見えない糸
誘蛾灯、というのは実に理に適った装置であるとお考えになる人は多いでしょう。皆さんの中にも、そう心に留め置かずとも一度ならずは感心された方もいらっしゃることと存じます。誘蛾灯の優れたところは言わずもがな、羽虫が自らを焼き滅ぼす光へ飛び込んでいくという、犠牲者を招集する機能がまた殺戮を行う機能にもなっているところにあると言えるでしょう。まさに飛んで火に入る、というものでありましょうか。しかして習性、というのは実に恐ろしいものであります。御賛同頂けますか? 羽虫が電燈へ向かっていく、というと其処に彼らの意志があるかの如く思われます。しかし、実際には彼らが光に対してある角度によってしか飛ぶことが出来ないという習性こそ、光の壺の底に蟲毒の法よろしく虫達を掻き集めるのです。むしろ其れは、彼らが光に囚われたといった方が的を射ているのではありませんか。決して逃れ得ず、一定の方向へしか進むことを許されない虫達が、電燈を覆う透明な板にその身を打ちつけながら、やがて薄羽は破れ、苦悶の果て六本の脚を細い針金のように絡ませてた死骸となる。彼らの死骸は乾いて転がる一つの塵となるのです。自らの性によって。
自由意志は存在せず、古代から生きる見えざる不気味な手が頭上に翳されているのです。
我々、人間にとってこの光は何でありましょう。――ほう、正義。成程、そちらの紳士の仰られるところ、実に深遠なる問題提起ではないでしょうか。そう、オレステイアの悲劇のように、二極を行きつ戻りつする不確実で絶対の概念を、追わずにいられぬ人の性は確かにそうであるかも知れません。「哀れ哀れと言うものは言え、だが善き方が勝ちまさりますよう」、これ程切実な人の願いが、歴史の中で一体幾度叫ばれたことでしょうか。ま、結局は人を呪わば穴二つと言ったところで御座いましょうかね? 他には――、愛ですか成程。非常に説得力のあるお言葉を有難う御座います、夫人。いえいえ、滅相も御座いません、別に妙な意味などは……。そうですね、愛に振り回された挙句に身を滅ぼすものはそう言えるかも知れませぬが、主観や客観に結末が左右される分においては些か性質が異なるのかも知れません。ただし人を愛さずにはいられないとこう所には、我々の走性があるのでしょう。
さて。光について詰まるところ、私が申したいのは一つの不条理ということです。逆らえぬ運命、宇宙の法則を思わせる絶対性、大理石の微笑なのです。先のお二方からは我々人間の二つの性質について提言を頂きましたが、私はそれらとは違う、もう一つの不条理についての、一人のある男が遭遇した摩訶不思議なお話をお聞かせ致しましょう。
その男の名はHと言う。生物学者の端くれで、よく野山を一人で歩いてまわっていた。彼が信心深い人間でないことよく表すように一切の超自然を否定し、自己を強くもつ一種の超人のように振る舞う、知性と自尊心に満ちた人であった。ある晴れた春の日、H博士はいつもは行かない少し離れた山へ、研究に使用するサンプルの採取に向かった。彼の助手は山の近くの村落まで、馬か自動車か、列車かで行くことが出来ると言ったが、H博士は市中で馬車を拾うことにした。馬は乗り慣れていないし、自前の自動車を畦道で乗り回して傷つけたくない。列車は人で込み合うし、何より博士は待つのが嫌いであった。博士が停めた馬車の御者は行き先を聞いた途端に嫌そうな顔をして、仏頂面で料金を言った。博士はそれを値切って、ようやく客車へ乗り込んだ。
「旦那。あんな辺鄙なとこまで、一体何しに行くんで」
御者は、畦道で車輪が痛むことを気にしながら尋ねた。
