四、学を身に着けて、大人への道を・・・・
十月一日を迎えた。
朝五ッ(午前八時)子供達の賑やかな声が街道の左右から聞こえて来た。親に手を引かれた子供達の身形は違っていても、気儘に振る舞い無邪気に声を張り上げている。
梅塾の開き戸の前で、おうめが集って来る子供達を笑顔で迎えている。
少し離れた処で宗茂におよつ、そしておたか達の中に奉行所の加茂と近藤の顔も捉える事も出来た。子供達を迎えている人達の顔に朝陽が射している。
おうめが背伸びをして子供達の集まりを眺めた後ろには、おはつや日向屋の女房おそよに棟梁政五郎達の顔が見える。
おうめが右手を高らかに差し上げた。その指先に朝陽が当たりきらりと光った。
梅塾の錠前である。
集った親達からやんやの拍手が巻き起った。
開き戸横の真新しい板には、墨痕も鮮やかな『梅塾幼童筆学所』の看板が掲げてある。
おうめの手で戸が開かれる。
子供達が順序良く教場へ入って行く。
久吉が行く。良吉が行く。久吉と同じ歳の材木問屋日向屋の惣領息子の万太郎が行く。棟梁政五郎の娘おけいの後から、笑みを携えた子や緊張した顔付の子供達が続く。
教場の木の香りを裂いて、子供達の声が乱れ飛ぶ。互いに見詰め合っている子供達もいれば、後ろに立っている親達を見渡している子もいる。
唐机横でおうめが手を叩いた。お喋りをしていた子、後ろを見ていた子が、口を閉ざしておうめに眼を向ける。
「皆さん、おはようさん」
おうめが子供達に声を掛けた。
子供達に話した事は、今日から皆さんは此処に居るお友達と一緒に読み書きを学んで行きます。だから楽しく学んで、そして皆と仲良くお友達になって下さいと言ったおうめに、子供達が大きな頷きで返している。
「では、皆に読み書きを教えて下さる先生が其処から入って来られますから・・・・」
子供達は一斉に戸口の方に眼を向けた。
「そぅ、其処の戸口から先生が入って来られたら、皆さん手を叩いて先生を迎えてねぇ」
下澤源五左衛門が入口からにこにこと手を振り乍ら入って来た。子供達は源五左衛門の仕草を喜んで、小さな手を一生懸命叩いている。
「ありがとう。ありがとう。ありがとう」
下澤先生は子供達に向かって、ありがとうの言葉を何度も言い乍らお辞儀をした。
未だ、にこにこした顔で子供達の独り独りを見渡している。一通り見渡した処で、今度は独り独りを手招きして唐机の処まで子供が来ると、下澤は子供達の眼の高さまで腰を落として、皆に聞こえる様な声でその子の名前を聞いている。
「得平ちゃん。先生は源ちゃんと言うの。よろしくね」
と言うと、次の子を手招きして同じ様な事をした。
独り独りを手招きして、互いの名前を呼び合うと、下澤は子供が席に戻る時に、男十八名と女十二名に名前の札を独り独りの首に掛けたのだ。
そして、下澤は持って来た風呂敷を開き、中から二冊の冊子を取り出して表紙を子供達に見せた。そこには『商売往来』『番匠往来』と書かれている。
「先生は、この冊子に書いてある事を皆に教えます」
学びの手立てを話すと、今日の話はこれでお仕舞いと言って、おうめに眼を遣った。
おうめは驚いた。始まって半刻(一時間)が過ぎた頃である。未だ一刻(二時間)ある。さておうめは何を話そうかと迷った。読み書きの事は先生が話してくれたので、じゃあ、子供達が成長して行く中で、人として身に付けさせねばならない事を、皆と遊ぶ中で覚えさせて行く事を話してみた。
「これから、皆で凧揚げや独楽遊びにお手玉、そして羽根つきなどをして行こうねぇ」
遊びには取り決め事を決めて、それをお互いが守り通して行く事で、人の道を身に付けさせる事を、おうめは他人の子であろうと自分の子と同じ言葉や行動で教えて行く事を親達に話した。すると、親達から「お願い致します」との声が上がると共に、何度もおうめに向かって腰を折っている。
この人の道に拘わる事を教えてくれる人は、ごりょんさんや隠居のお爺さんにお婆さんにお願いするとおうめが話すと、親達が互いに顔を見合わせて「えっ」と言う顔を見せた。
おうめは次の話しに入る前に、親達に眼を配り、少しの間を置くと話に入った。
おうめが学舎造りの話の時に宗茂やおよつに話した。いま、親が遣りなさっている仕事を子供に教える。あの話をしてみた。
切り出した処で、おうめは後ろに立っている親達を一巡した。其処に大工の棟梁政五郎が立っていた。おうめは教場の皆に話した。
この梅塾を造って頂きました棟梁の政五郎さんがいらっしゃいますから、政五郎さんにお話を伺って見たいと思っていますと言って、政五郎をおうめが呼び出した。
行き成りの話で、政五郎は慌てていた。周りの人の顔を伺った。おうめが再び政五郎に声を掛けた。政五郎は渋々前に出て来ておうめの顔を先程から伺っている。
「政五郎さん、この梅塾をどんな気持ちで造られましたか」
「・・・・・・・・・」
「政五郎さんは、娘のおけいちゃんをこの梅塾に通わせなさるでしょう」
政五郎は頷いた。
「そのおけいちゃんの事を思って、建てられたのではないでしょうか」
政五郎は照れた顔で下を向いた。
「おけいちゃん」
おうめが呼び掛けた。
「はい」
「おけいちゃん、元気なお返事が出来ましたね」
