婚約破棄された瞬間、“契約上あなたの全財産は私の物”と判明したので、辺境ごといただいて幸せになりますね?
銀の燭台が光をほどき、宮廷楽師の弦が軽やかに跳ねた。春の香草を浮かべた酒に、貴族たちの笑い声。白い大理石の床に長い裾が波を作り、噂話が静電気のように空気をぴりつかせている。
エリザベッタ・ファルネーゼは、緩やかな曲線を描く階段の上から、そのすべてを見下ろしていた。胸元には家の紋章のブローチ。指先は落ち着いていたが、視線だけは獲物を狙う鷹のように鋭い。
大臣が咳払いをした。人々の視線が集まる。王太子セドリック・ド・ヴァロワが、金糸の外套を翻して中央へ進む。完璧な微笑。完璧な姿勢。完璧な傲慢。
「本日をもって、我はエリザベッタ・ファルネーゼとの婚約を解消する」
弦が一瞬だけ外れた音を立てた。囁き声が重なり合い、薄い波紋になって広がる。
「急な話であるが、互いのためだ。彼女には新たな幸福があるだろう」
エリザベッタは階段を降りた。裾が石を滑る。
「……それは、たいへん光栄なご配慮ですね、殿下」
周囲がどよめく。彼女の声は軽く、音符のように運ばれていく。
「ひとつだけ、先に申し上げておきたいことがございます」
「何だ?」
「契約の話です」
空気が締まった。宰相ギヨーム・ダルマニャック公の眉が、ごく小さく跳ねる。
エリザベッタの父、フェデリコ・ファルネーゼ伯爵が人混みを割って進み出た。老獪な微笑とともに、黒革の筒を侍従から受け取る。
「王太子殿下。婚前に交わされました『王家婚姻保証契約(Contrat de Mariage Royal)』をご記憶と存じます」
「……覚えているとも」
「であれば、条項第七をご再確認いただきたい。——“破棄を申し出た側は、自らの全私財ならびに保有受益地および継承順位から生ずる権利を、無条件に婚約相手へ譲渡する”」
「馬鹿な」
セドリックの笑みが一枚剥がれる。周囲の扇が止まり、音楽家が弓を宙で固めた。
「そんな条項、受け入れた覚えはない」
「殿下の花押と王室大印がございます」
フェデリコは筒から羊皮紙を抜き、長卓の上に広げた。蝋の赤が艶やかに光る。大印の意匠——双頭の獅子と百合——が、会場の目を縫い止めた。
「証人の名も、しかと」
宰相ギヨームの名もあった。彼は一拍だけ沈黙し、扇子を閉じる音でそれを打ち消した。
「……確かに、そのように記されている」
「陛下の御前で沙汰を」
大臣が慌てて口を挟むが、人の流れはもう変えられない。
「殿下」
エリザベッタは、階段下の最後の段に踵を揃えた。視線が正面からぶつかる。殿下の瞳に初めて焦りの影が揺れた。
「あなたは、私を捨てると公に宣言なさいました」
「互いのためだと——」
「ありがとうございます。では、契約通り、あなたの“すべて”を頂戴いたします」
ざわめきが爆ぜた。誰かの扇が床に落ちる乾いた音が、やけに大きく響く。
「侮辱だ!」
「いいえ、事務手続きです」
エリザベッタは微笑んだ。明るく、礼儀正しく、そして容赦がない。
「事務方の段取りは既に整えております。王室会計局、宮廷法務院、そして受領確認の公証人。祝宴の後でよろしければ、第一回目の譲渡手続きを」
「父上!」
セドリックは王の玉座の方を振り仰いだ。しかし病床の王は今夜も姿を見せない。代理の摂政評議会は、互いに目配せを交わすだけ。
「ギヨーム!」
「……署名は正当だ、殿下。例外規定もない。——一つだけ道はある」
「言え!」
「婚約破棄の撤回だ。撤回し、関係の継続を宣言すれば、条項第七は発動しない」
会場が静まった。まるで時間が息を止めたようだった。エリザベッタは一歩、彼へ寄る。
「殿下。撤回なさいますか?」
セドリックの喉が動いた。傲慢な王太子は、ここで初めて計算を始める。世間体、権威、体面、未来、そして今夜の噂。
「……いや。撤回はしない」
「承りました」
エリザベッタは軽く会釈した。
「それでは、譲渡の件——まずは“ベルモン辺境伯領”に関する権益から」
「待て、ベルモンは予備継承地だ。王太子位に付随する受益地で——」
「条項第七。“継承順位から生ずる権利も譲渡”」
フェデリコが淡々と読み上げる。公証人が頷き、書記官がさらさらと羽根ペンを走らせた。
「ベルモンの名を口にするなど——」
「殿下が私の名誉を口にしたのと同じです」
エリザベッタは微笑を崩さない。
「その地は荒れていると伺いました。税は未収、軍は痩せ、道は途切れがち。ですが、心配はいりません。必ず立て直します」
「……君が?」
「ええ。契約は守るためにあります。破る者からは奪い、守る者に与える。そう定めたのは——殿下、あなたの花押です」
セドリックのこめかみがぴくりと震えた。周囲の貴婦人たちが、扇の陰で目だけを輝かせる。誰もが理解していた。今、力が移ったのだと。
「カテリーナ」
エリザベッタが侍女の名を呼ぶ。
「はい、お嬢さま」
「帳簿一式と領地台帳、受け取りの控えを」
「こちらに」
黒革の帳面が開かれ、印の欄が示される。エリザベッタは羽根ペンを取り、するりと自らの署名を置いた。小鳥が尾を引くような筆致。
「フェデリコ伯」
「ここに」
父も署名する。公証人が印章を押す音が、小さく乾いて連なった。
「まだ終わらないぞ」
セドリックが吐き捨てる。声は低いが、震えがある。
「ベルモンだけではない。王都の私邸、馬、銀器、金庫——」
「もちろん、すべて契約に則って。殿下の思い出まで奪う趣味はありません。不要なものは、売却いたします」
「エリザベッタ!」
宰相ギヨームが一歩踏み出す。扇が再び開かれ、その影が瞳を隠す。
「君は敵を作った。王太子を辱め、王家の威信に泥を塗った。反動は必ず来る」
「脅しでしょうか、それとも助言でしょうか」
「助言だ。王都は牙を持つ」
