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栄光のその後 ~栄光と絶望の狭間に~

作者: 森永 ロン
掲載日:2026/05/02

短編です。

「ねえ、お母さん。あの話を聞かせてよ」


 日はとうに暮れ、真っ黒な夜空に美しい月が浮かんでいる。


 空から舞い落ちる白い雪が、今宵の月の美しさをいっそう引き立てていた。


 外には寒さに身を震わせながら足早に自身の家へと帰る人々がチラホラと見える。皆、身を切るような寒さから逃れようと白い息を吐きながら歩いていた。その様子はこの寒さにも関わらず、どこか人間としての活力を感じさせる。


「もう、またあのお話が聞きたいの? 本当に好きね」


 一方、家の中からは暖炉の明るく温かな光が窓の外へと漏れ出していた。


「だって、わたしもいつかそうなりたいんだもん! 綺麗なお洋服を着て舞踏会に行くの。それで、王子様と結婚する」


 各家からは穏やかな音が聞こえてくる。


  あの家では食事時であろうか。実に食欲のそそられる幸せな匂いと家族の会話。あちらの家では子供たちの元気に走りまわる足音。


「ふふ、いつかそうなれば良いわね。そのためには色々頑張らなければいけないわね」


「うん、わたし頑張るよ」


 この家では子供がお気に入りの物語を読み聞かせてくれるように母親にせがんでいるようだ。


「じゃあ、お話しするからここに座りなさい」


「うん」


 母親の膝の上へと座った子供は希望にあふれた視線を母親が持つ本に落とす。早く読み聞かせて欲しいのだろう、足をバタバタとさせて母親を急かしていた。


「あるところに可哀想な女の人がいました。その名は――」


 そんな家族団欒として風景の外――雪が段々と積もり始め、地面を白銀の絨毯に染め上げている薄暗い路地裏に身を震えさせるボロを着た女が座り込んでいた。


「……どうして」


 呟きと同時に出た白い息。その白さも儚く淡いものであった。


「……なんで」


 その女の頬からは赤みは消え去り、真っ青な唇は絶えず震えている。


 女に降りかかる雪は解けることなく、頭や肩にどんどんと積もっていく。しかしながら、女は自身に積もった雪を振り払う活力さえなかった。いや、むしろそうなることを望んでいるのかもしれない。そのまま自身の存在を覆い隠してしまう事を。


「……ねえ、こたえてよ」


 女の言葉に応じる者は誰もいない。




 ――あの頃は良かった。このような事になるなんて微塵も想像していなかった。




「あなたは留守番していなさい」


 コツコツと凍てつくような足音が遠ざかっていく。そのおかげで私の緊張した心と体も次第にもとの調子へと戻っていった。


 楽しみにしていた舞踏会だったのに、お姉さま達の意地悪のせいで私は参加できない。お姉さま達は「王子様に会わせるわけにはいかない」と酷い表情で言っていた。どんな理由があるにせよ、私は舞踏会に参加したかった。綺麗なドレスを着て、華やかな会場の中で心地よい音楽に身を任せて踊りたかった。そして、できればまだ顔を見たことのない王子様を一度見てみたかった。


「まあ、どうせ参加できていたとしてもお姉さま達に意地悪されるだけだものね」


 そう自分に言い聞かせて命じられた掃除をするしか私に道は残されていないように思われた。


 私の細やかなその願いは叶うことはない――いや、叶うことはないはずだった。


 消沈している私の前にまるで物語のように不思議な人が現れて、綺麗なドレスを用意してくれた。おかげで私も舞踏会に参加することが出来たのだ。


 それはまさしく夢のような時間だった。憧れていたきらびやかな世界。お姉さま達に強いたげられている私なんかには一生縁がないと思っていた空間であった。


 そんな状況だったからであろう、興奮のせいで魔法使いとの約束を忘れそうになったのは。


 ただ、私は会場から去るときにひとつの重大な過ちを犯してしまった。靴を回収しなかった――この事さえなければ、現状のような無様なことにはなっていなかったであろう。いくら慌てていたとしても、取りに戻るべきだったのだ。いくら後悔してもし尽くせない。