おけいちゃんに笑みを見せ乍ら、おうめは次の言葉を繋げた。
「おけいちゃんのおとっつあんがこの建物を造ったのよ。おとっつあんて凄い人ねぇ」
おうめが言った処で、親達から盛んな拍手が政五郎に向けられた。
「政五郎さん、この子達の笑顔を思い乍ら、お造りなさったのでしょう」
政五郎は笑顔で、何度も頷きを見せた。
「そんな話を子供達は待っているのです」
おうめは政五郎を拍手で送った。政五郎は親達に頭を下げると、子供達に向かって頻りと手を振った。政五郎がおうめに呼ばれた時の、あのぎこちなさは何処へ飛んで行ったのか。この学舎を手掛けた嬉しさが体から滲み出ている様だった。
「おけいちゃん、ありがとう」
席に座るおけいちゃんは、嬉しさを顔に表わし乍ら腰を落とした。落とした眼の先に久吉が座っていた。久吉は隣に座っている男の子と顔を見合わせると、二人でおけいちゃんに笑みを見せた。すると、おけいちゃんが久吉達の方へ身を乗り出す様な仕草をした。
久吉の隣で笑みを見せている子は、赤子の時から播磨屋におはつが連れて来ていた久吉より一つ上の良吉であった。良吉が先程から兄貴分の様な恰好で何かを久吉に耳打ちをしている。それはおけいちゃんの事なのか。この様子をおけいちゃんの隣に座っている久吉と同じ背丈の男の子が、二人の仕草を気にしていた。
政五郎に続いておよつがおうめに呼び出されて遊びの話を出した。
女の子の遊び事でお手玉を作る話とか、手鞠を作る話とか、羽子板遊びをする話を身振り入りで話すから、子供達が喜んで教場に笑い声が飛び交っているのだ。
後ろの親達も体を揺すって、子供達と一緒に笑っている。
およつがお茶飲み友達にしている隠居の伊三郎爺ちゃんを呼び出した。この伊三郎の若い頃は、筑前五ヶ浦の廻船に乗って、日本全国を廻っていたので、全国で見た面白い話を百面相の顔付きや、およつの様に身振り入りで話すから、およつに負けない笑いを呼んでいる。
伊三郎の話に拠ると、梅塾から北へ二町半位行くと永倉の米蔵になっている。その先は博多湾の荒津の浜になっていた。
「皆が、この梅塾に居る間に、この爺ちゃんが荒津の浜で船乗り稼業を教えてやるよ」
この伊三郎の話に、一人の男の子が立ち上がった。その子は久吉より少し背丈が高く見えた。多分七歳になった子だろう。
「爺ちゃん、おいらの家は百姓だ。おいら船乗りになりたいんだ」
「そうーかい。名前は何て言うんだい」
「次平だい」
「そうーかい次平かい。次平だったら、次ちゃんと呼ばれているだろう」
「うん」
「俺も爺ちゃんと呼ばれているぞ。同じ、じいちゃんだから出来るぞ」
次平は伊三郎が言った意味が分からず。きょとんとしていたが、後ろの親達から笑いが巻き起こったので、次平は褒められている様な気持ちで、笑みを浮かべて腰を下ろした。
おうめや政五郎におよつそして伊三郎の話で、子供達は教場に入って来た時のあの余所余所しい顔から、横どうしや机を挟んだ前の子達と言葉を掛けたり、体を揺すり合ったりしてそれなりの楽しみを作っている。
子供達と笑っている内に昼九ッ(午後零時)まで四半刻(三十分)を残すまでになっていた。下澤先生が再び前に出て来て、今日の習いごとはこれでお仕舞いと言われると、子供達は未だ話を聞きたそうな仕草で奇声を上げている。
習い事が終わって下澤先生が教場を去る時の先生への挨拶言葉を、残った刻でおうめが教え様としていた。
さっき伊三郎爺ちゃんに、船頭になりたいと言った次平におうめは声を掛けた。
「次平ちゃん、おばさんからお願いがあるの」
呼ばれた次平は大きく眼を見開いておうめを見詰めている。
その次平におうめは船頭さんになりたいと言ったでしょう。船頭さんは、皆に号令を掛けなければならないの。
だから、皆が下澤先生へお願いいたします。と言う言葉とありがとございました。と言う言葉の前に、次平ちゃんが皆に号令を掛けてくれないかなぁ。
おうめが言っている事は次平は分かっていたが、何を喋るのかが分からず。少し小首を捻った。其の事をおうめが教えると、話の要領を飲み込んだ次平の顔は、嬉しさに溢れていた。
教場から出て来た子供達は親の処に走り寄り、何やら話し掛けている子もいれば、皆に手を振って笑みを流している子もいる。
この子達の顔は、明日も会えると言う嬉しさが、笑顔となって表われていた。
おうめはその様に思った。すると梅塾の立ち上がりまでの苦労が、この子達の笑顔で忘れさせられ様としていたのだった。
―これでよかった。久吉も皆も幸せを掴むだろう・・・・・
子供達が親に手を引かれて帰る後ろ姿をみ乍ら思った。
あの夕焼けの中で腰を折りなさったあの人に、此処まで、女子の命より大切な赤子を育てて来ましたよ。と思った処に久吉が走り寄って来た。おうめが腰を落として久吉に眼を定めた。おうめに取って、長かった半日が終わりを告げ様としている。おうめが久吉の手を引いて母屋に戻る後ろから宗茂がおうめに声を掛けて来た。
「よかったなぁ。なぁ、おうめ」
「お前様のお蔭ですよ」
とおうめは宗茂に振り向いて言った。
「うん、久吉もこれで・・・・・」
と言って宗茂は口を閉じて、およつの顔を窺った。
「そうじゃぁ、そうじゃぁ」