「辺境も、牙と爪を持つようにいたします」
言葉の刃がきらめき、互いの喉元で止まる。最初に視線を逸らしたのはギヨームだった。
「受領控え、確かに。第一回譲渡分——ベルモン辺境伯領に関する一切の権益、並びに王都の私邸二棟、厩舎、騎獣二十六、銀器三十八籠、宝飾品目録の半分。残余は追って査定の上で」
書記官が読み上げ、印を置くたびに、誰かが小さな悲鳴を呑み込む。祝宴はもう祝宴ではない。これは公開の裁判であり、執行であり、歴史の瞬間だった。
「殿下」
エリザベッタは最後に、ほんの少しだけ声を柔らかくした。
「あなたが“互いのため”とおっしゃった言葉だけは、信じます。互いのために、今この瞬間、私はあなたから離れます。契約も、運命も、ここで切り分けましょう」
「……後悔するぞ」
「後悔とは、計算を怠った者の慰めです」
エリザベッタは一礼し、踵を返した。裾が月光のように揺れ、階段へ向かう。
「お嬢さま、馬車の用意が」
「ええ。今夜のうちに王都を出ます」
「今夜?」
「噂は足が速いでしょう? 噂より速く動くのが、ファルネーゼの家風です」
彼女の背中に、幾つもの視線が刺さった。羨望、恐怖、憎悪、称賛。どれもよく知る感情だ。ただ一つ、彼女が求める視線はここにはない。
——辺境にある。
ベルモン。風が強く、土が痩せ、地図の端で墨が薄くなったところ。そこに、新しい呼吸が待っている。牙と爪を持ち、背を預け合える誰かが。
「フェデリコ伯」
「何だ、エリザベッタ」
「契約は、もう一つあります」
「ほう?」
「明日の朝、ベルモンへ向かう護衛契約。私が私自身と結ぶ契約です。——“恐れは歩みを遅くしない。ためらいは唇に出さない。敗北は帳簿に載せない”」
「ずいぶん可愛い条文だ」
「可愛い契約ほど、よく効きます」
父が笑い、娘も笑った。二人の間を通る風は、もう王都の香水の匂いではなかった。鉄と革、湿った土、遠い山の影の匂いだった。
大広間の入口で、エリザベッタは一度だけ振り返った。セドリックの視線とぶつかる。彼は何かを言いかけ、言葉を拾えず、ただ唇を噛んだ。自分の歯の形が残るほど強く。
「さようなら、殿下。あなたの“元”婚約者より。——そして、あなたの“元”財産の持ち主より」
軽やかに会釈。扉が開き、宮廷の光が背中を押し、夜の冷気が頬を撫でる。外には、車輪の軋み、御者の掛け声、遠くで犬が吠える声。世界は変わらず回っているのに、中心だけが入れ替わっていた。
「出発だ」
エリザベッタの合図で、列が動く。カテリーナが外套を肩に掛け、ニコラが帳面を抱え、護衛の兵が道を開く。王都の石畳が、馬蹄の音で新しいリズムを刻み始めた。
彼女は馬車に乗り込む前、もう一度だけ空を見上げた。春の星は少ない。けれど、北のほうに、針の先ほどの光が確かに見えた。方向さえ分かればいい。あとは、進むだけだ。
「行こう、ベルモンへ」
扉が閉まり、車輪が回り出す。祝宴の音は遠ざかり、夜の静けさに混じっていく。契約の蝋は固まり、印は乾き、物語は次の紙をめくる準備を整えた。
——この夜、王都は新しい噂で満ちた。「ファルネーゼの令嬢、王太子を契約で破った」と。翌朝、石畳に残る車輪の跡を眺めて、人々は首を傾げる。「彼女はどこへ?」と。答えは簡単だ。彼女は、地図の端を中心に変えに行くのだ。
ベルモンの風が、まだ見ぬ誰かの髪を揺らしている。実直な騎士の、冷たい瞳の奥に、未だ言葉にならない警戒と好奇が灯っている。二人が出会うまで、あと少し。
馬車は三日三晩、風の筋を追った。舗装は途中で尽き、石と泥の斑模様になり、やがて道は獣の通り道へ細る。夜明け前、北風が頬を叩く頃、見張り台の影と帆のない風車が見えた。歯を食いしばった大地が、そこから先だと告げている。
「ここが——」
車窓の外に、崩れかけた城壁、傾いた柵、干からびた運河。風に鳴る錆びた鎖。畑は刈られたまま秋で止まり、納屋の扉は口を開けたまま、冬の埃を吸い込んでいた。
「ベルモン辺境伯領、です」
侍女カテリーナが外套の襟を直し、肩で風を切る。
「噂通り……いえ、噂よりも痩せていますね」
「痩せた地は、栄養を欲しがるだけ。欲しがるものには与えればいい」
エリザベッタは馬車を降りた。靴の底に、薄く凍った霜が鳴る。胸の奥で、王都とは違う種類の匂いが膨らむ。木酢、煤、獣脂、湿った干草。現実の匂い。
「止まれ」
低く抑えた声が、風の切れ間から落ちてきた。振り向けば、石造りの門楼から灰色の外套が降りてくる。背丈は高く、装飾の少ない剣帯、丁寧に研がれた留め具。動きに無駄がない。
アドリアン・ド・ベルモン。
噂では無口で実直、領の兵をまとめてきた“最後の支柱”。近づく足音は軽くない。重いのでもない。手入れの行き届いた革靴が、正確に地面の固いところを選ぶ足音。
「……ファルネーゼの印章。本物か?」
「偽物でここまで来るほど、私たちは暇ではありません」
カテリーナが一歩前に出る。アドリアンはその侍女を一瞥し、視線をエリザベッタに戻した。広い肩がわずかに揺れ、右手は剣の柄から離れた。
「失礼した。アドリアン・ド・ベルモン。領の臨時守備隊長だ」
「エリザベッタ・ファルネーゼ。今夜から、ここの持ち主です」
風が二人の間を抜け、外套の裾を翻した。アドリアンは無言のまま、門を開ける動作で案内の意志を示す。言葉が少ないのに、拒絶はない。それだけで十分だった。
城内は、想像よりも静かだった。空の樽、煤けた暖炉、舟底のように反った床。階段の手すりは手垢で黒光りしているのに、近年の油が感じられない。
「人は?」
「……冬を越せなかった家がある。出て行った家もある。残ったのは、骨のある者と、骨だけの者だ」
「骨がある者から火を点けましょう。骨だけの者には、スープと薪を」
「……できるか?」
「やります」