 一時はこの事のおかげで舞い込んでいた幸福に頬を弛めたものだ。まさか、私が王子様に見初められ、そのまま婚約することが出来るなんて。私は私自身の幸運に何度も感謝の祈りを捧げた。これでもうお姉さま達に意地悪されないで済むこと。むしろ、婚約することによって手に入れることが出来た地位と名誉を使えば。悪魔が私に囁いたように感じた。


 婚約後の王子様との生活は、それは見事なものであり、全てのことが私にとって新鮮であった。惜し気もなく装飾された豪華な部屋、てんがい付きのフカフカな布団、世界各国から取り寄せた食材をふんだんに用いた豪勢な食事、毎日開催されるきらびやかなドレスを身に纏ってのお茶会や舞踏会。どれもが私の傷ついていた心を癒した。


 どれも王子様と婚約できたから手に入れることが出来た幸福だ。


 私の心が癒されていくにつれ、次第に余計なことを考えるようになった。悪魔の誘惑に耳を傾け始めたのだ。


 ――今であれば私を酷く扱ったお姉さま達に復讐することができる。


 ひとたび悪魔に耳を傾けてしまうと、もうその甘美な誘惑からは逃れることが出来なかった。


 何かにつけてお姉さまたちが私を訪ねて来ては、

「王子様に何か嫌なことはされていないか?」

「今は婚約直後で浮かれているかもしれないが、そう良い期間が続くわけがない」

などと、私の幸福に嫉妬したようなことを捲し立ててくる。


 どういう頭をしていれば私の王子様が私に嫌なことをするというのだろうか。それに王子様とはゆくゆくは盛大な結婚の儀を催すことになっているのだ。結婚後、私はこの国を導いていく子供の母となり、名実ともに王妃となる。このような将来を思い浮かべることが過去の私にはできたであろうか。今、私はこの世界で最も幸福な女だと思う。


 将来も幸福で満ち溢れているというのに、この現実をお姉さま達は認めることが出来ないのだろうか。


 私は熱心に口を動かしている目の前の生き物たちへと嘲笑した表情を向ける。どんなに喋ろうとも私に届くことは無いとも知らない哀れなお姉さま達に、私は冷たい声で現実を見せることにした。王子様が私をいかに愛してくれているか、私がどのように煌びやかな生活を送っているかを。


 私の現実がよほど羨ましいのだろう。お姉さま達は驚愕した様子であった。


 そんな可哀そうなお姉さま達に私は以前お姉さま達にやられた仕打ちを全て列挙し、その生活から逃れることが出来たことを王子様に感謝していると、少し嫌味を含んだ口調で述べた。そして、そのような不幸を私に強いた人達を絶対に許さないことも。


 都合の良いことに私は復讐する地位も権力も手に入れることが出来た。それを用いて必ずや私と同じ、いや私以上の不幸を強いてあげなければ気が済まない。


 私がお姉さま達に視線を向けると、お姉さま達は体を震わせながら私の前から去って行った。どうやら、これからの自分たちの運命に恐ろしくなったのだろう。これまで自分たちが強いていたことが、それ以上に自分たちへと降りかかるのだから。


 でも、今更後悔してももう遅い。


 私が受けたことは変わらない。どんなに忘れようとしても、その度に私が思い出させて、心の奥深くまで刻み込んであげる。それが私にはできる。


 それに、私の救世主である王子様にさえもいわれのない事をのたまったのだ。その報い話必ずや受けさせてあげる。


私はほくそ笑みながら、お姉さま達を破滅へと落とすために王子様の下へと向かった。




 その後、私のおかげでお姉さま達がひもじい思いをしながら極貧生活を送っている報告を受けた。別に私自身が手を下したわけではない。ただ王子様に私がひどく悲しんでいる様子を見せて、事情を聞かせただけだ。それを聞いた王子様が私のために動いてくれたのだ。お姉さま達の悲惨な結末を聞いて、心がひどく癒されたように感じた。まるで完熟した果物のシロップに浸され、裂けてしまっていた傷口を優しく包み込んでいるようなそんな甘美な感覚。出来ることであれば、この甘さをいつまでも感じていたい。


