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好きな人が、食パンをよける。

作者: 週休七日
掲載日:2026/10/01

 私の恋には、食パンが足りなかった。


 容姿でも、成績でも、会話術でもない。足りないのは食パンだ。


 そういうことにした。


「佐伯くんに、食パンをくわえてぶつかろうと思う」


 金曜日の昼休み。

 私が決意を告げると、親友の奈緒は、卵焼きをつまんだまま動きを止めた。


「故意だね」

「恋だよ」

「音は似てる」


 私、小宮まどか、高校二年生。

 好きな人は、三列向こうで男子たちとお弁当を食べている佐伯くん。


 一年生の文化祭で、私が描いたお化けの看板を「全然怖くない」と笑われたとき、その隣に『小さいお子様もどうぞ』と書き足してくれた人だ。


 実際、小さな子が何人も入ってくれた。


 私の失敗を消さずに、いいものに変えられる人なんだと思った。


 以来、ずっと好きだ。


 そして一年以上、私たちの関係は「おはよう」で止まっている。


 このままでは卒業式にも「おはよう」と言って別れることになる。午後なのに。


「ほら。食パンをくわえて、遅刻遅刻って走って、角でぶつかるじゃん」

「人による」

「それで『どこ見て歩いてんだよ!』『そっちこそ!』ってなって」

「佐伯くん、そんなこと言う?」

「……『大丈夫?』って言う」

「だろうね」

「そこから目が合って、何かが始まるの」

「もう同じクラスなのに?」

「出会い直したいんだよ」


 奈緒が卵焼きを口に入れ、しばらく考えた。


「普通に、一緒に帰ろうって言えば?」

「急に恋愛を始めないで」

「あなたの相談なんだけど」


 それができたら、私は食パンに頼っていない。


 恋愛漫画には、ずるいところがある。

 ぶつかれば「大丈夫?」と聞ける。

 荷物を落とせば「拾うよ」と言える。

 何か事件さえ起これば、その続きの台詞が用意されている。


 私には、それが必要だった。


 何も起きていないのに好きな人に近づくのは、試験範囲のないテストみたいで怖い。


「協力して、奈緒」

「嫌だ」

「お昼、おごるから」

「どの程度の接触を想定してる?」


 交渉は成立した。


 ただし、車の入れない商店街の路地で、歩く速さで、肩が触れる程度。


 それ以上は認めない、と奈緒は言った。


「恋が始まる前に、示談が始まるから」


 悪いことを計画している気分になる。


 計画の名前に「アタック」がついているので、強くは否定できなかった。



     *



 日曜日、私は奈緒を家に呼び、食パンの選定を行った。


 報酬の昼食は、すでにおごってある。

 成功報酬にしてほしいという提案は、即座に却下された。


 まず、六枚切り。


「ちもふ、ちもふ!」


「何?」


 パンを口から外す。


「遅刻、遅刻」

「食パン、そこに置いて」

「うん」

「ほら。置けばしゃべれる」

「それじゃ物語が始まらない」

「会話は始まったけど」


 次に、トーストした六枚切り。


 一歩踏み出しただけで、制服の胸元に細かなパンくずが降った。


「証拠が残るね」

「だから犯罪じゃないって」


 ジャムを塗ったものは、口の周囲に被害が出た。


 バターを塗ったものは、おいしかった。


「いま普通に食べたよね」

「うん」

「目的を見失わないで」


 最終的に、焼いていない八枚切り、何も塗らない、という仕様に決まった。


 母が部屋をのぞいた。


「あら。パン屋さんでも始めるの?」

「恋愛」

「そう。じゃあ夕飯はごはんにするね」


 娘が何をしていても、母は献立を決められる。


 私は奈緒にスマートフォンを渡し、撮影を頼んだ。

 食パンをくわえ直して、もう一度、部屋の入口から登場する。


「ちこく、ちこく!」


「ちょっとよくなった」

「ほんと?」

「言語には近づいた」


 初恋のために滑舌を鍛えることになるとは、思わなかった。



     *



 月曜日。


 佐伯くんがいつもの曲がり角を通るのは、午前七時四十分ごろだ。

 何度か見かけているので、知っている。


 それに合わせて、私は五時半に起きた。


「ずいぶん早いのね」


 朝食を作っていた母が言った。


「遅刻する準備があるから」

「一回、自分の言ってることを考えてごらん」


 考えると怖くなるので、やめた。


 七時三十八分。


 商店街の角。

 まだシャッターの閉まった文房具屋の壁に背中をつけ、私は呼吸を整えた。


 鞄の中には予備の食パン。