アドリアンは短く頷いた。信じたわけではない。嘘を見抜いたわけでもない。ただ、刃を抜く理由がないから収める。そういう頷き。
「まずは倉の鍵。帳簿。徴税台帳。鍛冶場の在庫。水路の地図。それから、織機と縫い針。羊毛の質も確認します」
「……織機?」
「はい。ベルモンは冬が長い。畑が眠る間、手を動かすものが必要です。糸と布は、飢えと寒さの敵になります」
「鍛冶より先か?」
「いいえ。並行します。私が動かすのは、布です。鉄は、あなたに任せます」
アドリアンの瞳に、わずかな光が差した。任されることに慣れていない顔だった。それでも「任せる」と言われた時の、筋肉の緩め方は知っている。
「台帳は……ここだ」
粗末な机の上に、湿気で波打った帳面が重ねられた。ニコラ・ヴェルサリエが鼻歌交じりに紙を起こし、指で数え始める。
「麦、赤字。塩、赤字。油、赤字。徴税人、夜逃げ」
「可愛い数字ね」
「この可愛さ、僕には刺さりますがね!」
「刺さらない数字にしましょう。刺繍で」
エリザベッタは外套を脱ぎ、袖をまくった。カテリーナが箱を開ける。針、糸、布、薄い銀線、乾かしたハーブ。小さな鐘が鳴るような道具の音が、荒れた広間に新しい響きを持ち込んだ。
「……何をする」
「ベルモンの食卓を、冬でも腐らせないようにします」
彼女は麻布の端を撫で、針を通した。細い銀線が糸に絡む。「紋」を描くのは、花でも動物でもない。小さな、理の記号。環、点、短い線。隙間にハーブをすり込んだ粉を落とし、結び目を小さく締める。
「これは、“保存”の刺繍。熱でも氷でもない、目に見えない膜を布に持たせます。パンを包めば、日持ちが倍。燻製は匂いを逃がさない。肉は滴りを抑える」
「魔術か?」
「工夫です。それと、契約」
「契約?」
「刺繍は、布との契約です。“あなたはこの形を保つ、その代わり、この記号を受け入れる”。違反しない限り、効き続けます」
「……信じろと?」
「試せばいい」
彼女はパンの端を小さく切り、刺繍の布と、ただの布で包み分けた。暖炉のそばに置き、鐘を三度鳴らす。
「鐘は?」
「時間の印です。約束の開始の合図」
ニコラが腕を組み、じっと見張る。アドリアンは暖炉の火加減を整え、燃えやすい枝を足し、煙の流れを見た。動きに迷いがない。日常で火と向き合ってきた人間の手つきだ。
「次に“抗菌”の刺繍。水桶の布蓋に。これで腹を下す者が減ります」
「本当に効くのか」
「明日には誰かが“下さなかった”ことに気づくでしょう。人は、悪い日に気づき、良い日は見過ごす。だから印を付ける。布に、帳簿に、人の舌にも」
「舌に?」
「食卓の声は、領の通信網です。『塩が足りない』より『布をかけたら悪くならなかった』のほうが、人は動く」
カテリーナが笑った。ニコラも笑い、そして帳簿に線を引く。負債の列に、細い横線が一本増える。始まりの印だ。
「水路は?」
「上流で崩れています。石も抜かれた。去年、上の村と揉めた」
アドリアンが短く説明する。言葉は少ないが、必要な情報だけを投げてくる。余計な形容がない。地図の上で指が止まる位置が、実際の傷の場所と一致しているのだろうと分かる。
「石は足りる?」
「兵舎を壊せば足りる」
「壊さないで。人の寝床は、領の心臓です。代わりに、王都の私邸から石を運びましょう」
「そんな時間はない」
「時間を買います。塩と保存布を、王都へ送る。噂に火がつけば、商人がやってくる。その荷に、石を乗せる」
「王都は貴族の遊び場だ。辺境の布に興味を持つか」
「持たせます。王太子の“元”婚約者の布ですから」
アドリアンの眉がわずかに動いた。誇示ではなかった。武器庫の棚に、一本、新しい矢が刺さっただけだ。
「鐘が三つ」
ニコラが暖炉のそばのパンに手を伸ばす。包みを解いて匂いを嗅ぎ、指で弾力を確かめ、歯で小さく噛む。
「お。こっちはしっとり。こっちは……乾いてそろそろ酸っぱくなる前の匂い」
「効いている」
アドリアンはそう言って、ほんの少しだけ顎を落とした。納得のサイン。
「兵の靴に、刺繍を」
「靴?」
「下駄箱の匂いがひどいでしょう? 匂いは士気を下げる。靴底に“乾き”の紋を縫う。靴擦れも減る」
「……分かった。兵舎へ案内する」
廊下を抜けると、武具庫の匂いが濃くなる。並んだ槍の穂先、欠けた盾、干からびた油。アドリアンは慣れた手で戸を開け、空気を入れ替えた。
「武具は、あなたの領分。私は布を任せて」
「命令は嫌いだ」
「任せるのは命令ではありません。信用です」
短い沈黙。暖炉の火がぱち、と鳴る。
「……了解した」
その言葉は、剣の柄を握るより重かった。彼の肩がわずかに落ち、呼吸の音が一つ深くなる。エリザベッタは頷いた。ここからだ。
昼過ぎ、広場に人々を集める。背骨の曲がった老人、手にひびの入った女たち、痩せた少年兵。顔は強張り、視線は探るように揺れる。
「私は、あなた方の新しい主です」
囁きが走る。敵意でも好意でもない。判断を保留する音。
「まず、契約を結びます。——“労働の対価は、布と塩と薪で支払う”。帳簿は誰でも見られる。私の箱は鍵を二つ。ひとつは私、ひとつは会計のニコラ」
「信用できるのか?」
誰かが言う。声は震えていない。飢えのほうが、恐怖より強い時の声。
「信用は、契約で守るものです。違反したら、私はここに立てません。違反した者は、ここに立てません」
「……じゃあ、やることは?」
「今週は四つ。水路の石積み、塩の小屋の整理、織機の据え付け、靴の刺繍。腕のある者は一番目。手の細い者は三番目。鼻の利く者は二番目。足の速い者は四番目」
「鼻の利く者?」
「腐臭は、あなたたちの敵です。敵の足音は、あなたの鼻が最初に嗅ぎつける」
女が笑った。自分の役目が、初めて名前を持った瞬間だった。
「アドリアン」
「いる」
「水路に行って。あなたが見れば、直す順番が分かるでしょう」