 そして、王子様は私を喜ばせようと様々な装飾品や見世物まで用意してくれた。これまで以上に贅沢な暮らしに、私は王子様の私への愛を再確認することが出来た。私はこんなにも愛され、必要とされている。このことを実感できる瞬間が好きだった。


 そのため、私はこの何とも言えぬ興奮をもたらす瞬間を感じるために、何度も何度も演技をして王子様の関心を引くようになった。その度にお姉さま達の生活は悲惨さを増していき、その一方で私の生活は豪華絢爛になった。


 悲惨で過酷な生活はここにはない。もう冬の寒さや飢餓に苦しむこともない。全てが私のために用意され、私のために消費されていく。


 ――私は選ばれた人間なのだ。


 王子様との生活は、私の人格を大きく変容させた。いや、そもそも私の中に秘められていたのかもしれない。


 そんな生活を送っていると、段々とお姉さま達の事を忘れていった。人間は何かに満たされると、目の前に転がる些事など気にも留めなくなるという。これはまさにそう言った人間に備えられし性質が私に作用したのだろう。もうすでにあの冷たい足音も思い出すことが出来なくなってきた。私は私を抑圧してきた全てのものから解放され、遂に私としてこの世界に存在することが出来るようになったのだ。何も隠さなくても良い、本当の私として。


 生まれ変わった私を見て、王子様はたいそう喜んでくれた。私の笑顔をこれまで以上に愛してくれた。そのおかげで私の表情は益々明るくなり、日々の生活が充実していったのは言うまでもない。




 今思えばこの頃から私は地に足がついていなかったのだろう。全く周囲が見えていなかったのだ。




 それから数年経過した頃、充実した生活を送っていた私に思いもよらぬ悲劇がもたらされた。


 王子様が私以外の女性を正室として迎い入れたのだ。


 全く予想だにしていなかった情報に、私は激しい動悸と困惑に襲われた。これまでの王子様との優雅な生活が頭を駆け巡る。私の頭がその突然の現実を理解することを拒絶し、甘美な夢の中へと誘おうとしているようであった。


 それでも、この惨めな現実からは逃れることは出来なかった。


 何度もその事を問いただしたが。それは間違いない情報であるという事、もうすでに民衆へも通達されているという事が告げられた。


 それではこれまでの私は何だったのであろうか。あれほど王子様に愛され、幸せな生活を送っていたというのに。


 私はいてもたってもいられず、すぐさま王子様の下へと駆けだした。私を絶望から救い出してくれた王子様の下へ。


 それが嘘だと言って欲しかった。私だけを愛していると言って欲しかった。私だけに幸せをもたらしてくれると言って欲しかった。私だけにこの甘美な栄光を味合わせて欲しかった。私だけに……。


 そんな希望は全て霧散した。


 どうやら、私は王子が正室を迎えるまでのただの遊びでしかなかったのだ。婚約というのも私を弄ぶための方便に過ぎなかったのだろう。そんなことにも気が付かず、かりそめの幸せに浮かれていたに過ぎなかったのだ。


 王子の横には私の知らない女性がおり、王子に身体を預けて私に侮蔑的な表情を向けていた。そして、私の狼狽えた表情を嘲笑しながら王子へと何かを伝えた。


 必死に王子へと懇願するも、もう昔のような愛情に満ちた表情を向けることも無く冷徹に衛兵を呼ぶ王子。私の身体を数人がかりで押さえつけ、部屋の外へと連れ出そうとする衛兵。