 口には本番用の食パン。


 こんなに炭水化物に守られたことはない。


 角の向こうから、足音がした。


 ちらりとのぞく。


 佐伯くんだ。


 いつもの少し眠たそうな顔。

 肩にかけた鞄。

 歩きながら、シャツの袖口を直している。


 よし。


 歩く速さ。

 肩が触れる程度。

 目が合ったら、まず謝る。

 それから――。


「ちこく、ちこく!」


 私は角を曲がった。


 佐伯くんは、一歩手前で止まった。


 そして、すっと横に寄った。


「お先にどうぞ」


 紳士。


 なぜ今なんだ、紳士。


 行き場を失った私は、そのまま三歩ほど進み、町内会の掲示板の前で停止した。


『飛び出すな みんなが待ってる その笑顔』


 町全体が敵だった。


「あ、小宮さん。おはよう」


 振り向くと、佐伯くんが笑っていた。


 この笑顔のために来たのに、この笑顔を見たせいで計画が全部頭から抜けた。


 パンを取る。


「お、おはよう。なんで、わかったの?」

「何が?」

「私が出てくるって」


 佐伯くんは、頭上を指さした。


 電柱についている丸いカーブミラー。

 その中に、私と佐伯くんが、きちんと映っていた。


「パンが先に見えたから」


 人体より先に、恋愛小道具が発見されていた。


「あと、小宮さん、遅刻しそうなの?」

「あ、うん、えっと」

「始業まで、まだ五十分あるよ」


 佐伯くんが腕時計を見せてくれた。


 正確だった。


 いまだけ壊れていてほしかった。


「一緒に行く?」


 心臓が跳ねた。


 台本にない。


 ぶつかっていない。

 謝っていない。

 見つめ合うところまで進んでいない。


「だ、大丈夫! 友達待ってるから!」


 言ってしまった。


 待っていない。

 奈緒とは、何の約束もしていない。


 私の口が、勝手に親友の予定を作っていた。


「あ、そっか。じゃあ、また教室で」


 佐伯くんが歩いていく。


 私は食パンを持ったまま、その背中を見送った。


 次の角を曲がる直前、彼はもう一度こちらを見て、小さく手を振った。


 好き。


 失敗。


 好き。



 昼休み、報告を受けた奈緒は、しばらく黙っていた。


「……一緒に行くって言われたの?」

「うん」

「断ったの?」

「順番が違ったから」

「順番を守って失恋する気?」


 私はお弁当箱の食パンを見つめた。


 昨日、試作のために買いすぎたものが、まだたくさん残っている。


「そもそも、相手が悪いよ。佐伯くん、生活委員じゃん」

「知ってる」

「人がぶつからないようにする側だよ」

「でも、恋は事故みたいなものだって」

「本人が事故防止に努めてる」


 強敵だった。


 車の入らない道を選んだのに、交通安全のほうが人の形でやってくる。



     *



 火曜日。


 私は方針を変えた。


 角から飛び出すのではなく、最初から姿を見せて近づく。

 そして、ごく自然に肩を触れさせる。


 奈緒に話すと、「普通に近づけるなら普通に話せ」と言われたので、それ以上は相談しなかった。


 七時四十分。

 いつもの曲がり角。


「小宮さん?」


 食パンをくわえた私を見つけ、佐伯くんが足を止めた。


 私は小さく手を振り、そのまま近づいた。


 佐伯くんが横によける。


 私も同じほうに一歩ずれる。


 佐伯くんが元の位置に戻る。


 私も戻る。


 彼が困ったように笑って、またよける。


 私もよけた先へ移動する。


 出会いを始めたかっただけなのに、社交ダンスが始まった。


 三往復目で、佐伯くんが止まった。


「小宮さん」


 私はパンをくわえたまま、顔を上げた。


「もしかして、俺にぶつかろうとしてる?」


 ばれた。


 パンを外す。


 何か言わなければならない。


 あなたが好きで。

 もっと話したくて。

 でも普通に話しかける勇気がなくて。


 そのどれか一つでよかったのに、私の口から出たのは、


「交通安全の、実地調査です」


 だった。


 自分でも驚いた。


 佐伯くんは、もっと驚いていた。


「……総合の自由課題?」

「そう。それ」

「人が、どうやって衝突を避けるか、とか?」

「まさに、それ」


 私はいま、恋愛のジャンルから報告書のジャンルへ移動している。


 しかも相手が、丁寧に道案内してくれている。


 佐伯くんは少し考えてから、言った。


「だったら、ちょうど明日、朝の交通安全活動があるんだけど」

「うん」

「ここで通る人に声をかけるから、何か参考になるかも」

「うん」