「分かる」
「夕方までに“危ない場所”の印だけでも付けて。そこから先は、明日から人を回します」
「……承知」
人々が散り、音が戻る。足音、石を動かす音、木槌の乾いた響き。織機の枠が運び込まれ、埃が舞い、光が埃を金に変える。
「お嬢さま、王都からの使いです」
カテリーナが封蝋のついた手紙を差し出した。赤い蝋には百合の意匠。宰相ギヨームの印章。
「開けて」
手紙は短かった。形式は丁寧、内容は冷たい。
——譲渡手続きは確認した。だが王都の会計は再査定を要求する。査定人を派遣する。到着まで、譲渡資産の移動を控えよ。
「遅らせるつもりですね」
「査定人という名のスパイ、あるいは火付け」
ニコラが肩をすくめる。エリザベッタはペンを取り、裏に書き付ける。
——査定人の受け入れを歓迎する。だが、保存布と塩は“領の生命維持”に当たる。移動でなく、流通である。妨害は、生命に対する妨害と見なす。
「言葉の刃が多い」
「刃は鞘に収めておきます。必要な時だけ抜く」
風が鳴り、門楼の上から号笛が響いた。高く短い音。警戒。
「アドリアンが戻った?」
「違う、上流——」
兵が駆け込む。頬に泥、息は白い。
「水門の杭が抜かれてる! 昨夜のうちに誰かが!」
エリザベッタは外套を取った。声は落ち着いている。心臓だけが、先に走り出そうとしている。
「人を呼んで。縄、木槌、石。織機は後回し。水が逃げる」
「俺が行く!」
いつの間にか戻っていたアドリアンが、短く言って門へ向かう。彼の背は大きく、足取りは速いが騒がしくない。風を割るだけの速さ。
「私も行きます」
「危険だ」
「危険は、机の上では減らせません」
彼は振り返らない。だが足を止めた。半歩だけ。それは、「来てもいい」の合図だった。
水門は、想像以上に酷かった。杭が二本抜け、土台の石がずらされ、水が牙を剥いて逃げていく。川音が怒鳴り声のように響く。
「縄!」
アドリアンが叫ぶ。兵が投げる。彼は杭に縄をかけ、体重で押さえ、腕の筋が浮き上がる。冷たい水が腿まで上がり、外套が吸い上げられる。
「押さえる。石を——」
「ここに!」
エリザベッタは裾を摘んで足を濡らし、石の位置に手を当てた。指先が震える。恐怖の震えではない。これは、針を持つ時の震えだ。正確な位置に、正確な刺を置かなければ、布は歪む。水も同じ。
「アドリアン、半歩左。石が噛む角度を三度浅く」
「……三度?」
「三本指の幅、気持ちです」
彼は言われた通り半歩ずらす。石が息を継ぎ、杭がわずかに沈む。水の牙が、ほんの一瞬だけ鈍くなった。
「次!」
「ニコラ、石! カテリーナ、縄を濡らして! 乾いた縄は滑る!」
声が飛び、手が走り、身体が動く。寒さの中で、熱が生まれた。額の汗が冷えて痛い。指先が痺れる。だが、杭は戻る。杭は戻る。杭は——
「かかった!」
最後の縄が締まり、杭が土台に噛み込む。一拍、二拍、三拍。水の牙が、牙のまま、柵の前で止まった。吠えるだけで、噛めない。
アドリアンが大きく息を吐く。肩が上下し、手の甲の血が水に流れる。
「傷」
「かすり傷だ」
「消毒、包帯。布に“清浄”を刺繍します」
「また布か」
「布は弱いようで、王都の鎧より強い日があります」
彼は何も言わなかった。ただ、差し出された布を受け取り、巻き付けた。指の動きが、いつも通り正確だった。
戻る道すがら、夕陽が雪雲の下で赤くぼやける。村の屋根から煙が上がる。誰かが笑う声。誰かが泣く声。誰かが祈る声。音が、ここに生きている。
「殿」
待ち構えていた兵が、泥のついた封書を差し出した。封蝋は割れている。中身は濡れて滲んでいたが、意味は読めた。
「——査定人は、今夜、上流の宿場に。同行の護衛が十」
ニコラが口笛を吹き、カテリーナが扇子をぱんと鳴らす。
「準備していたのは向こう、ということ」
「今夜来る」
アドリアンが短く言う。
「火付けか、買収か、威嚇か」
「どれでも同じです。契約違反には、請求書が付きます」
「請求書?」
「今夜、宿場に“歓迎の席”を。保存布のパン、塩、温かいスープ。それから——帳簿を」
「帳簿を?」
「“あなた方の滞在で、領にかかった費用”。宿代、薪、塩、警備。王室の査定人は、当然、正しい支払い方を知っているでしょう? 領の“流通”は妨げられない。もし妨げるなら、署名を」
「署名?」
「『査定の名を借りた妨害』の署名です。公証人の前で」
アドリアンの口角が、ほんの少しだけ上がった。笑うというより、牙を見せた。無駄のない、短い笑み。
「分かった。宿場へ俺が出る。兵は半分。残りは門。鐘は二つ。村に知らせる」
「カテリーナ、スープを。ニコラ、帳簿を清書。私の印章も」
「合点!」
「了解!」
夜は、冷たく速い。だが、動く者には味方する。動かない者の上に積もるだけだ。エリザベッタは外套の紐を結び直し、空を見上げた。星はまだ薄い。雪の匂いがする。鼻の利く者が、二人になった。
エリザベッタとアドリアンは、並んで門を出た。言葉は少ない。だが、歩幅は合っている。地図の端が、少しだけ濃くなった気がした。
宿場の扉を押し開けると、暖炉の炎がぱちぱちと乾いた音を立てた。机の上には、スープの湯気と、布で覆われたパン。そして、一冊の帳簿。査定人たちの顔に浮かぶのは、歓迎ではなく――落とし穴に気づく寸前の動物の顔。
「ようこそ、ヴァロワ王国査定局の皆さま」
エリザベッタは完璧な礼をした。背筋が弓なりに美しく、それでいて膝は一寸も揺れない。彼女の背後で、帳簿係ニコラがにこやかに振る舞い続ける。彼は笑顔の仮面を持つ男だ。笑うほどに、額の計算は進む。
「お疲れでしょう。まずはお食事を。費用は――こちらに明記してあります」
ぴら、と帳簿がめくれる。
項目:食費24リーヴル。薪6リーヴル。労務費8リーヴル。警護費12リーヴル。査定人5名+護衛10名=計15名。合計50リーヴル也。支払い期日、今宵。
