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ユルスク星辰調査室  作者: 井上数樹
第四話 キルスティンと雪原の迷子
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第二節

使い捨てのつもりが、意外と使い勝手が良かったリネ君。

「さあ漕ぎ出せ、リネ君!」

「は、はいぃ……!


 小舟の船首にドンと片足を乗せたミルッカは片手に竿持ち水平線を指さし、まるで海賊の女首領のように命令した。リネットは言われるままにオールで海面を掻き混ぜる。


 こうなったのは、何てことは無い、十数分前にミルッカがその優れた視力で今にも漕ぎ出そうとしていたリネットの姿を見つけたからだ。リネットは完全に趣味で釣りをしにきていたのだが、ミルッカの圧力と「キリが喜ぶよ!」という殺し文句に負けて、同乗を許したのである。舟には小さいながらもマストがついているが、無風のため使えない。手で漕いで沖に出るしかなかった。

 もちろん、ミルッカが何もしていないかというとそうではなく、彼に操船を任せるかわりに釣竿の仕掛けの準備や、餌となるミミズやゴカイをナイフで切り分けていた。同い年の同性どころか、少年ですら嫌厭けんえんしそうなグロテスクな姿にも、ミルッカはまるで動じない。その手つきは非常に手慣れていて、舟が十分にこぎ出す前に仕掛けも何もかも終わり、見張りへと仕事を移した。


 舟釣りをする時は、鳥の姿を探せば良い。ミルッカは過去にそう教えられており、何度も舟釣りをするなかでその効果を実感するようになっていた。

 鳥が集まるのは海中に集まった小魚を捕るためで、ちょうど良い目印になってくれる。また、小魚を食べに集まった大物が針に掛かるかもしれない。ミルッカとしては、キルスティンを驚かせるためにも大物釣りを狙いたいところだった。


「……いた。北東の方角に舵を向けて」

「あの鳥の群れがいるところですか?」

「そう……あ、跳ねた。鮭だね」

「分かるんですか?」

「お腹の色までちゃんとね。まあ、時期が時期だから、そんなに美味しくないだろうけど……」


 双眼鏡も持たずによく分かるな、とリネットは思ったのだが、今日始まったことではない。これまでにも何度か同乗させたことがあったのだが、彼女が魚種を言った後実際にそのポイントに向かってみると、まさにその種類の魚ばかり釣れて驚かされたことがある。今更疑おうとは思わなかった。

 リネットは船首をそちらに向け、上手く潮の流れに乗せた。舟の切っ先が波を割き、水の粒が宙を舞う。雲の切れ間から光線が差し込み、海面の一部をきらきらと金色に輝かせていた。緩やかに吹く風が二人の髪を揺らし、冷気と塩気を含んだ大気にすっかり包まれてしまった。

 ふとリネットが真上を見ると、海鳥たちが鳴き声を上げながら旋回している。矢のように海面に飛び込んだかと思うと、嘴に銀色の鱗を持った魚を咥えて再び上昇する。ミルッカはそっと海中に錨を投じた。


「リネ君、僕が船首側で良いかな」

「良いですよ。餌は付け終ってますか?」

「うん。はい」

「どうも」


 ミルッカは船首に、リネットは船尾に座ってそれぞれ海中に釣り糸を垂らす。波は穏やかで、舟を泊めていてもほとんど揺れは無かった。舷側から海中を除くと、澄んだ水の向こうに無数の魚影が行ったり来たりしているのが見える。だが、簡単に入れ食い状態になってくれないのが釣りの難しいところだ。そういう時は待っている時間を楽しむべきだと、二人とも釣りの先達から教えられていた。

 リネットはパイプを取り出して、覚束ない手つきで煙草を詰めようとしている。その様子を見たミルッカは少し意外に思い、からかってやりたくなった。


「生意気だね、リネ君」

「十六になったお祝いだって、知り合いがくれたんですよ。生意気だなんて……ケホッ!」

「あっははは! 駄目じゃないか!」


 リネットは耳の先端を真っ赤にしながら、しかし何も言わずにパイプを咥えた。そういう少年らしい意地の張り方は可愛いな、とミルッカは思った。と同時に、いつの間にか彼が十六になっていたことにちょっとした対抗心のようなものを抱いてもいた。ミルッカは遅生まれなのだ。