と言い乍ら、およつが久吉の横に並ぶと、久吉の頭を撫で乍ら、おうめに眼を遣った。
「おうめさん、大変じゃったのぅ。おうめさんには頭が下がりましたよ」
と言ったおよつが、久吉に眼を向けた。
「久吉、沢山のお友達が出来て楽しいだろう」
「婆ちゃん、おいら、おふじちゃんとも話したよ」
「おふじちゃんて・・・・」
「お母さん、久吉の後ろに座っていた子ですよ」
「ほぉ」
「本町で生蝋や油問屋をなさっていなさる萬屋の子ですよ」
「ああー、あの萬屋の子」
「そうです」
「ふーん」
四人が裏口から母屋に戻った。おうめは部屋に入ると早速障子を開けて、久吉を横に座らせた。そして庭の中程の低木に眼を遣った。低木は紫色の無数な粒を付けている。
―小紫だねぇー
とおうめは呟いた。
横に座っている久吉が小首を捻っておうめを見上げた。小紫に定めていた眼を久吉へ戻したおうめは、久吉の耳元で囁いた。
「久吉、おとっつあんは、何と言おうとしなさったのかなぁ」
久吉から眼を外したおうめが、小紫をみ乍ら宗茂の言葉の先を追ってみた。
学舎が出来て、学を身に付ければ人様の手に渡しても、久吉は苦労せずに先を生きて行けると見なさったのか。それとも、この播磨屋に迎え入れる子として大丈夫と見なさったのか。久吉もこれで・・・ と言いなさった言葉の後を探したが、おうめには分からない。
その時、何処から流れて来たのか僅かな風が小紫を揺すって、おうめ達の傍を通り過ぎた。
おうめは久吉に眼を遣った。
学舎を開塾してから一年が過ぎた。
この一年の間で、一人として学舎を休む子はいなかった。毎朝、次平の号令で朝が開き、次平の号令で昼が閉まっていた。
子供達の声が聞こえて来る。昨年のあの日と何ら代わらない一日が始まろうとしていた。代わったと言えば、久吉が草履を引っ掛け、大きな声を裏口へ残し、友達と学舎へ駆け込む事であった。おうめが手を引くことは無かった。
播磨屋は賑やかな子供達の声に包まれていた。
何時もの通り、宗茂の部屋で番頭の伊平が、宗茂に商い話しをしている声が廊下伝いに僅かに聞こえて来る。
丁稚と一緒にお店の掃除をさせられている久吉の声も、店先から廊下を通しておうめの部屋まで聞こえていた。
奥の部屋では、およつが先代やご先祖様への朝のお勤めをしているのであろう。鉦の音が僅かに聞こえて来る。
台所からは朝餉の後片付けをしている音が聞こえている。
おうめは箒の動きを止めて、暫し播磨屋の朝の様子を感じていたが、思い出した様に箒を動かした。
そこにおよつが声を掛けて来た。
「おうめさん、いまから出掛けて来ますからねぇ」
およつは白足袋に白の脚絆と白の手甲を掛けていた。一寸した道中姿であった。
―そうだ、今日は神社参りに行きなさるんだなぁ・・・・
およつの恰好を見て思った。おうめは髷の手拭を取り乍らおよつに笑みを送った。
「お母さん、お気を付けて行って下さいねぇ」
「あいよー」
およつは砕け言葉をおうめに投げると、跫音をおひでが居る台所の方へと消して行った。
およつはおひでの許に、楽しみの弁当を貰いに行ったのだろう。
今年でおよつは六十路を迎える。ここ数年は歳を重ねると共に老け込みを見せていたが、昨年、おうめが学舎を設け、その中で子供達と遊びを一緒にする様になって、楽しさが増えて来たのだろう。元気さを取り戻したのだ。
今日は、その学舎で子供達に遊びを教えている隠居仲間五人と、夏入りの四月と冬に入ったこの十月に、互いが大病を患わない為に、今年から神社参りを思い立ったのである。
今年二回目の参りが今日だった。
隠居仲間の爺さん二人に婆さん三人の、爺婆五人が弁当持参で夕刻近くまで、博多の町にある住吉神社から櫛田神社、そして網輪天神を参詣して来る話を、およつから聞かされていたので、おうめはその話を思い出して笑顔で送り出していた。
宗茂の部屋の話しも終り、およつも出掛けた。店先の騒めきも収まった。台所からの音も閉ざされた。
播磨屋に朝の静けさが訪れていた。
何気なく庭先に眼を遣っていたおうめは、おはつの処から仕入れている木綿地の縫い残しを思い出した。箪笥の奥では既に縫われた小袖の上に、縫い残しの布地が積み重ねられていた。どうやら久吉の物と思われる。南の障子を通して射し込んでいる冬の暖かい陽が、畳を緩く暖めている処に、その布地を置いた。
おうめは押入れから裁縫道具を取り出して布地の傍に置くと、腰を下ろし布地を膝の上に載せると、裁縫箱から小さな指貫を取り出して細い右手の指に差し込んだ。
一刻(二時間)近く縫っただろう。すると、おうめは一寸手を休めて、手に持っている針を右の鬢に二、三度軽く差し込むと、小首をぐるりと一回りさせて、庭に眼を遣った。
庭の木々をみ乍ら、先日の事を思い出している。
この前、この布地を久吉に宛がって身丈を合わせた時、昨年に比べて久吉の背丈の伸び方におうめはびっくりしたが、背丈の伸び方以上におうめが愕かされた事は、今年の夏が過ぎた頃から読める字が多くなった事や、多くの字を綺麗に書き表す事が出来る様になった事だった。
―学舎を造ってよかったと・・・・・・
