第三話 狂った一日
第三話 狂った一日
鈴花はあくびを噛み殺した。今は朝の電車内。朝とは言っても通勤ラッシュは避けている。隣には母親が神妙な顔で窓から外を見ていた。
「大丈夫だって。お父さんなら大丈夫だよ。」
鈴花は自分に言い聞かせるように言った。本当に何が起きているのだろうか。
鈴花が朝のニュースを見ていると昨日の出来事について語られていた。だが、敵の映像は無い。未だ相手がなんなのか分からないようだ。
そこで速報が入ってきた。今度は別の地域の人間が朝方何十人も消えていなくなっているのが確認されたらしい。その地域には鈴花の父親が勤めている研究所がある。アナウンサーが小刻みに震えながらなんとか原稿を読もうとしていたのを良く覚えている。
それからすぐに母親と一緒に家を出た。その時、京子に出会った。昨日の出来事が怖いので自分だけしばらく母方の実家に帰るそうだ。鈴花も実家に帰りたいなと思ったが、父親を見つけてから考えることにした。それに今母親を一人にするのは危ない。
鈴花は車内アナウンスを聴いて反射的に外を見た。もうすぐ目的の駅に着く。車内から見えてきたのは駅前に居る人々の姿。中には警察官も混じっている。
鈴花たちは駅を出て広場を歩く。何時もは沢山の人が駅前に居るが、今日は人が極端に少ない。その中で警察官が周囲に目を配っている。悪いことはしていないつもりだが、こんなところに居て職務質問を受けても良くない。
「早く行きましょう。こっちよ。」
駅前の通りから素早く細い裏道に入る。母親を先頭に緩やかな坂を登っていった。両側にある店はほとんどが閉まっている。道は徐々に平坦になり、大きな通りに出た。この通りを真っ直ぐ行くと父の勤めている研究所に着く。前に居る母親が徐々に歩みを速める。道路はひび割れ、危うくつまずきそうになる。なぜひび割れているのだろうか。
父親が勤めている研究所前に近づく。見えてきた研究所は所々破壊され無残な姿をしていた。研究所の門には進入禁止のテープが貼られている。研究所の敷地内と外に警察官が何人か居た。
「夫がこの研究所の関係者なんですが。」
母親は父親について警察官に聴いている。鈴花はふと門前を通っている道路を見た。先程からずっと道路表面がひび割れている。彼女はひび割れにそって歩いた。背後からの母親の声が聞こえたが身体が反応しない。それ以上に目の前のことが気になるのだ。
ひび割れを追い続けて交差点まで来てしまった。さらにひび割れは続いているが一部ひび割れが少ない部分があった。なぜここだけひび割れが少ないのか。
「ちょっと鈴花。待ちなさいってば。」
背後から母親の声がする。その時初めて母親の制止に気がついた。
鈴花が振り返ろうとしたとき、交差点に母親の叫び声が響いた。
鈴花はすぐさま目の前の道路を見る。そこには、血だらけの父親が横たわっていた。しかし、すぐに消えてなくなってしまった。
母親の声で近隣の住民が出てくるかと思われたが誰も出てこなかった。いや、出てこれる人間が居ないのか。
母親は顔が青白くなっている。
「さっき、警察の人に聞いたんだけど。研究所の職員を含め、この辺りのほとんどの人が行方不明らしいわ。」
母親の話では先程の警察の人とのやりとりで交通機関も生きているので家に帰っているのではないかと言われたそうだ。しかし、今目の前の状態を見ると父親は死んでいるのではないかと思ってしまう。鈴花は母親の腕を掴んだ。
「家に帰ってみようよ。」
鈴花はもうこれ以上ここに居ても何も起きないと思った。彼女は母親を駅まで引っ張って電車に乗せた。車内は来たときよりも少なくなっていた。駅までの道で見える風景すべてがこの世の終わりだった。人は居ない、居てもどこか店を襲撃している。従業員や警察の人たちがそれを阻止しようと奮闘していた。映画の中の出来事が今目の前に広がっていた。まるで人類滅亡の……。
そこで鈴花は首を横に振る。まだ、大丈夫だ。大丈夫だと思わなければ駄目だ。駄目だと思ったらそこで終わりだから。
鈴花たちは何事も無く自宅の最寄駅に着いた。正午を過ぎ、彼女はお腹が空いてきた。母親の話では家に材料があるので帰って食べようということになった。
鈴花たちは改札を出て南口から家に向かってペデストリアンデッキを歩いた。空は灰色の雲で覆われていて、太陽の光は届かない。駅前を通る人は沢山居たが、みんな見えない影に怯えているように見えた。
鈴花が階段を降りようとしたとき、どこかで叫び声が聞こえた。鈴花はすぐさま辺りを見回す。今度はなんなのだ。すると、別のところからも叫び声が聞こえた。また別の所から。叫び声は広がり、まるで叫び声が何かの音楽を奏で始める。
気がつけば母親に揺さぶられていた。
「鈴花、あれ。」