「虫を獲りに行く」
H博士は言った。
山まで行くと、博士は躊躇することなく藪の中へ踏みこんでいく。暖かい春の日差しに目を覚ました虫達が、雪解けの水分を含んだ土壌に蠢いているのを、H博士は手際良く採取していった。昼になり、博士が山の中腹の草原で休憩していると、腰かけていた子牛程の岩の横手に『Ⅴ』と、石灰のようなもので書いてあるのを発見した。はて、こんな所に来た人が私以外にあったのだろうかと彼は思った。そして、この文字が何を意味するのだろうかともH博士は考えた。博士が暫くこの周囲を探っていると、今度は岩から離れた西の茂みへ行ったところの木の幹に『Ⅳ』と書いてある。誰かがここに屋敷でも建てるために、何らかの測量を行ったのだろうか。しかし、この山中に家屋を建てるのは無理がある。では、道に迷わぬように目印をつけたのか。だが、描かれた数字は山の奥に進むほど『Ⅰ』に近づいている。博士は考えながらも、取りあえずは虫の採集を行うことにした。日が落ちるまでに、山を下りなければならなかった。
『Ⅴ』の書いてある岩から北で虫を獲っていると、今度は人が昇れない様な絶壁の巌に再び『Ⅴ』の文字は現れた。博士は眉間の皺を深めて、また山中を歩き出した。そして、何度か『Ⅴ』を見つけた。小川の枯れ木や、動物の死骸にまで、それは描かれている。博士は持って来た山の地形図に、『Ⅴ』のあった目印を新たに書き込んだ。
それから暫く歩き、H博士は山の奥には『Ⅳ』や、『Ⅲ』も見つけた。情報が幾つか集まったところで、博士の頭に一つの推測が浮かび上がった。つまりそれは、蜘蛛の巣の形状である。『Ⅴ』の文字は岩の北から北西へと寄っていき、ある地点で旋回し南西へ続いている。『Ⅳ』は『Ⅴ』の円より内側に、再び小さな円を描く。そして、『Ⅲ』も、恐らくは『Ⅱ』もそうだろう。放射状に広がっている円は、まさに蜘蛛の巣である。では、『Ⅰ』に何があるのか。まさか自分の想像通り、奇怪な網の巣の主人たる巨大な蜘蛛が、其処に――。H博士は湧き上がったイメージを振り払った。この推察は余りに馬鹿げていたからである。しかし、この奇妙な座標の中心に何があるのか、彼は俄然興味を持った。山賊のアジト――、しかしこの付近の治安は以前より明鏡止水の如く穏やかで、不穏な噂の一つも聞かない。では、魔女や人食い鬼――まさか、馬鹿馬鹿しい。兎に角、H博士は今いる最西の『Ⅴ』から入って『Ⅳ』の円の印を北側に二つ程行った所から、一気に中心の『Ⅰ』へ向かってみることにした。H博士の研究用の手帳の最後には、其処へ行ったとしても、登りやすく行きたい方向へ歩いて行けるこの山だ、日が落ちる寸前でも直ぐに下山できるだろう、と書かれていた……。
H博士が行方不明になって二ヵ月が経った。捜索が打ち切られて後、H博士の助手がこの山で、真っ赤な彼岸花の咲く一帯にある樹洞の不気味な古木に、博士の手帳と数字の蜘蛛の巣が描かれた地図を見つけた。地図によるとここには『Ⅲ』という記号が有る筈だが、どこを探してもそんなマークは見つからなかった。ましてや、助手は道中に一つもマークを見なかったのである。山を下りて麓の村の宿でその手帳を読みふけり、翌朝村の猟師だった老人への目の前に博士の地図を広げ尋ねた。
「この『Ⅰ』には何があるんです?」
老人は暫く考えてから言った。
「……何もないな」
しかしそれから、こう言った。
「ここまで行く道は一本しかない」
そう言って老人は、蜘蛛の巣の上をしわがれた指で一筋なぞっていって『Ⅰ』に辿りついた。奇しくもそれは、手記に書かれていた、H博士のとった紆余曲折した道のりと同じであった。