「……馬鹿な。査定対象の領地が請求を――」
「いいえ。領地ではありません。宿場の店です。ここは王都ではありません。『来訪者が金を払わず去る』のは、窃盗にあたります」
査定人たちの表情が凍った。護衛の手が剣にかけられる。だが、その前にアドリアンが立った。無駄な構えはない。ただ剣帯に指を添えているだけなのに、圧がある。
「剣を抜けば、“武力を用いた査定妨害”として記録する」
「記録……?」
「契約は、言葉より、記録の方が強い」
エリザベッタは一枚の紙を卓上に広げた。
「“妨害記録書”。署名はここ。拒否した場合は“証明拒否”と書き、私が署名します。いずれにせよ、公証人のもとへ提出されます」
「ふざけるな!」
「ふざけているのはどちらでしょう。“査定人が領収証を拒否した”などと王都に戻れば……あなた方の席は、まだありますか?」
査定人の顔色が変わる。護衛が剣から手を離す。ニコラがにっこりと微笑みながら、ペンを差し出した。
「どちらをご希望です? “支払い完了”か、“記録的敗北”か」
その夜、査定人は支払った。領主に屈したのではない。契約に屈したのだ。
翌朝。
王都ヴァロワ。砂糖の塔のように白く飾られた城の一角で、宰相ギヨームは怒りに震えていた。机の上には査定人の報告書。
「……“歓迎された。領収書を提示された。払わなければ妨害として記録されると言われた”?」
「は、はい、宰相閣下。証拠として……領収書、です」
紙が1枚、机に置かれた。明細、署名、印章、すべて整っている。
「契約を武器にする女だ……!」
「それが、かのエリザベッタ・ファルネーゼかと」
「黙れ。王太子殿下はまだ――」
扉が荒々しく開いた。
「まだ、何だ?」
セドリック・ド・ヴァロワ。顔色は悪い。頬は痩せ、目の下に深い影。だが声だけは、まだ威を残していた。
「父上の財務官が言っていたぞ。王室の私財が“譲渡済み”のままだと。私邸も、宝飾も、馬も、すべてあの女の元にあると!」
「殿下。あれは殿下が署名した契約で――」
「黙れ!!」
怒号が石壁を揺らす。臣下たちは顔を伏せた。ギヨームだけが、わずかに目を細める。
「殿下。……要は“奪い返せば良い”のです。契約がどうあれ、力で取り戻せば、歴史は王家に味方します」
「軍を出すというのか?」
「軍、ではありません。“徴税のための保安隊”です。名目は、“辺境での資産再査定”。法律上、問題はない」
セドリックの瞳に、鈍い炎がともった。
「ならばやれ」
「承知」
ギヨームは一礼し、片手を胸に添えた。
「――ただし、殿下。これは“最後の勝負”でございます」
「分かっている」
「負けた時、王家はどうなるか。殿下は、どうなるか」
「黙れと言ったはずだ」
ギヨームは薄く笑い、頭を下げた。
その笑みは、忠義の色ではなかった。
ベルモンでは、風が強かった。
エリザベッタは織機の前で針を動かしながら、報告を聞いていた。
「――王都軍ではなく、“徴税保安隊”という名目の部隊が出た模様。数は四百前後。荷車は空。補給地は未定」
「補給地未定……つまり、“現地調達前提”」
「はい。略奪仕様ですな」
ニコラが指を立てた。
「普通の軍なら、兵糧を積む。だが今回は“徴税”の建前がある。『お前たちの倉を押収する』と言えば合法にできる」
「なら、こちらの武器は一つ」
エリザベッタは針を止め、糸を切り、布を持ち上げた。
「“倉の中身はすべて契約済み”。押収された瞬間、“王室による不当徴発の違約金”が発生する」
「違約金って……実際、払わせられるんですか?」
「契約は、法廷に行かずとも“市場”で効きます。違約金が発生したという事実だけで、王家は“信用を失う”。信用を失えば――」
「商人が金を貸さなくなる」
「そうなれば、兵糧は買えない。保安隊は、動くほど飢える」
アドリアンが静かに言った。
「だが、奴らは兵だ。飢えた兵は、契約書を読まない」
「だから、“読むより早く効く契約”を用意する」
エリザベッタは机の上に並べた。
・倉庫契約書
・輸送契約書
・保存布の使用許諾書
・警護費申請書
・物資確認台帳
「兵が倉に触れた瞬間、書類が“発動”する。受領者を記録し、違約内容が確定し、写本が三通自動で作られる」
「自動……?」
「ニコラがやります」
「僕かよ!!」
「書類の悪魔と呼ばれる日は近いわね」
「呼ばれたくないです!!」
笑いが起こる。場の空気が明るくなる。契約とは、恐怖を武器にするものではない。“準備”を希望に変えるための道具だ。
「アドリアン。兵の配置を任せるわ。倉庫と水路、織場、食料庫。“奪われたら終わる場所”を最優先に」
「了解」
「私は“迎撃文書”を仕上げます。剣の代わりに、紙で切る」
王都軍――いや、徴税保安隊――がベルモンに迫る頃。
彼らは腹を空かせ、士気が下がり、馬は痩せ、荷車には何も積まれていなかった。空っぽの荷車は、略奪の意思そのものだ。
そして、先頭に立つギヨーム配下の将校は、まだ知らなかった。
“彼らが最初に襲う倉庫が、すでに契約で武装されている”ことを。
その夜、ベルモンの広間に灯った松明の下で、アドリアンが短く言った。
「――来るぞ」
「来ましたね」
エリザベッタは筆を置き、印章を乾かした。布の刺繍は乾いている。倉庫の扉には、鍵と――契約文言が貼られている。
『この倉に手を触れた者は、王室徴発の名目を問わず、“違約金3000リーヴル”の責を負う』
「……奴ら、本当に読むと思うか?」
「読まなくていいのです。読むのは、兵ではなく、“後で責任を問われる者”」
「つまり――」
「ギヨーム公。もしくは、セドリック殿下」
エリザベッタは静かに言った。
「戦はもう始まっているわ。剣でなく、条文で」
そして、夜明け前。