 二人のやり取りはそれだけで終わった。することの無いミルッカは、ぼうっと四方を眺めた。


 南の方角、二人がやってきた方向にはユルスク雪原が広がっている。だが、夏の真っただ中であるため、所々青い植物の群生した場所が見える。このわずかな期間だけ、ユルスクでは植物が育つのだ。今の時期は河川も凍っていないため、動物たちが集まってきては冬に向けて栄養を蓄える。キツネが現れたのもそのせいだろう。

 反対に、北の方角には大きな雲の幕が垂れている。人知の領域と『神々のフラスコ』を隔てる天然の門扉だ。二年と少し前にミルッカが『神々のフラスコ』を抜けてきた時も、あの雲の壁の中を通り越してきた。先日リネットの父親たちを助けに言った時も、暴風や高波にずいぶん肝を冷やされたものだ。

 これから先、二度と行くことは無いだろうな。そうミルッカが思った時、手元の竿がグンと揺れた。


「おっ」

「来ました?」

「うん……結構アタリがキツいな。重くないけど、力がある」


 そんな言葉とは裏腹に、ミルッカは冷静に竿のリールを巻いていく。いつだったかマリエスタードで見たような高級品とは比べ物にならないほど粗末な竿だが、リールの有無は非常に大きい。

 掛かったからと言って、迂闊に巻きすぎてはいけない。そんなことをすればすぐに糸が切れてしまう。じっくりと獲物を消耗させ、弱り切った瞬間を見切って釣り上げる。釣りはそういう駆け引きの上に成り立っているのだから。

 ミルッカはしばらく泳がせてからリールを巻いた。だが、抵抗がまだまだ強いことを感じ取ると、すぐに力を抜いて相手の泳ぐに任せる。そしてまたしばらくしたらリールを巻いて、という繰り返しだ。

 十回ほどそれを繰り返しただろうか。糸が尽きる直前でミルッカは攻勢に転じた。腕に力を込めて全力で巻き取る。糸の先で魚が暴れているのが分かる。腕に熱が溜まると、それを逃すためにしばらく力を抜いた。再び糸が伸びていくが、最初ほどの勢いは無かった。

 ミルッカがリールを巻く。海面に魚影が浮かび上がって来た。彼女が全身で竿を引き上げると、水滴をまき散らしながら魚が跳ねた。すかさずリネットが網を差し込んで掬い上げる。

 体長八十セルメトラ(センチメートル)程度の鱈だった。釣り上げられてもなおびちびちと暴れる鱈の口から、ミルッカは釣り針を抜いて海水を溜めたバケツに放り込んだ。


「鮭が良かったな」

「十分大物じゃないですか。鱈で八十なんて、なかなか釣れませんよ」

「もっと大きいのが良かったけど、まあいいや……って、リネ君! 引いてる引いてる!」

「え? うわっ」


 リネットが慌ただしく船尾へ移り、海中に引きずり込まれそうになっている竿を両手で掴んだ。竿の持ち方はなかなか堂に入っていたが、不意打ちを受けた感は否めない。


「……いけそう?」

「なんとか」

「手伝うよ」


 ミルッカは網を持って船尾へと移り、リネットが魚を引き上げて来るのを待った。彼は態勢を建て直し、両足をしっかりと舟の横板に当てて踏ん張った。

 じりじりとリールが巻かれていく。紅潮した頬や額には汗が流れていた。その張りつめた横顔に、隣で見ていたミルッカもつられて緊張してしまった。唾を呑む音がやけに大きく響いた。

 澱んだ海水の中から、魚影がゆっくりと浮上してくる。銀色の背びれが水面を割いた。かなりの体格だ。一・三メトラ程度はあるだろうか。夏の最中にこれだけ肥えているというのは珍しい。

