は、よろよろと空いた椅子まで歩いて行って、思い切り背中をもたれさせた。汗で額に髪を張り付けたキルスティンが無邪気に笑っている。ミルッカは、胸が疼くのを感じた。


◇◇◇


 二人分のマグカップを持って、ミルッカは丘を登った。丘の頂上には折り畳み式の椅子に腰かけたキルスティンが望遠鏡を除きながら、手元のノートに文字を書き込んでいる。時々エーテル懐炉を取り出しては両手を温め、また鉛筆を取り上げる。


「お疲れ様、キリ」

「ありがとう」


 キルスティンは両手で紅茶の入ったマグカップを受け取って、二、三度息を吹きかけた。立ち上った湯気で眼鏡の表面が曇る。その白い筋を目で追いかけていくと、満天の星空が視界いっぱいに広がった。月明かりが祭りを終えて静かになった村の家々を照らしている。まだ飲んでいる者もいるのか、灯りのともったままの窓が燃えさしのように点在していた。


「何だか、変な感じだね」

 ミルッカは呟いた。「なにが?」とキルスティンが聞き返す。

「調査室の周りには家なんてないから、ああいう風に光が見えてるのがおかしいなって……それだけ」

「そうね。いつもは辺りに何も無いから、確かに変な感じがするわ」

「ねえキリ、前から聞こうと思ってたんだけどさ」

「なに?」

「キリはどうして星辰調査官になったの? キリくらい頭が良かったら、他にどんな仕事にだって就けたと思うんだけど」

「ふふ、そうねえ……」


 夜空を見上げながら、キルスティンは思案した。ミルッカは近くに転がっていた岩の上に腰を下ろす。


「一口では言いきれないわ、色々理由があるもの。社会の役に立つような仕事がしたいって思ったし、この眼を有効に使いたいとも思った。お給料が良いから実家に仕送りも出来るし、少しくらい散財したって何ともならないし……でも一番の理由は、変わらないものを眺めていたかったからだと思うわ」

「変わらないもの?」

「そう。今日明日、私が死んでもちっとも変わらないようなもの。そりゃ、些細な違いは毎日見つかるけど、星そのものがいきなり消えてなくなったりすることなんて無いわ」

「どうして、変わらないことが良いことだと思うの?」

「うーん、良いことって言うのとは、ちょっと違うかな。安心するのよ、私の場合はね? 私と言う存在が消えてなくなっても、星の光は変わらず地上に降り注いで、私と一緒に過ごしてくれた人たちを照らし続ける……まあ、つまるところ同じ星の下に居るっていうだけよ。それをずっと実感していたいから、星辰調査官になったの」

「消えてなくなるって……」

「不吉?」

「うん」


「消える」という言葉を聞いた時、ミルッカは自分の心臓が縮んだのを確かに感じた。極寒の海に放り投げられたかのように、全身がふるりと震えた。キルスティンが居なくなるなど、考えたくもない。


「天文学の本を読んでるとね、想像も出来ないほど大きな数字が当たり前のように出てくるの。時間、距離、質量、どれもがこの星の上の、人間の世界で起きることとは違ったスケールで語られる。星みたいに途方も無く長い間存在し続けるものがある一方で、人間のように七十年くらいしか生きられない存在もある。ここまで大きな差異があると、誰かが世界を作った時に、そういう風に時間を割り振ったんじゃないかって、私はそう思うの」

「だから消えていくことも怖くないって?」

「そう。つまり、運命ってことね」


 そんな曖昧な言葉を、キルスティンはこともなげに言ってのけた。そんなに軽々しく言うような言葉でもないだろうに、とミルッカは思ったのだが、だからこそ達観しているともとれるのだ。


「僕は、まだそんな風には考えられないな。ってか、理屈ばっかりの話なんて嫌だよ」

「本が読めるようになったら、哲学のことだって分かるようになるわよ」

「ええ……哲学って言葉の響きが、まず気に入らない」

「また、そんなこと言って。食わず嫌いは駄目よ。食べたことの無いものを食べて、行ったことの無い場所に行かなきゃ」

「僕は今のままで十分満足してるよ」


 ミルッカは、この生活が何も変わらず、ずっと先まで続いていくのだと信じていた。それは期待というより信仰に近く、故に疑うこと自体が彼女にとっての禁忌タブーと化していた。

 少しでも現実を直視すれば、そんなことはあり得ないのだと簡単に気付けただろう。キルスティンがいくら調査官の仕事を気に入っていたところで、組織の上層から命令が下れば動かざるを得ない。それに必ずついていける保証などどこにも無い。

 それでも、疑いたくなかった。信じていたかった。キルスティンと一緒に過ごす時間が、ミルッカにとってはあまりに暖か過ぎだのだ。


 後にミルッカは、この終夏祭の翌日に起きた戦争が、ぬるま湯に浸り続けようとした自分に対する罰なのだと考えるようになった。

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