母親が指さした先、地上にはマンホールから水が溢れ出していた。上下水道どちらかはわからない。いや、そこは重要ではない。問題は、水に触れた人々が叫び声を上げて消えていくことだ。何が何だかわからない。今も水かさを増している。鈴花は後退しながら目の前の光景を否定しようとした。
「なんなのよ。なんだっていうのよ。」
鈴花は頭を抱え空に叫ぶ。夢なら覚めて欲しい。早く覚めて。
「ここまで水が来るかもしれないわ。とにかく、もっと高いところに。」
母親に引っ張られながら鈴花はゆっくりと走りだした。
ペデストリアンデッキを通って、駅の北口に出る。目の前には大型の専門店があり、二階部分が駅前に広がるデッキと繋がっている。
叫びの連鎖。北口は南口よりも人が多いためか、水に触れて消えていく人は多い。
専門店に入る頃には、二階と一階の中間まで水が溜まっていた。
「どうしてこんなに水かさが増すの。何があったって言うのよ。」
鈴花たちは店内に入ってからもさらに上を目指した。店内に逃げ込んだ他の人も同様に上の階へ向かっていく。ここは確か十階まであったはずだ。
鈴花は疲れて歩みが遅くなった母親を引っ張りながら同じ風景ばかりの階段を上る。すると、十階で階段に人が詰まっていた。上のほうから何か低い叫び声が何度も聞こえてくる。これ以上は行けないのだろうか。鈴花たちは十階の空いたスペースに移動した。後から何人も十階に来たが、十階のスペースを埋め尽くすほどの人数は来なかった。
鈴花は母親をその場に座らせると近くの窓から地上を見下ろした。その様に愕然とする。見渡すかぎり水浸しなのだ。先ほどいた駅も水に浸っている。
昔テレビ番組で南極の氷が溶けたらなんとかかんとかと言っていたが、既にその時の水位を軽く超えているだろう。それに今いる地域は海に近いとはいえ海岸から三キロ以上も離れた丘にある。この水も、触れると消えてなくなる理由も何もかもわからない。誰の仕業なのだ。
「どけよ。俺が先だ。」
階段のほうを見れば若い男性数人が争っている。すぐに殴り合いが始まった。周りの男たちが止めに入る。屋上には行けない、下から水が来ている。どうしろというのだ。
ある小さな男の子は泣きながら鈴花の近くにうずくまった。
「お母さん。どこに居るのお母さん、えっく。」
少年の大粒の涙が頬を伝って床に落ちる。
鈴花は男の子に近づいて慰める。慰めると言っても自分に出来ることなんてたかが知れている。気がつけば鈴花の母親もそばに来ていた。男の子はなんとか落ち着きその場に座り込んだ。彼の名は優というらしい。名前だけは聞くことが出来た。
彼女は持っている携帯電話を開いた。アンテナは立たず圏外になっている。唇を噛みしめた。どうしろというのだ。
その時、階段のほうに居た人々が動き始めた。屋上の扉が開いたようだ。吸い込まれるように十階から人が消えて行く。
「一緒に行きましょう。ここに居ると危ないわ。」
鈴花は優を立たせると母親と一緒に階段を登って屋上に出た。
太陽の光が眩しい。どういうことか、先程まで雲に隠れた太陽が顔を出している。
鈴花は優を母親に預けるとビルの手すりから周りを見た。他のビルの屋上にも逃げ延びた人々が沢山居た。
「ねえ、水が引いてきているわ。」
鈴花は誰かの声でビルの真下を見た。六階ぐらいまで水が溜まっていたが、みるみる水が引いていく。二階のペデストリアンデッキを越えて地上にある水まで消えてしまった。
鈴花は母親の声で振り返った。母親と優も他の人達の話し声で現状を把握したいようだ。二人は不思議そうにビルの真下を見る。
「水が全部なくなってるじゃないの。」
「水が無くなってる。なんで。」
二人とも驚きを隠せないようだ。鈴花自身もそうなのだから仕方がない。すぐにその場で優の家族を探した。店員の手伝いもあって屋上に上がった人の中に母親を見つけた。
「優。良かった。本当によかった。」
優の母親の話では九階までは一緒に居たものの背後から来た人たちに押されて優の手を離してしまったそうだ。彼女自身は十階から屋上に向う階段の中に閉じ込められて動けなかったらしい。
鈴花たちは優の母親が見つかってほっとした。こんな状況だから見つからないのではと少し思ってしまったのである。
こうなれば後は地上に戻るだけ。鈴花たちは優とその母親に別れを告げると他のお客と共に十階から一階まで降りた。もちろんこんな状態だから店への襲撃や万引きが発生してもおかしくない。実際に何度か起きた。各階で数少なくなった店員や一緒に居たお客が対応している。これは子供に見せられない姿だ。
「早く家に帰りましょう。ここにいるべきじゃないわ。」
鈴花は母親に引っ張られながら店をでてそのまま家に向かって歩いた。彼女は何度か掴まれた腕を振ってようやく母親の手から逃れた。