 再び私に絶望が訪れた。


 どんなに手を伸ばしても、どんなに懇願しようとも、絶望へと落下する私を助けてくれるものは無かった。あるのはただその失楽を眼前へとつきつける現実のみ。


 これでは昔と一緒ではないか。あの人たちに抑圧されたあの忌まわしき過去と。


 私の絶叫が部屋をこだまする中、王子たちはもう飽きたとばかりの表情で奥の部屋へと向かっていた。衛兵に連れ出されながら微かに聞こえたその足音は、これまで聞いた中で最も冷たく酷いものであった。


 数人の衛兵を振り払うことも出来るはずもなく、私は発狂しながら部屋を後にした。




 それからの事は記憶が断片でしかない。


 私が無用になった王子たちが、私に何かしらの罪をきせて暗く閉ざされた牢に閉じ込められた事。煌びやかな生活から一転、カビたパンをかじる惨めな生活になった事。衛兵の遊びの相手となった事。


 全てが私の性質を破壊していく。私が築き上げた、私が手に入れた全てを。


 私という存在が否定され、私は絶望の中で孤独に打ちひしがれていた。誰も私を助けてくれない、誰も幸せを私に与えてくれない、誰も私を肯定してくれない。


 心に巣食った悪魔が私を孤独な世界へと引き込んでいく。


 しかしながら、それを振り払う術も、家族も私にはなかった。


 しばらくして、私は外の世界へと売られてしまったのだろう。昔の方が天国であるような仕打ちが私には降りかかったが、私の心はこれ以上に壊れることは無かった。そんな外部からの不快な刺激よりも、内在する苦痛の方が私自身を蝕んでいく。


 ――私は何を見誤ったのか。


 私が否定したいと思っていたものは、本当は私自身を守ろうとしていたのではないか。私の主観的な想いがそれを否定していただけではないのか。私はそんな鎖が煩わしくなり、自らその鎖をこの身から捨て去ってしまったのではないか。


 薄暗い部屋の中で激しく揺れる灯りが私の過去の記憶を照らしていく。


 あれが私の我儘な想いが作り上げたものであり、本当は私のための行動であったのであれば。


 私は見誤ったのだ。


 本当に私を大切にしてくれる者を。


 見た目では無く、本当の私を見てくれている者達を。


 私はカビ臭いベッドの上で涙を流した。




 しかしながら、もう遅い。どんなに悔いようとも、どんなに過去に戻りたくとも、この絶望から逃れることは出来ない。私がその唯一の助けを振り払ってしまったのだから。


 雪が私を絶望の底へと押しつぶしていく。


 でも、それは仕方のない事かもしれない。私の犯した罪を考えれば。


 私のような浅はかな欲望に駆られて悪魔に耳を傾けた人間に、この世界の温もりを享受する権利は無いのだろう。


 あの時ああしていればなんて考えても遅い。私はすでに人間としては失格なのだから。


「……ごめんなさい」


 遅すぎる悔いの言葉を口にするも、それを届ける相手はもういない。雪のように地面に落ちて、後からのしかかってくる雪に覆い隠されてしまう。


「……ごめんなさい」


 それでも私の口からは言葉が落ちていく。何度も何度もその思いだけが溢れては、私の口を動かしていく。こんなことしてもどうすることも出来ないというのに。それでも私はそれだけしか出来ない。そんな事をしても赦されるはずもないというのに。


 もうすでに体の感覚はない。寒さが私の体を蝕んでいるのだろうが、私にとってはそんな事よりも自身の心に巣食う悪魔の方が強烈な刺激を与えている。


 雪の重みで体が地面に埋もれていく。


 このままでは私は存在を失ってしまうのだろう。


 しかしながら、もうそれでも良い。いや、それが良いのだろう。


 私のような悪魔を秘めた存在がこの世界にあるべきではない。


 せめて私が出来るのは悪魔がこの世界に蔓延しないように、このまま雪に覆いつくされて消えてしまうべきなのだろう。


「……ほんとうにごめんなさい」


 消えゆく灯の中、どこか懐かしい冷たい足音が聞こえてくる。その足音には確かに温もりを感じることが出来た。

閲覧ありがとうございます。

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