女子の命より大切な赤子を置いて行きなさった。其の赤子はこのおうめが聢り抱き締めて此処まで成長さえて来ましたよ。安心して下さいね。とおうめが心の中で思って、庭の陽を見詰めていた眼を軒先へと上げた。陽は真上近くに掛かっている。
おうめは思い立った様に腰を上げた。
そろそろ店先から久吉が、おうめの処に戻って来る昼九ッ(午後零時)までには、あと四半刻(三十分)近くになっていた。縫い物と裁縫道具を急いで部屋の隅に押しやると、おひでが居る台所へと急いだ。
もう暫くすると、蜂の巣を突いた様な賑やかさが半刻(一時間)程、播磨屋の裏を被って来るのである。朝の刻の学びを終えた子供達と、昼の刻に学びを教わる子供達が入れ替わる刻である。昼の刻に学びに入る久吉が朝の掃除から細々(こまごま)した事を手伝わされて、帳場からの廊下をどたばたと跫音を立て乍らおうめの許に走って来た。
「おっかぁ、ご飯出来たぁ」
「あぁー、出来ているよ」
「久吉、もっとゆっくり食べなさい。急ぐとお腹を壊すよ」
「うん、だけど、もう直ぐ、良ちゃんや万ちゃん達が来るんだもん」
「良ちゃんも万ちゃんも未だ来ないよ」
だが、久吉は急いでご飯を食べ終えると、おうめの部屋から習い道具を入れた風呂敷包を持って来て、裏口の方を見た。
「良ちゃんに万ちゃん、未だ来ないのかなぁ」
久吉が呟く様な声で言うと、卓袱台の後片付けをしているおうめに言葉を掛けた。
「おっかぁ、昨日、先生にまるを貰ったよ」
「何のまるを貰ったの」
おうめが背を返して問うと、久吉は照れ乍ら、笑顔だけを見せている。その時、裏口から久吉を呼ぶ声がした。
「おっかぁ、行って来るから」
おうめに元気な言葉を投げると、どたばたと裏口の方へ跫音を響かせて行った。
卓袱台の茶碗を盆に載せて、腰を浮かそうとしたおうめの背に、おひでの声が掛かった。
「ごりょんさん、結構ですよ。私がいたしますから」
「えぇ」
とおうめは盆を持ったまま背を返した。おひでが盆を受け取る仕草を見せた。
「すみませんねぇ。おひでさんには何時も面倒掛けて」
おうめは盆をおひでに渡すと、腰をその場に下げた。おひでは受けた盆を持って、おうめの傍から立ち去り難い様子で、おひでもおうめの前に腰をゆっくりと下げた。
先程、おうめが台所に行った時、宗茂がおうめに、今から知り合いの処へ行って来るから、と言ったので、おうめが、昼餉はどうなさいますか。と問うと、宗茂は、先方さんの処でご相伴に預かるからと言う二人の話を、傍のおひでも耳にしていたから、それにおよつも出掛けていたので、おひではおうめに合わせて腰を下ろした。
「おひでさんには久吉の事で、世話を焼いて頂きすみませんねぇ」
おうめが腰を下ろしたおひでに、頭を少し下げ乍ら言った。
おひでは今年で四十七歳を迎えていた。先代の市左衛門の時より播磨屋に奉公に上がっていたおひでは、十九の歳に肥前唐津の商家に嫁いでいた。二十六の歳に離縁され早良郡の実家に戻っていたが、嫂との折り合いが悪く、親戚筋の口添えで播磨屋の世話になって十九年が過ぎていた。
「おうめさんは久坊をよく可愛がられますねぇ」
「わたしに子供がいませんから・・・・・・」
「いないと言われても、人様の子ですよ」
「人様の子であろうと、子供は可愛いものですよ」
「処で、おひでさんは一度嫁がれた身と聞いていますが」
「もう遠い昔の話ですよ」
「ごめんなさい。嫌な事を思い出させて・・・・」
「いいのですよ。それより、おうめさんは久坊をどうなされるの」
「どうって・・・・」
「久坊を、この播磨屋さんに迎え入れなさるお積もり」
「・・・・・・・・・」
おうめはおひでから眼を離し、先程久吉が出て行った裏口の方に眼を遣った。其の眼をおひでに戻すと、少し厳しい表情をおひでに見せた。
「私は、久吉をこの播磨屋に迎え入れたいと思っていますが・・・・」
「おうめさん、旦那様はおうめさんの心をきっと分かってくれますよ」
「ありがとう。おひでさん」
「お礼なんて、私はおうめさんが人様の子に、優しくしてくれる事が嬉しくて・・・・・・」
「えっ」
と小さく漏らしたおうめは、訝った顔でおひでを見た。
おひでは辛い、苦しい思いを噯にも出さなかったが、おひでは初めておうめに話してみた。
「私は二十一の歳に産んだ男の子を手放して戻りましたから・・・・・・・」
おうめはおひでをじっと見詰めていた。そして少しの間を置いておうめが言った。
「知らなかったわ・・・・・。辛い想いでしょうねぇ」
おひでが膝で揃えている手に、おうめがそっと手を重ねた。おひでは過ぎた遠い昔を手繰り寄せ乍らおうめに語った事は、自分のお腹を痛めて産んだ子を手放さなければならなくなった時、おひではその子の息の根を止めて、わが命も絶とうと思ったが、可愛い我が子の顔を見た時、何でこの子の首に手が掛けられようかと思い止まって、わが命を人の世に長く生きらせているが、一時でもあの子の事を忘れた事はない。
優しくして貰ったのか。あの子は幸せに育ったのだろうか。今は幸せだろうか。夜毎、床に付くと思うのはそればかり。一目だけでも会いたい。だからと言って、今更会いに行く事が出来ない運命。仮にあの子に会えても、何処の誰とも知れないこの私を、おっかさんと呼んでくれる筈がありゃしない。
