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ユルスク星辰調査室  作者: 井上数樹
第五話 終夏祭
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第二節

 キルスティンが降りて来ると、ミルッカはコップを空にして立ちあがった。漁師たちが火酒の瓶を持ち上げて、調査官殿も一杯どうです、と勧めてきたが、キルスティンはやんわりと断った。

 

「良いんじゃないの? 一杯くらいならさ」

「ダメよ、私がそんなにお酒強くないの知って……って、ミル。確かさっきは紅茶飲んでなかった?」

「んん? 飲んだよ?」

「お酒も飲んだでしょ」

「うん」


 駄目じゃない! とキルスティンは叫んだが、ミルッカはいつも通りの無表情で軽く首を傾げた。頬が若干赤くなっているが、瞼はぱっちりと開いているし、足もふらついていない。


「極海領の人間なんて、みんなこういう風に出来てるんだよ? 僕の居た部族だって、早い子だと十二歳くらいで火酒を飲んでたからさ」

「そういう問題じゃ……ミル、貴女まだ未成年じゃない」

「むうぅ、堅苦しい」


 ミルッカが頬を膨らませる。確かに極海領に住む人々は、長い歴史のなかで酒に対する抵抗力を強めてきたが、それでも四○度を超える酒を飲んで少しも酔わないということはなかった。

 そしてミルッカは、酔って気分が大きくなると、少々意地悪になる傾向があった。

 彼女は滑るような足取りでキルスティンの背後に回り込む。運動神経の鈍いキルスティンは反応出来ず、振り返ろうとした時には、ミルッカに両胸をしっかりと握られてしまっていた。


「うーん、ここはこんなに柔らかいのに」


 ミルッカの感想に、それまで黙って見ていた漁師たちが「おおっ」と歓声を上げる。


「ば、バカ!」


 顔を真っ赤に染めたキルスティンが、髪を振り乱して逃れようとする。三つ編みが鞭のようにミルッカの顔を叩き、それに驚いた彼女が態勢を崩したのに巻き込まれて、キルスティンはミルッカを背負うような形でよろめいた。「わっ」とどちらか、あるいは両方が呻いた時にはすでに手遅れで、二人は足を絡ませたまま扉の方に向かって倒れようとしていた。

 そうして、ちょうど扉を開けたリネットが、キルスティンの身体の下敷きになった。ゴツン、と鈍い音がした。キルスティンが慌てて身体を退けたものの、リネットは、キルスティンの胸がぶつかった瞬間のいかにも幸せそうな表情をしたまま、泡を吹いてのびてしまっていた。


◇◇◇


 リネットが目を覚ました時、ベッドのすぐ傍の椅子にキルスティンが座っていた。彼の瞼が開いたことに気付くと、少しほっとしたような表情になった。


「あ、あの、なんでキルスティンさんが……」

「憶えてない? 私とミルがはしゃいじゃって、リネ君を巻き込んじゃったのよ。それで頭を打って、気絶しちゃったから……ごめんなさい。あとでミルにも謝らせるから」

「いや、そんな」


 そこでリネットは、気絶する直前に感じた柔らかさを思い出した。頭に血がのぼり、顔が真っ赤に染まる。両膝を立ててもじもじと動く彼に「具合が悪いの?」とキルスティンがたずねるが、リネットは要領を得ない呻き声を漏らすだけだった。


「だ、大丈夫ですから! 本当に……」


 キルスティンは気付いていない。それなら、自分の記憶の棚に、ありがたく収めておこうとリネットは思った。毛布を払いのけてベッドから起き上がる。まだ少し後頭部に痛みが残っているが、気にするほどのものではない。


 元気そうな彼を見て安心したのか、キルスティンが柔らかな笑みを浮かべた。野暮ったい色眼鏡をつけてはいるものの、それでリネットにとっての彼女の魅力が損なわれることは、少しもなかった。

 ただ、彼女が自分に向ける視線には、どこか憂いのようなものが含まれている。混乱が収まってくると、リネットはそれが自分の着ている服に向けられていることに気付いた。

 彼は軍服を着ていた。これから二年間、場合によってはそれ以上この漁村を離れることになるため、イェリクが昔着ていた軍服を借りて挨拶に回っていたのである。今より幼かったころは、ずいぶん大きな服に思えたが、今の彼にはちょうど良い丈の長さとなっていた。


「ミルやイェリクさんから聞いたわ。リネ君も軍隊に行くのね」

「はい。男ですから、兵役とか、早いうちに済ませておかないといけないかなって……」

「うん。リネ君が決めたことだから、私はとやかく言ったりしないわ。ただ、気を付けてほしいだけよ」

「はい、頑張ります……だから、そんな心配そうな顔しないでください」

「……そういうわけにはいかないわ」


 キルスティンの微笑が、少し苦しげな形に歪んだ。


「キルスティンさんは、戦争が起きるって思ってるんですか?」

「分からないわ、そんなことは……」

「じゃあ、心配しなくたって大丈夫ですよ」


 リネットの言葉は能天気だが、口調にはわざとらしいほどの優しさや思いやりが透けて見えていた。年下の少年がそういう風に気を使うのは生意気だと思う反面、それがこのリネットという素朴な少年の美点であり、兵役という道を選ばせたのだと思った。