鈴花と母親の口論が始まる。「痛い、歩くのが早い」といった鈴花側の発言から始まり、「あんなの自分の子供に見せられるわけ無いでしょ」という母親の反論に続く。
二人は帰り道を言い合いながら歩いた。お互い言いたいことが無くなるのは早いもので、言い終えると家までお互い黙りこんだ。黙りこむと今度は静寂に耐えきれなくなりお互い謝って話は終了した。
鈴花は母親との話の中で、言い争いの後に何かが得られればそれはそれで言い争った意味があると思った。しかし、何も得られないまま終わるのは何かもったいない気がした。これは争い損ということだろうか。
「ただいま。」
誰もいない家の中に響く声。鈴花の母親は彼女を残して近所の様子を見に行った。この辺り周りの地域よりも少し窪んだ場所で雨の時に水がたまりやすい。
しばらくして母親が帰ってきた。顔が暗い。どこかで生気を吸い取られたのではないかと思ってしまうほどだ。
「誰も居なかった。朝は居たのに。隣の斉藤さんも、向かい側の高崎さんも。今は誰も、誰ひとり……。」
鈴花の母親はその場に崩れた。彼女は母親に肩を貸してリビングのソファに座らせた。部屋の隅にあるスイッチを押すと明かりが点いた。電気が生きているのはこの現状では奇跡的である。
鈴花は母親を落ち着かせると、家の中を確認した。この家も先程の水に浸ったはずだ。だが、水に浸ったにしてはおかしい。床も壁も物も水に濡れた形跡はない。急いでいたから忘れていたが、専門店の屋上から一階に降りるときに水がはねたということはない。そもそも濡れていれば転ぶ人が現れるが周りに居た誰ひとりとして転んでいなかった。水はすぐに引いたのは見えたが、床に少量の水が残っていてもおかしくない。なぜ、乾いていのだろうか。それとも、彼女たちが見た水は水じゃなかったのだろうか。
鈴花はここで思考を停止して母親そばに座った。何気なくテレビの電源を入れる。どの局もニュース番組。時間帯はお昼のドラマをやっている頃だが、それらを中止して行っているようだ。それだけおかしなことが続いている。各テレビ局も被害が出ているそうだ。男性ニュースキャスターの振りで、先程見た水らしき何かについても映像が出てきた。映像にはテレビ局員が水に触れることで絶叫しながら消えていく様が映し出されている。ちょっとこの映像は昼に出していいのかと考えた。モザイクが掛かっているとはいえ、見る者に強烈な印象を与える。身を削って報道するとはこういうことだろうか。
ニュースキャスター他にも政府の対応についてや類似の事件について報道していた。ふと、何かニュースキャスターたちの声とは異なる音がスピーカーから微かに聞こえてきた。鈴花は音量を上げる。その時、突然隣に居た女性アナウンサーがカメラからは見えない位置を見て叫んだ。鈴花は突然の事に飛び上がった。直接テレビのスピーカーから出た声は、生々しく部屋に響く。カメラはすぐさまアナウンサーの視線の先を追う。カメラの映像にまた鈴花は飛び上がった。画面に映ったのはスタジオの出入口。そこには首なしの人間が横たわっていた。カメラはすぐさま別の方向に向けられた。スタッフの慌てている声や低い叫び声が次々とマイクに拾われる。すぐに画面が切り替り「しばらくお待ちください」の表示が出た。母親を見れば何も言わないがじっとテレビ画面を見ている。先程見えたのは確かに首のない人間の死体だった。しかし、なぜそんな死体がテレビ局のスタジオに現れたのだろうか。
鈴花はリモコンを操作して順にチャンネルを変えてみた。どの局もニュース番組をやっていたが、最初の局と同様何かに怯えるスタッフを映した後に「しばらくお待ちください」の画面になった。しばらく回しているとすべての局の画面が「しばらくお待ちください」の画面になってしまった。各テレビ局ともに何か問題が起きたのだ。それは最初に見た首なし人間が他の局にも発生したのだろうか。鈴花は「しばらくお待ちください」の画面をじっと見つめながら考えた。
すると、次に真っ黒い画面になった。
「どうして、何が起こったの。」
「電波が届かなくなったのよ。」
鈴花はすぐさまチャンネルを変える。一つ、またひとつとテレビ局の放送が終わっていく。終にはすべてのテレビ局の電波が届かなくなった。
鈴花はテレビを消した。そのままソファに寝転がる。画面が切り替わる前までの事を考えれば、各テレビ局で正常に放送できないほどの事故が起きたのかもしれない。だた、実際の所は分からない。想像するだけで本当のことは何一つ分かっていないのだ。
「鈴花、ご飯作ってあげるからね。それまで何かしてなさい。」
鈴花は母親を見上げる。彼女は母親に笑顔で見返された。母親はそれ以上何も言わずダイニングに向かった。その姿を彼女は目で追う。
あの笑顔は母親なりの励ましなのかもしれない。鈴花と自分への。