「小宮さんも、一緒にやらない?」


 一緒に。


 その四文字だけ、背景に花が咲いた。


「やります」


 即答した。


 当日の連絡用に、連絡先も交換した。


 初めて届いたメッセージは、『明日は七時二十分集合です』だった。


 業務連絡が、こんなにうれしいとは知らなかった。



 翌朝。


 私の胸には、蛍光色のたすきがかかっていた。


『目指そう 衝突ゼロ』


 目標が、昨日までと完全に逆だった。



     *



「角ではゆっくりお願いしまーす」


 私は通学路に立っていた。


 佐伯くんの隣で。

 食パンを鞄にしまって。


 曲がり角で恋を始めようとした結果、曲がり角で何も起こらないようにする仕事に就いた。


 活動は七時四十五分まで。

 ほかの生活委員は、商店街の別の角を担当している。


 通る人に声をかけ、手元の用紙に人数も記録する。

 佐伯くんに教わったとおり、私は張り切って仕事をした。


「小宮さん、声よく通るね」

「食パンがなければね」

「え?」

「何でもない」


 制服の上にたすきをかけると、思っていたよりきちんとした人に見えた。


 中身は、昨日ここで佐伯くんを追い回していた人間だ。


 通りかかった奈緒が立ち止まった。


 たすきを見る。

 私を見る。

 佐伯くんを見る。


「更生、早かったね」

「余計なこと言わないで」

「小宮さん、すごく助かってるよ」


 佐伯くんが言った。


 奈緒は一瞬だけ目を細め、それから私に向かって親指を立てた。


 違う。

 評価されているのは、主に声量だ。


 そう考えたところで、角の向こうから、ラケットケースを背負った男子生徒が駆けてきた。


「やばい、朝練、遅刻する!」


 私は反射的に手を上げた。


「ここ、ゆっくり!」


 男子生徒が足を緩めた。


 私は彼の顔を見た。


 何もくわえていなかった。


「パンは?」

「え?」

「……何でもないです」


 男子生徒は不思議そうな顔で歩いていった。


 隣で佐伯くんが肩を震わせている。


「遅刻に食パンは必須じゃないと思う」

「そうなんだ」

「そこ、初めて知るところ?」


 笑われた。


 恥ずかしかった。


 でも、嫌ではなかった。


 からかうために笑っているのではなく、私と話していて、つい笑ってしまったみたいな顔だったから。


 もっと、その顔を見たいと思った。


 そのあと、犬を連れたおばあさんに「あら、今日は食べてないの」と言われた。


「今日は業務中なので」

「昨日までは趣味?」

「……はい」


 趣味、角で食パン。


 進路相談の紙には書けない。


 活動の終わりに、佐伯くんと通った人の数をまとめた。


 私は用紙の端に、小さな食パンの絵を描いた。

 今日の私より、ずっと情けない顔にした。


 佐伯くんがそれを見て、また笑った。


「これ、去年のお化けに似てる」

「描き分けに限界があるの」

「俺、あの看板好きだったよ」


 ペンが止まった。


 佐伯くんは用紙を見たまま、少し声を落とした。


「今日は、来てくれてうれしかった」


 朝の商店街は、少しずつ賑やかになっていた。

 シャッターが上がる音。

 自転車を押す人の足音。

 パン屋の前で、看板を出す店員さんの声。


 その中で、佐伯くんの言葉だけが、妙にはっきり残った。


「……人手、足りなかった?」

「いや。そういうんじゃなくて」


 顔を上げたら、佐伯くんの耳が少し赤かった。


 私まで熱くなって、慌てて用紙に目を戻す。


「じゃ、じゃあ、集計しよう」

「うん」


 人数を三回足した。


 三回とも違った。


 恋は計算までできなくするらしい。



     *



「待ち合わせをして」

「うん」

「二人で朝を過ごして」

「うん」

「一緒に登校した」

「うん」

「食パンがなくなった以外、順調じゃない?」


 昼休み。

 奈緒の指摘に、私は返事ができなかった。


 今日は、佐伯くんと一緒に学校へ来た。


 活動で見かけた犬の話をして。

 次の数学の小テストの話をして。

 私の描くものは全部食パンに似るんじゃないかと言われて、そんなことはないと反論した。


 楽しかった。


 明日もそうしたいと思った。


 でも、交通安全活動は今日だけだった。


「……活動があったからだよ」

「うん」

「用事があったから、一緒にいただけ」

「まどか」


 奈緒は、今日はすぐに突っ込まなかった。


「本当は、何でぶつかりたかったの?」


 私は食べかけのパンを持ち上げた。

 でも、口までは運べなかった。