しかし、私は遠くであの子の幸せを祈っています。
とおひでは、顔を被った掌の平から涙を滲ませ乍ら、おうめに話した。
「おうめさん、久坊が昔の我が子の様で・・・・・・・」
とおひでは言って、両手を合わせて頭を下げた。
「ありがとうございます。おうめさん・・・・・」
おひでが噦り上げた時、学舎の敷地で戯れていた子供達の声が止まった。昼の学び刻が始まったのだろう。久吉も教場に入って行ったのだろう。おうめとおひでが、学舎の方に眼を向けた。
この日の夜、床に着いたおうめは寝付かれなかった。おひでがあの夕焼けの中で見た人と重なって見えた。おうめは何度も寝返りを打っていた。
宗茂の部屋に、おうめが久吉を連れて来ている。
「久吉、ご挨拶をしなさい」
おうめが久吉に促した。久吉は黙って頭を僅かに下げた。久吉の態度におうめは慌てた。久吉にもう一度ちゃんとした挨拶をさせ様とした時、横から宗茂が言った。
「まぁ、おうめ、いいじゃないか」
宗茂は久吉の態度に些かも注文を付けなかった。久吉が卯左衛門を睨め付けている。
「兄さ、どうも私は久坊に嫌われていますわ」
と卯左衛門は言って、腰帯に差し込んでいる煙管と刻み煙草入れを取り出すと、煙管に少々の刻み煙草を詰め込み、膝横に置いてある煙草盆の火入れに煙管を付けて、紫色の煙を一口吐き出した。
「おうめ、おひでの処へ連れて行きなさい」
と宗茂はおうめに促した。おうめは卯左衛門に頭を下げると、久吉の手を引いて宗茂達の処を後にした。寛政八年の正月挨拶に来ている卯左衛門が、煙草を旨そうに吹かし乍ら宗茂に眼を遣った。
「兄さ、あの久坊をどうなさるのですか」
と卯左衛門は何時もの話を切り出した。宗茂が少しうんざりした顔で卯左衛門に眼を向けると、卯左衛門が莨の煙を靡かせ乍ら言った事は、卯左衛門は播磨屋を出た者ですから、どうこう言う筋合いはないが、敢えて言わせて貰うなら、素性の知れない者にこの播磨屋の身代を継がせ様となさるなら、卯左衛門は反対をさせて頂きますよ。と言って煙草盆を膝元まで手繰り寄せて、吸い終わった煙管を煙草盆の灰口で軽くぽんと叩いた。
煙管を腰帯に差し込む時に、返事を請う様な顔付を宗茂にちらっと見せた。
「卯左衛門、久吉は今年で八つになる子供だ。身代をどうだとか言う事じゃなかろう」
と宗茂が話した処に、おうめが温かいお茶を運んで来た。
おうめが部屋に戻って来たので、兄弟の話は全く別な商い話に入った。しかし、宗茂が話した久吉の話は、おうめの耳にも届いていた。二人の商い話が途切れた処で、卯左衛門はおうめに眼を遣った。
「おうめさん、先程も、兄さに言ったけど播磨屋の跡継ぎを儲けて下さいよ」
卯左衛門は意味在りそうな笑顔をおうめに送った。おうめはこの笑顔を苦笑で受取った。
この年、宗茂は四十路に入って二つ歳をとっていた。おうめ三十四であった。
宗茂は卯左衛門が帰った後で、卯左衛門の胸の内を計っていた。
―卯左衛門には音吉と言う今年十歳になる男の子がいる・・・・・。
と思った。その音吉が二番目の子であるから、卯左衛門はその子をこの播磨屋の養子に入れて貰いたいから、滅多に来ない正月挨拶に出向いて来たのだろうと思っていた。
卯左衛門の考えがその様であれば久吉をどうするか。奉行所に届け出している様に里親の申し出を待つ六歳の歳も既に過ぎているし、と言って、いまの状態で播磨屋に留めて置くと言う話も、何時までも放って置く事も出来ないだろう。
奉行所の下役人が宗茂に応えたのは、明後日が加茂様の非番日になっていますから、荒戸四丁目のお屋敷にお伺いなされたらどうかと伝えた。
加茂の屋敷は播磨屋から街道を西へ行って、三つ目の辻を右に折れて、荒津山の麓近くまでの十二町程の道程であった。陽は西に傾き掛けた昼八ッ(午後二時)を過ぎ様かとしている。北からの風が博多湾を抜けて荒津山に当たると、風はその裾野を迂回して城下の家並みを通り抜けていた。
宗茂は肩を窄めて、前方の荒津山を見上げた。疎らに葉を残した木々の間から、朱塗りの東照大権現が迫っていた。
座敷で宗茂は述べた。
「非番で御寛ぎの処申し訳ございません」
「うむ、それで用向きとは、久吉の事か・・・・」
「はい、手前ごときの事で、加茂様にご相談すべきかと按じております・・・」
「かまわぬ。何でも申してみよ」
「はい、では、申し上げます」
宗茂が加茂に話し出した事は、八年前に久吉を拾った時、奉行所に届け出した書状は里親の申し出があるまでは播磨屋で育て上げる事であったが、既にその歳も過ぎ去っていますので、久吉は当家に迎え入れようかと思いました処、親戚縁者から血筋の子を養子にして貰いたい様な話を、先日耳にしました。
だが、我々夫婦といたしましては、此処まで育て上げて来ました情も深く募っております故、明日にでも奉行所に出向いて、久吉を播磨屋に迎え入れる書状に書き代えるべきか。それとも血筋の者を養子に入れるべきか。と迷っております。
宗茂は、加茂にこの様に申し上げた。この話を聞いた加茂が口を開いた。
「処で、その親戚縁者の養子口を言って来ている子は幾つかなぁ」
「はい、久吉より二つ年上の十歳でございます」