徴税保安隊、ベルモン境界に到達。
先陣の兵が倉庫に手をかけた瞬間――
契約が発動した。
記録は刻まれ、写本は作られ、証拠は三通。ベルモン、王都公証所、そして“王都商人ギルド”へ。
同時に、王都の商人街に轟く噂――
「王宮が“契約違反の負債”を背負った」
やがて、王都で金貸しが動きを止める。利子が跳ね上がる。市場が凍る。王家の信用が削れる。
まだ剣は交わっていない。
だが――
王都は、もう負け始めていた。
夜の底が薄くなる。雪を孕んだ雲の縁が、灰から白へと滲む。ベルモンの見張り台では、号笛と松明が交互に瞬き、城内には紙の擦れる音と、布と革の匂いが満ちていた。
「報告。先陣、倉庫の扉に触れて撤収。二陣は広場側へ回り込み」
兵が駆け込み、息を白く散らす。アドリアンは短く頷き、視線で次の指示を配る。無駄のない手。余計な言葉がない。だが、誰も迷わない。誰も怯えない。
「“契約”の矢文は三通、既に王都へ飛ばしました」
ニコラが記録板を抱えて笑う。彼の笑顔は疲れていたが、目は冴えていた。
「商人ギルドにも。ついでに、うちの保存布を十枚、見本で送ったわ」
エリザベッタは印章の蝋の固まり具合を確かめ、指先を軽く振る。銀糸が光り、ハーブの匂いが微かに立つ。布の端には、さらに細い刺が刻まれていた。「流通」の紋。“運べば運ぶほど価値が上がる”。細工は簡単、効果は派手だ。
「殿下の動きは?」
「……まだ。ギヨーム公は保安隊に、“最初の勝利”を命じたはず。勝利の形は、旗でも首級でもない。“恐怖”。恐怖は、朝の噂になる」
「なら、こちらは“笑い”で迎えましょう」
「笑い?」
「恐怖は広がるのが速いけれど、笑いもまた速い。人は面白い話を、腹の虫より早く隣に渡す」
アドリアンの眉がわずかに動く。理解というより、信頼の動き。彼は分からないことを、分からないまま握り潰す男ではない。分からないことは、働きで補う男だ。
「鐘、二つ。広場に人を。布の配布、塩の配膳、スープの鍋は門の内側で」
「了解!」
「了解!」
「了解!」
返事が層になって重なり、音が城壁を振るわせる。雪の匂いが濃くなった。空は白に傾く。日はまだ上らない。だが、始まっている。
——戦は、すでに始まっている。
保安隊の旗が現れたのは、朝どきりの風が止む、一瞬の静けさの中だった。白地に金の百合。だが、その立ち姿は威風というより、空腹の揺らぎを抱えていた。馬が泡を吹き、槍の穂先には布が巻かれ、荷車は空のまま音を立てる。
「ベルモン辺境伯領に告ぐ!」
先陣の将校が喉を張った。甲冑は磨かれている。靴は泥で鈍い。
「本隊は王都“徴税保安隊”である! 資産再査定及び徴発のため、倉と金庫の開放を命ずる!」
広場の中央。倉庫の前に立つのは、エリザベッタ。赤い外套。白い手袋。背筋。笑顔。背後には、契約文言が貼られた扉。鍵は二重。横に置かれた卓には帳簿。さらにその横に――
「パンとスープです」
カテリーナが朗らかに言う。湯気が風に乗る。兵の喉が鳴る音が、遠くまで連なった。鍋の前には布が一枚。銀糸の刺繍入り。見慣れない図形の並び。
「お引き取りの前に、査定人各位には“保存布”の説明会を」
「黙れ! 命令は一つだ! 開けろ!」
「命令は二つです。“命令”と“領収”。どちらを先に致しましょう?」
「……貴様!」
将校が馬腹を蹴る。馬の蹄が石を打つ――その瞬間、アドリアンが一歩進んだ。刀は抜かない。抜かずに、馬の前に立つ。馬が、足を止めた。止める声も鞭もない。ただ、人の“存在”で馬が止まる。兵の目が、そこで初めて揺れた。
「命令を実施する。扉を開けよ」
「契約を実施する。違約金の表示はすでに成された」
エリザベッタは将校と目を合わせ、親切に指差す。
「こちらに“あなたが負うことになる金額”が。数字は大きいですが、0は飾りです」
将校の指が震える。怒りではない。寒さでもない。理解が、骨の中に遅れて届いた震え。
「……お前は王家を脅すのか」
「王家を守っているのです。契約は、王家の信用を守る鎧。今、あなたがその鎧を刃で傷つけようとしている。私が止めるのは当然でしょう?」
将校は唇を噛み、背後の列に目配せした。長槍が傾く。弓が軋む。兵は迷っている。空腹は命令の速度を削り、寒さは勇気の噛み合わせを狂わせる。
「……撃て!」
命令が出た。だが、矢は飛ばなかった。弓兵が弦を引きながら、視線を左右に走らせる。何かを探している。答えは、広場の端の人混みの中にあった。
「“王都商人ギルドの使い”だ」
誰かが呟いた。使いの男が掲げた板には、こう書かれていた。
『王都商人ギルド告示:王室に“契約違反疑義”が生じたため、王室への貸付金利を当面引き上げる』
ざわめきが、保安隊の中で起こった。矢は震え、弦は歌わない。兵たちは、王家の“信用”という見えない地面が沈む音を、耳ではなく腹で聞いた。
「撃てと命じた!」
「殿、これ以上は――」
「撃て!!」
将校の怒声が空を裂く直前、エリザベッタは一歩前に出て、広場に響く声で言った。
「“開戦”は簡単です。紙一枚でできます。こちらに“戦争開始届”の紙があります。お名前と印章をどうぞ」
広場が静まった。兵も、村人も、空さえも、言葉の奇妙さに固まった。
「戦争開始……届?」
「はい。“徴税保安活動”と“戦争”は別物です。違約金の扱いも、刑罰も、責任者も変わります。——こちらに“戦争”の欄。こちらに“妨害”の欄。お好きなほうに」
アドリアンの目が、薄く笑った。将校の手は、ペンを掴めない。掴めば、歴史に名前が残る。掴まなければ、ここで空腹と寒さの中で、命令だけが宙づりになる。
「……退く」
先陣が下がった。二陣がざわめき、三陣が溶ける。騎兵が輪を描いて距離を取り、槍の穂先が雪空を向く。松明が揺れる。鍋の湯気が、もっとも高く上がる。