 ばかばかしいことを言おうとしている自覚はあった。

 それでも、奈緒は待っていた。


「ぶつかったせいにできるから」


 言ってみると、思っていたより小さな声になった。


「顔が赤くても、びっくりしただけにできるし。うまくしゃべれなくても、パンをくわえてるからって言えるし」


 あの角で待っていた理由も。

 いつもより早く起きた理由も。


「佐伯くんに会いたくて来ました、って、言わなくて済むから」


 奈緒は、しばらく黙っていた。


 それから、私の手元を見た。


「食パン、一回置きな」


 日曜日にも言われた言葉だった。


 私はパンをお弁当箱に戻した。


「……うん」


 奈緒は自分のお弁当を食べ始めた。

 それ以上、代わりの台詞は考えてくれなかった。



 その夜、私は佐伯くんへのメッセージを打った。


『明日、七時二十分に、あの角に来てもらえますか』


 送信する前に、三度読み返した。


 交通安全の追加調査、とは書かなかった。


 研究の相談、とも書かなかった。


 代わりに、もう一文を足した。


『今度は、私の用事です』


 送信。


 布団にスマートフォンを投げた。

 すぐ拾った。

 まだ返事はなかった。

 そりゃそうだ。投げてから一秒しか経っていない。


 十五秒ほどで、画面が光った。


『わかった。俺もちょっと話したいことがある』


 私はスマートフォンを置き、鏡の前に立った。


 食パンはくわえなかった。


 今度の台詞は、「遅刻、遅刻」ではなかった。



     *



 木曜日、七時十九分。


 いつもの曲がり角。


 私は、何もくわえずに立っていた。


 口元が、妙に心細かった。

 こんなにも自分の顔が丸出しだっただろうか。


 鞄の中には、食パンが一枚入っている。


 昨夜の私は勇ましかった。

 今朝の私は、「念のため」という言葉を知っていた。


 ただし、告白の道具には使わない。


 今日は、ちゃんと言う。


 あなたが好きです。

 だから、待っていました。


 頭の中で繰り返した、そのときだった。


 角の向こうから、声がした。


「ちもふ、ちもふ」


 聞き覚えがあった。


 日曜日の私だ。


 いや、声が違う。


 顔を上げる。


 佐伯くんが現れた。


 食パンをくわえていた。


 私は、何も言えなくなった。


 佐伯くんは真剣な顔で、こちらに向かって歩いてくる。


 ものすごく、ゆっくり。


 遅刻という言葉と、まったく協力する気のない速度だった。


「ちこふ」


「待って、ちょっと待って!」


 昨日の癖で、私は手のひらを前へ突き出した。


 佐伯くんはぴたりと止まった。


 それから、私が突き出した手のひらに、自分の手のひらを軽く合わせた。


 ぱん。


 乾いた音が、朝の路地に響いた。


 恋愛漫画が始まる音としては、だいぶ部活寄りだった。


 私たちは手を合わせたまま、見つめ合った。


 佐伯くんの口には、食パンがある。


 真面目そうな眉。

 少し赤い耳。

 食パン。


 私は、耐えられなかった。


「……何してるの」


 笑いながら聞いた。


 佐伯くんも、目をそらしながら笑った。

 パンの端が、少し揺れた。


「ふぁん、あふぁっふ」


「いったん、パン置こっか」


 私がそれを言う日が来た。


 佐伯くんは手を下ろし、紙袋を取り出して食パンをしまった。


「……食パンアタック」

「わかるけど」

「これなら、痛くないかなって」

「それで、ハイタッチ?」

「うん」


 世界一慎重な食パンアタックだった。


 衝突はしていない。

 でも、手のひらだけが熱い。


「どうして、そんなこと」

「小宮さんが、やってたから」


 私は両手で顔を覆った。


 終わった。


 社会生活が。


「ばれてたの?」

「ぶつかろうとしてるのは、何となく」

「どのくらい、何となく?」

「食パンをくわえて、俺にぶつかろうとしてるのかな、って」


 行動は、全部見られていた。


「最初は偶然だと思ったけど、二日目はずっと俺の行くほうに来るし」

「ごめんなさい」

「いや。でも、交通安全の調査だって言ってたから……」


 指の隙間から、佐伯くんを見る。


 彼も、困ったように自分の紙袋を見ていた。


「恋愛漫画の、あれだったらいいな、とは思ったんだけど」

「……うん」

「本当に調査だったら、俺が舞い上がると困らせるかなって」


 私の苦し紛れの嘘が、こんなところで仕事をしていた。


「でも、今日、呼んでくれたから。もしかしたらって」

「それで、食パン?」