そう聞いた加茂は、暫し閉ざしていた口を開いた。
「そうか。そうなったか。其方のお内儀が久吉に施す情はほとほと感心していたのだ」
「恐れ入ります」
「いゃ、立派な心掛けじゃ」
と言って、加茂は考える素振りを見せ乍ら、暫く口を噤んだ。其の噤んだ口を開いて言い出した事は、久吉を播磨屋の跡取りにすれば、藩としても産子養育の手本となる。
だが、そうも行かぬとなれば、其方夫婦が久吉を手放のも忍び難いだろう。だから久吉を播磨屋の貰い子にしてはどうだ。
「では、久吉は播磨屋の奉公人で、血筋の縁者を養子口にせよとの仰せでございますか」
加茂は口元に少しの苦笑を漂わせて、少し右手を挙げて宗茂の気持の昂ぶりを抑えて言った事は、一応久吉を播磨屋の貰い子にして、養子口を願って来ている子の身の振り方を見定めてから、久吉の身の振り方を定めよ。それは世間で言う奉公に出す歳頃に見定めたらどうだ。それまでには、養子口を願って来ている子の身の振り方も定まっているかも知れぬぞ。と話してくれた。そして加茂は一呼吸置いて話しを続けた。
その時を待っても、その子が養子口を求めてくれば、その時は、儂ら武家の作法に従って言うならば、血筋の者を其方の跡継ぎにするしかないなぁ。もし、養子口を望んで来なかった時は、其方とお内儀で久吉を貰い子から跡取り養子にしてしまえば良いではないか。宗茂は納得し難い表情を加茂に見せた。その表情を受けた加茂が言葉を続けた。
其方が、未だに心配しているのは、その時期まで待ってもその子が養子口を求めて来た時は、血筋から言ってその者を跡取り養子で迎えて、久吉を貰い子で通せと言った事を気にしているのだな。と言う加茂の話に、宗茂は加茂に心の中を見抜かれて狼狽していた。
「いぇ・・・」
「いぇじゃあるまい。その様にお主の顔に表れているぞ」
と加茂が言って、暫し宗茂を見詰めていたら、徐に口を開いて加茂が言った事は、宗茂がその様に思うのも無理もあるまい。最初に申した様にお内儀の久吉に施される.情の深さから見て、宗茂がその様な話をお内儀にする事は出来まい。だが、物は考え様だぞ。
久吉を貰い子にしてまで播磨屋に留めて置くと言う事は、宗茂夫婦の久吉に対する思いが唯事ではないと縁者の者は考えるのではないか。そこに敢えて養子として送り込むとするならば、容易に播磨屋を操る事は出来ないと悟るだろう。
そして播磨屋の養子口を諦め、何処か他の処へ養子口を見付けると思うがどうか。そうでもしなければ余程の鈍い御仁と見受けられるが。まぁ、宗茂夫婦とその御仁との根競べになるな。 と話した加茂は軽やかな笑いを部屋に流して、軽く手を打った。暖かい茶を所望しようとした。
久吉八歳の祝い日を迎えていた。
丁度この日は学舎の休日だった。播磨屋の朝餉後の一時は久吉を囲んで賑やかである。
腰を上げたおうめが、風呂敷きに包んだ物を持って来ると、宗茂達の前で解いた。
この日の為に、おうめが夜鍋して縫い上げた小袖が、風呂敷の中に折り畳んであった。
「久吉、これを着てごらん」
おうめが久吉の肩に小袖を掛けた。
「あぁー、丈も丁度いいわねぇ」
「久吉、立派な物が出来たねぇ」
およつが言って、小袖の肩先から裾に掛けて眼を流した。
「おうめさんは、縫いごとが上手だ事」
とおよつが言い乍ら、久吉が着ている小袖の生地を触った。
久吉は小袖の脇に付いている紐を、何度か手探りで探したが探し当てる事が出来ず。横で見ている宗茂に尋ねた。
「おっとー、紐がないよ」
「久吉、久吉は今日から八つになったのだから、紐付きの小袖はもう着ないの」
宗茂は久吉に自分の帯を指さして言った。
「おとっつちやんと同じ様に、今日から小袖の上に帯を締めるのだ」
「帯を・・・・」
「そうだ」
宗茂が風呂敷の中にある帯を手にすると、中腰になって久吉の胴に帯を巻き付けた。
「久吉、少し腹に力を入れろ。うん、そうだ、そうだ」
久吉は初めて締めた帯を何度も触って、宗茂とおうめ、そしておよつに笑顔を見せた。
「おっとー、おいらも、同じ物だねぇ」
宗茂の帯に久吉が指をさして言った。久吉は帯に何度も眼を遣り、初めての帯締めを愉しんでいた。おうめが羽織を手にする。
「久吉、これも着てごらん」
「うーん、おとっつちゃんと同じ様になったぞ。久吉」
宗茂は久吉から一歩さがって、久吉を上から下まで見渡して言った。おうめは宗茂の後ろから、笑を見せ乍ら何度も頷いている。
久吉が羽織の袖口を左右に広げて一回りした。
「立派な事・・・・・」
呟く様におよつが言った。
おうめはおよつの言葉で思い出した様に言った。
「久吉、このべべは、お婆ちゃんが買って下さったのよ。お婆ちゃんにお礼を言いなさい」
久吉がおよつに笑顔を見せると、久吉はおよつの許に走り寄った。およつは突然の久吉の仕草に、後ろに転びそうな恰好で久吉を受け止めた。
「あぁー、ありがとう。ありがとう」
およつは久吉を抱き締めて、嬉しさを諸に表わしていた。およつが頬摺りをしている顔を少し捻って、台所の方に声を掛けた。
「おひでやー」
呼ばれたおひでが、前垂れで手を拭き乍ら、およつの前に来た。
「おひでや、お日和はどうかねぇ」
「はい、結構なお日和ですよ」
「そうかい。あんたの炊事ごとは終わりましたかね」