「スープをどうぞ。塩も。布は“貸与”。返却時に“匂いが戻っていないこと”を条件に“無料”。返却しない場合は“購入扱い”。契約は“温かさ”の味がします」
笑いが広場に走った。兵が一人、二人と鍋に近づき、布で椀の縁を拭う。口に含めば、舌がほどけ、肩が落ち、目の端が緩む。腹は理屈より早く、冬の真実を見抜く。
その場で、戦は終わらなかった。だが、戦の形が変わった。
剣ではなく、舌で。威圧ではなく、契約で。恐怖ではなく、笑いで。
王都。
ギヨームは報告を受け、扇をたたき折った。
「退いた、だと?」
「は、はい。保安隊は“再編のための一時撤退”と……」
「たわけが! “退却”だ!」
机の上で、印章がころりと転がる。赤い蝋が布に付く。布は、ただの布ではなかった。「吸収」の紋が縫い込まれた布は、蝋を吸い、印を奪い、証拠を残した。
「誰が布を――」
「ファルネーゼの令嬢の布だと」
「……彼女の布が、王宮に?」
ギヨームは目を閉じた。脳裏に、笑う女の顔が浮かぶ。契約を武器にし、書類を刃にし、布で王宮を包む女。
「殿下」
扉の向こうから疲れた声。
「……何だ」
「商人ギルドの金利が再び上がりました。王宮の支払いは滞ります。明日から市場への支払いが」
「黙れ……黙れ黙れ黙れ!」
セドリックは頭を抱え、膝をつき、唇を噛んだ。高く積み上げられていたはずの世界が、砂の城のように崩れていく。触れなくても崩れる。触れれば早く崩れる。
「……逮捕しろ」
セドリックの声は低かった。怒りではない。沈む声だった。
「誰を?」
「ギヨームだ」
空気が凍る。宰相が、目を細めて微笑む。
「殿下。誰が、誰を?」
セドリックは立ち上がり、指を突きつけようとした。だが、その指は、力を失い、空を指しただけだった。ギヨームはそれを見て、静かに膝を折った。
「殿下。私は忠義を尽くした。だが、負けた。敗軍の将は罪人になる。あなたが望むなら、縄につこう」
どちらが主で、どちらが従か。扉の外の衛兵は、足音の向きで答えを決める準備をしていた。
「……出ていけ」
セドリックは呟いた。ギヨームは立ち上がり、一礼もせず、部屋を出た。扉が閉まる音が、王宮に響いた。静かだった。広すぎる部屋に、静寂だけが王冠の形で残った。
ベルモン。夜。
広間には疲労の匂いと、満腹の微笑みが混じっていた。誰かが歌い、誰かが笑い、誰かが炉の前で居眠りする。アドリアンは傷の包帯を交換し、手を洗い、静かに息を吐いた。
「殿、お嬢さまがお呼びです」
カテリーナが小声で言う。アドリアンは頷き、廊下を歩く。木の床が鳴った。蝋燭の火が、彼の影を長く引いた。
「失礼する」
「どうぞ」
エリザベッタは窓辺にいた。雪が、窓の外で薄く舞う。机の上には布と針。刺し終えたばかりの一枚が、光の下で静かに呼吸していた。
「お疲れさまでした。あなたがいて、助かりました」
「俺はいつも通りに動いただけだ」
「いつも通り動ける人が、最も少ない」
沈黙。暖炉の薪が崩れ、火が小さく跳ねた。二人の間に、戦場にはなかった気配が広がる。戦の時は、言葉を短くする。夜は、言葉を長くする。
「——明日、正式に“譲渡完了”が届きます」
「王都が承認するのか」
「承認せざるをえない。契約がすべてを掴んだ。商人が王宮を掴んだ。王宮が、承認の印を押す」
「セドリック殿下は」
「最後まで、何も押せない。押し戻すものを持っていない」
エリザベッタは椅子から立ち、机の端の箱から、細長い小箱を取り出した。蓋を開ける。中には薄い布。鳥の羽のように軽い。銀と白の糸が絡み、中央に小さな紋が結ばれている。
「これを、あなたに」
「……布?」
「“契約ではない”布です」
アドリアンが目を上げる。彼の瞳は、剣と同じ光を持っているが、今は刃ではない。
「私の“仕事の布”には、条文が縫い込まれている。期限、条件、対価。これは、どれも縫っていない」
「何も?」
「一つだけ。“誓い”の紋」
彼女は指先で中央の結び目を触れた。解けない結び。だが、拘束ではない。結ばれることに合意した者だけが、温かさを得る。
「——アドリアン。私は契約でここへ来た。生き延びるために契約を使い、領を動かすために契約を使った。これからも使うでしょう。あなたの剣と同じように」
「……ああ」
「でも、私があなたと立つのに、契約はいらない」
静かな言葉。その静けさが、剣より鋭く、焚き火より温かい。
「あなたが“契約ではないもの”で私の隣に立つなら、私は“愛”という名前でそれを受け取る」
アドリアンは息を飲んだ。彼は戦場では驚かない。驚きは、隙を生む。だが、今の驚きは隙ではない。余白だ。これまで文字で埋め尽くした紙の、初めての余白。
「……俺は、不器用だ」
「知っています」
「言葉は、短い」
「知っています」
「剣は、長い」
「少し困ります」
エリザベッタが微笑む。アドリアンの口元が、わずかに緩む。彼は手袋を外し、布を受け取った。指が布の軽さに驚き、同時に、その温かさに驚く。
「誓う」
言葉は短い。だが、重い。彼の言葉は、契約書の千行より重い。エリザベッタは息を吐き、目を閉じ、一瞬だけ、戦の外に出た。
「ありがとう」
「……俺のほうだ」
沈黙が、二人を包む。外では雪が静かに降り、どこかで犬が遠吠えし、誰かが寝言で笑う。世界は、戦の音をやめて、夜の音に戻っていた。
翌朝。王都から“譲渡完了”の公式書状が届いた。大印。副署。宰相の名はなかった。代わりに、商人ギルドの監査印が押されていた。
「王宮が、商人の印で息をしている」
ニコラが感嘆混じりに言い、カテリーナが扇で口元を隠して笑った。
「これより、ベルモン辺境伯領は正式に“ファルネーゼ家の領”です」
広場に告げる声。人々の顔に陽が差す。冬の陽は弱い。だが、雪の上では強い。
「税は低く。働けば布と塩と薪。帳簿は誰でも見られる。違反は、私にもあなたにも、許されない」