「……普通に来ると、言えない気がして」


 私は手を下ろした。


 それは、よく知っている気持ちだった。


 胸の中でずっと一人で騒いでいたものが、目の前にもいる。


 佐伯くんは、小さく息を吐いた。


「おはようじゃないことを言おうとすると、難しくなるんだね」


 一年分の「おはよう」が、頭の中を通り過ぎた。


 教室で。

 下駄箱で。

 廊下の角で。


 挨拶をして、笑って、それだけで一日うれしくなって。


 あれは、私だけのことではなかったのかもしれない。


 私は鞄の持ち手を握った。


 食パンは出さなかった。


「調査は、嘘です」


 佐伯くんが顔を上げた。


「うん」

「佐伯くんに会いたくて、あそこで待ってました」

「……うん」

「一緒に学校に行くって言われたとき、本当は、すごくうれしかったです」


 声が少し震えた。


 何もくわえていないから、何のせいにもできない。


 それでも、言えた。


「好きです」


 佐伯くんが、口を開いた。


 一度閉じた。


 紙袋が、ぐしゃっと鳴った。


「俺も、小宮さんが好きです」


 言ったあと、彼は片手で口元を隠した。


 昨日の、集計をしているときよりも、ずっと耳が赤かった。


「交通安全活動に誘ったのも、一緒にいられるかなと思って」

「そうだったの?」

「うん。でも、集計の話に戻ったから、やっぱり調査なのかなって」


 私は目を閉じた。


 私が丁寧に用意した逃げ道に、二人とも迷い込んでいた。


「ごめん」

「いや、俺も言わなかったし」


 佐伯くんは少し背筋を伸ばした。


「小宮さん。俺と、付き合ってもらえますか」


 今度は、順番を確認しなかった。


「はい」


 言えた。


 びっくりするくらい、簡単に。


 佐伯くんが笑った。


 紙袋が、もう一度ぐしゃっと鳴った。


 私はその手元を見た。


「……パン、大丈夫?」


 彼も見た。


 さっきまで四角かった食パンが、袋の中でずいぶん細長くなっている。


「あ」

「緊張してた?」

「ものすごく」


 その答えがうれしくて、私はまた笑った。



     *



 学校へ向かう前に、私たちは角の向かいの小さな広場で、少しだけ座ることにした。


 佐伯くんが紙袋を開く。

 私も鞄から食パンを出す。


「まだ持ってたんだ」

「お守り」

「効いたね」

「効いた」


 お守りとしての役目は、もう終わった。


 私は食パンをひと口かじった。


 焼いていない。

 何も塗っていない。


 日曜日には物足りなかったのに、今日は妙においしかった。


「それ、何枚切り?」


 私が聞くと、佐伯くんは自分のパンを見た。


「もとは八枚切り」

「もとは」

「今は、わからない」


 笑ってしまって、なかなか食べ終わらなかった。


 その間に、奈緒へ報告を送った。


『食パンアタックは失敗しました』


 続けて打つ。


『彼氏はできました』


 少しして返事が来た。


『成功の定義を見直して』



 パンを食べ終え、二人で学校へ歩き出した。


 歩きながら、佐伯くんが聞いた。


「明日も、一緒に行かない?」

「行く」

「じゃあ、七時四十分に、ここで待ち合わせでいい?」

「うん」


 それだけで、明日の朝が決まった。


 計画も、実験も、食パンもいらなかった。


 角に隠れなくていい。

 偶然のふりをしなくていい。


 会いたいから来たと言って、会える。


 私は隣を歩く佐伯くんを見た。


 彼も、ちょうどこちらを見ていた。


 何だか照れくさくて、でも目をそらすのも惜しくて。


 その肩に、自分の肩を、こつんと当てた。


「あ、ごめん」

「今の、故意?」

「恋だよ」


 佐伯くんが笑った。


 今度は、よけなかった。

食パンをくわえて、曲がり角でぶつかる。

あの一瞬の裏に、食パンの選定や発声練習があったらどうなるのだろう、と思って書きました。


準備をすればするほど、肝心の「好きです」から遠ざかっていくまどか。

相手がきちんと前を見て歩く人で、本当によかったと思います。


誰かに話しかける勇気より、食パン一斤を買う勇気のほうが簡単に出せる。

そんな朝も、あるのかもしれません。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


なお、本編で使用した食パンは、登場人物たちがおいしくいただきました。

一枚だけ、原形は失いました。

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