 大人しいが消極的ではなく、自然と他者のことを考えられるのは素晴らしいことだと思う。だが、何を対価にしてそれを成すのかということについては、まだ想像力が追いついていないのではないか。それが彼の危うさであり、ひいては若さなのだ。

 それを、三つしか歳の離れていない自分が指摘するのは滑稽だと思うし、あまり説得力を持ちもしないだろう。


 しばらくの間、二人は何も言わずに視線を手元へと落としていた。

 キルスティンにはもう話すことなど残っていなかったが、このまま出ていくのは何となく気が引けたし、まだ何か言い残したことが無いかという自問のため動けなくなっていた。この機会を逃せば、少なくとも二年間は会うことの出来なくなる相手だ。その間に自分はユルスクを去っているかもしれない。

 一方リネットは、キルスティンと二人きりで自室に居るという状況に少なからず興奮していた。相手は憧れの女性で、しかもこれからは会う機会も格段に減ってしまう。

 終夏祭という特別な日であるということも、彼を大胆にさせる要因となった。軍服を着て少しだけ大人びた気分になっていたことも。いずれにせよ、機会は今くらいしか無い。


「…………キルスティンさん」

 リネットはベッドに腰掛け、椅子に座っているキルスティンと向き合った。

「なに?」


 キルスティンは無防備な微笑を見せている。他人と接する際の、彼女の自然な表情が、片想いをしている少年には至極魅力的なものに思えた。

 胸の動悸を沈めたり、どういう言葉を紡ぐべきかと思考することに、しばらく時間を割いてしまった。いざ言葉を出そうとすると喉に泥が詰まったかのように音が出なくなってしまう。そのどん詰まりが、リネットにとどまらず全ての少年にとっての障壁でもあるのだが……彼はそれを乗り越えた。


「キルスティンさん、俺、貴女のことが好きです!」

「……ッ!」


 勢いに任せて吐き出した言葉は、やや上ずっていたが、それでも確かにキルスティンに届いていた。眼鏡の向こうで彼女の瞳が大きく見開かれる。小さく息を呑む音がやけに官能的に聞こえた。


「それは……」


 キルスティンは困惑したまま、もじもじと両手の指を絡み合わせた。だがそれは、彼の告白に心を動かされたからではない。確かに不意を突かれて動揺してはいたものの、彼のそういう感情には薄々気づいてもいたので、いつかは言われるかもしれないな、とは思っていた。ただ、それが今だとは予想外だったのだ。

 それは、ともう一度言って、「友達として?」と口に出しそうになった。が、やめた。少年の純真な告白に対するには、それはあまりに卑怯な態度だと自覚していたからだ。だから、彼女に出来ることは、真正面から一刀両断にすることだけだった。


「ごめんなさい」


 キルスティンは小さく頭を下げた。リネットが息を詰まらせ、それから大きく吐き出した。先ほどまで緊張で張りつめていた肩が、まるで骨を失ったかのようにだらりと垂れさがっていた。そうして虚脱していたのは一瞬で、五秒も経たずに表情を整えると、気恥かしそうに指で頬を掻いた。


「やっぱりガキは駄目ですよね」

「そうね。私から見たら、リネ君は少し若すぎるわ」

「はは……」


 少年は苦笑したが、それが無理をして浮かべていることくらい誰にでも分かる。傷つけてしまって可哀想だとは思ったが、それ以上の感情などキルスティンには抱きようがなかった。だが、異性として見ることは出来なくても、リネットは十分に良い気質を持った少年だとキルスティンは思っている。


「でも、嬉しいわ。正面から告白してもらうことなんて、初めてだから」

「そうなんですか?」

「ええ。こんな風に、変な眼鏡をかけてる女の子なんて、あまり魅力的には見えないはずよ? まあ、それでも何通かラブレターを貰ったことはあるけど……正々堂々と正面から言ってくれたのは、リネ君が……あれ……」


 そう言えばミルッカからも「好きだ」と言われていたが、同性だから数えないことにした。


「ともかく、リネ君の実直なところが好きだよ。どこに行っても、何歳になっても、変わらないでいて欲しいわ」

「なら、あと五年くらい経ってそれでも性格が変わってなかったら……」

「…………五年は、無理よ」

「そ、そうですよね。すみません、バカなこと言って……」

「違う、そうじゃない……そうじゃないのよ」


 リネットは、キルスティンのただならぬ雰囲気に気付いた。穏やかな口調はそのままだが、表情に影が掛かっている。


「キルスティンさん、何か……」


 彼の呟きを押しとどめるように、キルスティンは眼鏡を外してその琥珀色の瞳を彼に向けた。縁には、うっすらと涙が溜まっていた。


「リネ君が……好きだって言ってくれて。それは、本当に嬉しいわ。君が大人になるまでの時間を待つことが出来たなら、本当に、君を愛するようになっていたかもしれない。でも、駄目なのよ、私は」


 この眼のために、と彼女は続けた。


「その頃には、私はもう、君もイェリクさんも……ミルのことも、憶えていられない」

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