エリザベッタの声は明るく、厳しい。甘い約束はしない。甘い約束は、腐りやすい。保存布は、甘さを保存しない。
「作業の割り振りは——」
「殿!」
兵が駆け込む。汗が雪で瞬時に冷える。
「王都からの伝令! 王太子セドリック殿下、“退位”!」
広場がざわめく。誰かが口を押える。誰かが空を指す。誰かが、祈りとは違う仕草をして帽子を取る。
「正式か?」
「“王が病床にて承認”。“臨時評議会による後継指名は追って”。王都は……混乱」
ニコラが遠くを見る瞳で笑う。
「契約、勝ち」
エリザベッタは一瞬だけ目を閉じた。長い、長い呼吸。肺の底の澱が、ようやく吐き出せた気がした。彼女は目を開け、広場を見渡し、ゆっくりと口を開いた。
「——仕事に戻りましょう」
歓声ではなく、笑いが広がった。腹の底からの、冬に勝つ笑い。誰かが織機に手をかけ、誰かが水門へ向かい、誰かが鍋に火を起こす。世界は、戦を終えて、生活へ戻る。
季節がひとつ、巡る。
冬は布で耐え、春は水で耕し、夏は塩で保存し、秋は帳簿で笑った。
ベルモンは変わった。地図の端の薄墨は、濃い色になり、線は太くなり、文字は堂々とした。王都から来る旅人は、もう“可哀想な辺境”を見るためではなく、“賢い辺境”に学ぶために来た。布は王都の食卓を清め、塩は海の無い領を豊かにし、保存布の刺繍は貴婦人の会話に混じって新しい流行になった。
「この紋、エリザベッタ様のところの?」
「ええ。“嘘の無い帳簿”の紋よ」
笑い声。噂。契約。すべてが、風に乗る。
王都では、セドリックが退位し、静かにどこかへ連れて行かれたと噂された。誰も確かめない。誰も探さない。王冠は、名前を変えるのが好きだ。だが、ベルモンには、王冠より好きなものがある。
「夕暮れの風と、布に残るパンの匂い」
エリザベッタがそう言えば、アドリアンは「剣の油の匂いも」と短く返す。二人は笑い、並んで歩く。歩幅は、最初の夜から変わらない。
ある日、エリザベッタは織場で新しい刺を試した。銀ではなく、青の糸。水の色。名を付けるなら、“約束の青”。布を通して、少しだけ肌に涼しさが残る刺。夏の疲れが軽くなる。彼女はその布を畳み、箱に入れ、外套を羽織って外へ出た。
「アドリアン」
「いる」
「散歩に行きましょう」
「ああ」
二人は川沿いを歩いた。水門は石で固まり、水は静かに歌っている。遠くで子供が魚を追い、女たちが布を干し、男たちが木の皮を剥ぐ。世界は、刃物をしまい、道具を持っている。
「最初の夜を覚えていますか」
「ああ」
「あなたは“危険だ”と言った」
「ああ」
「私は“危険は机の上では減らせません”と言った」
「ああ」
「今なら、こう言います。“危険は二人なら半分”。半分でも危険だけど、半分なら笑える」
「……そうだな」
アドリアンは立ち止まり、川面を見た。水が光り、魚が跳ね、夕陽が布の刺のように川に縫い付く。
「俺は言葉が少ない。だが、言うべき時は言う」
「今が、そう?」
「ああ」
風が止む。音が止む。心臓の音だけが、胸の中で紙をめくる。
「俺は、君を愛している」
言葉は短い。だが、長旅の重みがある。エリザベッタは目を閉じ、笑い、頷いた。彼女は契約で多くを手にした。だが、この言葉だけは、契約では手に入らない。
「私も、あなたを」
川が流れ、風が戻り、世界がまた動き出す。二人は歩き出し、村の灯りがひとつ、またひとつと点り、空には早い星が一つ、遅い星が一つ、並んだ。
式は、小さく、温かかった。
契約書は一枚も置かれなかった。置かれたのは、ただ二人の誓いと、布一枚。
「ファルネーゼ家とベルモンの剣の、契約ではない結び」
カテリーナが泣いて笑い、ニコラが鼻水を啜って笑い、領民が拍手をして笑う。笑いは速い。冬の夜より、速い。春の芽より、速い。
エリザベッタはアドリアンの手を握り、指先で“誓い”の紋をなぞった。結びは、ほどけない。でも、縛らない。二人が離れようとすれば冷え、近づけば温かい。布は、いつも、真実を知っている。
「これからも、契約は使います」
「当然だ」
「でも、あなたとは使いません」
「当然だ」
笑って、頷いて、目を合わせる。二人にとっての“当然”は、世界にとっての“奇跡”だ。紙は燃える。印は溶ける。布は破れる。だが、愛は、破れない。
エピローグ。
数年後。
地図は塗り直され、ベルモンの輪郭は太く、ヴァロワ王国の端は静かに色を変えた。王都は相変わらず噂で溢れ、商人は相変わらず利を追い、宰相の椅子は相変わらず硬かった。
「ファルネーゼの令嬢が王家を契約で破った」という噂は、酒場では歌になり、市場では商品になり、家庭では昔話になった。多少は脚色された。多少は抜け落ちた。だが核心は変わらない。
——契約は、弱きを守るためにある。
——契約は、破る者を罰するためにある。
——そして、愛は、契約の外側にある。
ベルモンの風は、今も布の匂いがする。
保存布は子どもの弁当に使われ、“清浄”の刺は産着に縫われ、“約束の青”は夏に人気だ。水門は静かに歌い、織機は軽やかに踊り、剣は鞘の中で眠る。
「領主さま」
若い書記が駆け込む。頬を赤くして、紙を抱えて。
「王都から視察の申し出です!」
「歓迎を。スープと布と、帳簿」
「はい!」
エリザベッタは外套を羽織り、アドリアンと目を合わせる。視線だけで、段取りが伝わる。二人の間では、言葉はもう、贅沢品だ。
「行こう」
「ああ」
扉が開く。風が入る。笑いが漏れる。世界は、今日も契約で動き、愛で温まる。
地図の端は、もう端ではない。
ここから先が、中心だ。
よろしければ何点でもかまいませんので評価いただけると嬉しいです。
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