「はい、朝餉の片付けは終わりましたから、昼餉の支度にかかりますが・・・・」
「そう、それが終わると、この婆さんと久吉とで、鳥飼様まで参りに行こうか」
「えっ、私がお供に」
「そうよ、久吉と一緒に行こうよ」
「はい、じゃあ、支度を急いで仕上げしますから」
とおひでは嬉しさ一杯の跫音を台所の方へと急がせた。
おうめはおひでの遠ざかる跫音を聞き乍ら、およつに眼を向けた。
―お母さんは、おひでさんの事を、知っていなさったのかなぁ。
とおうめは思い乍ら、衣裳を包んでいた風呂敷を畳んでいた。
それから暫くして街道には、およつが差し出してくれた銭で縫い上げられた木綿の小袖と羽織を着た久吉を、およつとおひでが手を引いて鳥飼八幡宮への道を辿っていた。
この年の博多山笠も終わった。
未だ雨戸の間から陽射しは見られなかった。宗茂がこの雨戸に眼を向けて、徐に床から身を起こすと、雨戸の傍に立ち止まって一枚の雨戸を少し開けてみた。薄明るさの中に庭の木々が浮かび上がっている様に見えている。宗茂は雨戸を元の位置に閉めると、床に戻って見繕いを始めた。
刻は暁の七ッ(午前四時)を過ぎた頃であろう。横のおうめを見ると既に床を離れて台所へ行っているらしい。衣裳を整えた宗茂は横で軽い寝息を立てている久吉に眼を遣った。床の久吉に手を掛けて起こそうと思ったが、寝顔を見ると躊躇いがあった。
思い切って久吉の体を揺さぶると、久吉は不機嫌な声を上げ乍ら眠い眼を少し開けた。
早めの朝餉を済ませた宗茂と久吉は鳥飼村の薬園に来ていた。
刻は明け六ッ半(午前七時)。陽が上がって半刻(一時間)を過ぎた頃であったが、もう夏の陽が東からじりじりと照らし始めていた。
既に、蝉時雨が聞こえている。宗茂は蝉の鳴いている方に眼を遣った。其処には一本の檪が植わっている。宗茂が東に眼を遣って、片手を額の処で庇代わりにして陽を見詰めた。
「さぁーて」
と言って、宗茂が小袖の裾を腰帯に端折ると、細紐を腕から肩に掛けて襷にした時、薬園を管理している久平が慌てて走って来た。久平が久吉の裾を端折るのに手を貸すと、二人を管理小屋近くにある井戸端へと案内した。
夏の日照りから薬草や薬樹が元気に育つ様に、二人は水撒の為に夜明け前から薬園に足を運んでいた。薬草や薬樹に水を撒く事は辛い苦しい仕事であるが、これを久吉に覚えさせなければと思って、宗茂は久吉を薬園に連れて来ている。
「久吉、その釣瓶で水を汲み上げてみろ」
宗茂は久吉を井戸端の方に押し遣った。井戸を覗くと奥深く暗さを増していた。
久吉は怯えた表情で宗茂を見ている。
「薬草や薬樹に水を与える為に井戸水を汲み上げなければ・・・・・・・」
と宗茂は言って、久吉に眼を遣った。
そして宗茂が久吉に喋り出した事は、薬草や薬樹に水を与えると言う事は、薬草や薬樹が夏の日照りに耐える為に水を欲しがっているからだ。久吉だって、夏の日照りの中を此処まで歩いて来て水が欲しいだろう。と言って宗茂が久吉を見ると、久吉が頷いた。
「久平どん、すまんが水を久吉に飲ませてくれんかねぇ」
久平が急いで管理小屋に戻ると、茶瓶と茶碗を持って来て、久吉の茶碗に久平がなみなみと注いだ。久吉は口を付ける前に宗茂を見上げた。宗茂は久吉に頷いて見せた。久吉が一気に茶碗の水を飲み干した。
「久吉、旨かったか・・・・・」
「うん」
「久吉、日照りの苦しさから抜け出す水だ。美味かっただろう」
と言った宗茂が、井戸端の桶に眼を遣った。
久吉が桶に満たし井戸水を幾度となく畝へと運んでいる。陽の照り付けが強くなって来た。
久吉は重い桶を両手で運ぶ途中で何度も立ち止まって、小さな手の甲で額の汗を拭っている。一通りの水撒きを終わらせた頃には、陽は真上に上り詰めていた。
おうめが作ってくれた昼飯を頬張り乍ら宗茂が久吉に言った。
「いま、久吉がした水撒きを、毎朝久平さんがしていなさるのだぞ」
昨年の重陽の節句から、履き詰めて来た足袋を脱ぐ寛政九年の桃の節句を迎えている。
学舎が休みなので、本町で生蝋と油問屋を営んでいる萬屋元左衛門の娘おふじの処に、学舎の女子達四人程が呼ばれて、桃の節句を楽しんでいた。
雛飾り壇の前で、およつ達に教わったお手玉や綾取りで遊んでいる処に、久吉と良吉そして万太郎の三人が桃の花を持っておふじを尋ねて来た。
「あら、良ちゃんに久ちゃんに万ちゃん、桃の花を持って来てくれたの」
「桃の節句だろう。取って来たよ」
良吉が自慢げに応える。
「何処に咲いていたの」
「徳栄寺の中だよ」
「黙って取って来たの」
「いいんだよ。おふじちやん、浜の方に抜け道を作っているから・・・・・」
其処を通れば寺の誰にも見付からないから、と久吉が誇らしげに言った。
おふじに案内されて、三人が雛壇のある部屋に入ると、おふじの女子友達の他に男達がこの部屋にいた。此の男達を見た久吉が声をあげた。
「次平ちゃんに虎吉ちゃんも来ていたの」
次平と虎吉は久吉達三人を見上げて、恥ずかしそうな顔をしたが、其れは子供達の事、すぐに皆で道中双六が始まった。骰子を転がす度に、誰が博多に戻ったと言っては膝や手を叩いての騒ぎ様である。次平が江戸へ上がった。次平は大声を出しての燥ぎ様であった。