 リネットの格闘は十五分ほど続いた。さほど長い時間が経ったわけではないのだが、当事者と乗り合わせたミルッカはそうではなかった。いけるか、いけないかという駆け引きが起きるたびに神経が張りつめ、それを二度三度と繰り返すだけでずいぶん消耗した。

 それだけに、あっさりと決着がついてしまった時は拍子抜けだった。糸がぷつりと切れ、魚は小馬鹿にするように海面を尾鰭おびれで叩くと、そのまま潜って行ってしまった。

 はあ、と二人は溜息を漏らした。


「惜しかったね……」

「そうですね。結構大きかったな。あれ、鮭でしたよね?」

「うん」

「そうかあ……」


 リネットは悔しげに自分の太腿を叩いた。針を失って、ぷらぷらと揺れている糸を恨めしそうな顔で睨んでいる。


「そう気落ちしなくたって良いじゃないか。釣りってそういうものだろ」

「……そうですけど」

「大丈夫だよ、次があるって」


 ミルッカは少しおざなりに慰めてから船首に戻った。リネットはいい加減に糸を眺めるのをやめて、新しい糸と針を取り付けにかかっていた。振り返って彼が作業に戻ったのを確認してから、ミルッカも針に餌を通して海に投じた。

 リネットが、ふいに話しかけてきたのはその時だった。


「ミルッカさん」

「何?」

「俺、海軍に行くんです」

「…………そう?」


 唐突に飛び出て来た言葉にミルッカはつい呆けた声を出してしまった。彼の告白に対してあまりに不適切な返事だったと反省するが、慌てて訂正するようなことはしなかった。ただ、彼の言い出した言葉に困惑していた。


「海軍って、軍隊だよね?」

「はは、そりゃそうですよ」

 リネットは能天気に笑った。

「そんな呑気なところじゃないでしょ。笑ってる場合じゃないと思うけど」

「……」

「本当は行きたくないんじゃないの?」


 リネットは口をつぐんだ。背中を向けたままゆらゆらと釣竿を揺らしている。


「十六になったって言っても……リネ君だって、まだ子供じゃないか。イェリクさんだって反対しただろ?」

「……はい。でも、もう決めたことなんです。願書だって出しましたから、もう後戻りできないんです」

「どうして……」


 ミルッカの脳裏に思い浮かぶものがあった。彼女がかつて暮らして部族で行われていた、口減らしの風習のことを。

 極海領の冬は厳しい。食料は満足に得られず、備蓄するにしても限界がある。部族が大きくなればなるほど生活の維持は大変になっていき、最終的に他者から強奪するしかなくなる。だが、それが非効率的であることは言うまでもない。

 その問題を解決するのが、口減らしの風習だ。

 生産に寄与できなくなった老人や障害を負った者、部族に対して貢献度の低い者が選ばれ、身一つで雪原や海に放り出されるのだ。実質的には死の宣告そのものである。


 だが、人々はそうして生き延びてきた。これもまた、動物としての人間の在り方の一つなのだ。


「この前親父たちが遭難した時に、漁船に色々不具合が出たみたいで、ドック入りになったんです。それで船もお金もなくなって、今年の冬は本当に厳しいって……村の若い男は、みんな軍隊に行くって言ってます。網元の息子の俺だけが、一人で村に残るなんて出来ませんよ」


 大丈夫ですよ、戦争に行くことはないでしょうから。そう言ってリネットは笑ったが、ミルッカは彼の強がりを簡単に見破ることが出来た。見破った上で、何も言ってやることが出来なかった。漁船が遭難したそもそもの原因を、彼女はキルスティンから聞かされているのだ。その内容があまりに現実と乖離していたからまともに考えていなかったが、この時になって、急速にリアリティを持ってミルッカに迫って来た。


「……そっか」


 男の子だもんね、大変だよね。

 はい。


「元気に過ごすんだよ? 怪我とか病気とか、なっちゃ駄目だからね?」


 それは滑稽な物言いだったが、不器用なミルッカに言える最大限の気遣いでもあった。

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