「おい、次ちゃん、一番早く江戸に行くの」
万太郎が声を掛けると、次平が応えた。
「うん、おいら船乗りで、誰よりも一番早く江戸に行くぞ」
「江戸に行くのは、やっぱり次ちゃんが一番かなぁ」
と久吉が言ったが、此の子達が梅塾に入る前には江戸が何処にあるのか。この博多から何日掛かって行く処にあるのかさえ、知らなかった。
梅塾で下澤先生からの教えやおよつ達の話で、子供乍らにも行けない処とは思ってはいなかった。手の届く処にある夢であったから、道中双六で愉しんでいた。
九月の末日になると、城下も博多の町も帷子から袷支度へ衣替えをする頃に、良吉のおとっつあんの善右衛門が梅塾を訪れた。これから、子供達に商い人が店を持つまでの出世話を聞かそうとしている。
「おっちゃんは、誰であるか。知っているかい」
「知っているよ。良ちゃんのおとっつちゃんだろう」
「うん、良吉のおとっつちゃんには間違いないが、今日は呉服屋の大将だ」
と善右衛門が言うと、子供達の中から声が掛かった。
「おとっつちゃん、大将はお城の中に居なさるのじゃないのか」
「おぉそうだ。おとっつちゃんは、お城の外で商いをしている大将だ」
「ふーん」
「じゃあ、おとっつちゃんには、家来が居るのかい」
と次平が問うた。
「うーん、家来・・・・いるいる。そこに居る良吉が家来だ」
善右衛門は良吉を指さして言った。子供達が一斉に良吉に眼を遣った。
「良吉が家来・・・・」
次平は少し小首を捻り乍ら、善右衛門を見た。
「そうだ。その家来の良吉が、大将になるまでの話をするから聞いてね」
と善右衛門が言って、商い屋の出世話を子供達に面白く聞かせた。
「家来が十九の歳になると、大将から手代にするぞと言われるのだ」
と言った善右衛門が、ここで子供達の顔を一巡した。そして話を続けた。
「手代になると、衣裳も給金も貰えて、家来も多く付く事になるぞ」
「銭が貰えるの。それなら飴が買えるよ」
代呂物問屋松屋の息子得平が、皆の顔を見て言ったので、皆がどっと笑い転げた。
「得平ちゃん、飴でも何でも欲しい物は買えるよ」
この様に良吉のおとっつちゃんが応えると、教場はわいわいがやがやの騒ぎとなった。
良吉のおとっつちゃんが続けた話は、永い間、お店に奉公してくれると、其のご褒美としてお店の暖簾と言う物を分けて貰える。其の時、大きな銭も貰える事になる。と良吉のおとっつちゃんは話を終わらせた。
「大きな銭は焼き芋が買えるくらいの銭」
誰かが言った。
「あるったけの焼き芋が買える銭だよ」
「へぇー、あるったけの焼き芋・・・・。おいちゃん、おいら、大将になるよ」
と誰かが言った。教場がまたがやがやとなる。
すると、男の子達から声が上がった。
「おいらも、大将になるぞ」
善右衛門は子供達の顔を嬉しそうに見渡している。
三年六月の学の期間が終わった。
下澤先生が子供達に別れの言葉を告げている。この三年六月の間で誰一人と休まず。この梅塾に通って来た。
小さかった体は大きくなってはいたが、それよりも顔付きが聢と締まっていた。
大人の世界に入れても引けを取らない様な顔付きと言ったら少し大袈裟だが、三年半前に比べればその様に見える。
この梅塾を巣立って行く男達は此処二、三年は稼業の手伝いに専念して、その後は善右衛門が話した様な奉公先の世話になるだろう。
女の子は三味線とか琴などの音物や縫いごと、それに花活けなどの手習い事を身に付けると、武家の家に躾奉公に上がって良縁先を見付ける女子の道を進む者もあれば、男と同じ様に稼業の手伝いをした後、何処かへ年季奉公へ行く者もいる。この子達の道は其々違うだろうが、学を身に付けた事で決して食べる事に事欠く事はないだろう。とおうめは教場の後ろから子供達を見詰めている。
「先生、おいら達は梅塾三十騎だな」
次平が言った。
「うん、梅塾三十騎・・・・」
下澤先生は少し考える様な素振りを見せた。
「先生、教えただろう。此処のお城には黒田二十五騎と言う強い大将達がいると」
「おぉ、そうそう、そう言った。君達はそれと同じ三十人の大将だ」
下澤先生が笑い乍ら言うと、おきくが尋ねた。
「先生、女子の私達も大将なの」
「この梅塾を出た者は、男も女子も皆大将さ」
「じゃあ、先生、大将になったら家来がいるの」
とおふじが問い質した。
「家来は、皆の後からこの梅塾に入って来た者が皆家来さ」
と下澤先生が応えて、大きな笑い声を出した。すると、教場の子供達も一斉に笑い出したので、教場の後ろで見ていたおうめ達も釣られて笑いの渦に入っていた。四月の青空へ皆の笑い声が吸い込まれて行く様だった。
学の年限を終えたその日の夕餉後、久吉が宗茂とおうめ、そしておよつにこんな事を言って来た。
久吉と言う久の字は、何時々までも、そして吉の字は良い事が久吉に舞い込んで来る様に、久吉と付けてくれたのだねぇ。
久吉がこんな知恵を覚えたのか。おうめは三年半前よりも、大きく成長してくれた久吉を潤む眼で見詰めていた。
潤む眼の雫が、おうめの胸をしっとり湿らした時に、おうめは、あの夕焼けの中で腰を折りなさった人に約束をした事を思い起こして、安心して下さい。と心で言っていた。




