一、嵐の夜に、何があった・・・・
福岡城の上ノ橋御門前から延々と続いている行列は、お城の前を東西に通っている唐津街道を博多の町まで埋め尽くしている。
列の所々から白い息が夜明け前の空へ吸い込まれていた。此の夥しい人達は寛政元年一月十五日の明け六ッ(午前六時)の開門を待っている。
この日は、博多の町と城下の商人達を始めとして、双方の町から繰り出した職人達、それに近郊の百姓達が藩主に年頭の挨拶を行なう為に、年に一度お城への立ち入りが許されている博多松囃子の日であった。
東の稜線から明け六ッ(午前六時)の陽光が上ノ橋御門に射し込んで来た。
御門前の列が大きく動いた。列が城内に流れ込んで行く。
松囃子前日から続いていた日和も昨日で跡絶えて、今日十八日はどんよりとした空模様が朝から城下を覆っていた。八ッ半(午後三時)を過ぎる頃になると、低く垂れ込めている灰色の雲が西からの風に乗って、東へと速い流れを見せている。
其から半刻(一時間)後には、風向きは北からの風に代わっていた。
博多湾から吹き付けて来る風は、時偶、悲鳴の様な音を含んで、お城の傍を通り抜け乍ら、唐津街道に砂塵を巻き上げている。
黒い雲が城下を被うと、辺りは薄墨を垂れ流した様な薄暗さに包まれていた。
此の薄暗さが何時の間にか雨を誘い。横殴りの雨となって街道筋の家並に叩き付けている。
街道に沿った商家は、突然の嵐に見舞われて雨戸を慌てて閉め始めた。
通りでは雨空の薄暗さに夕闇が重なって暗さを増して行く中で、商家の雨戸の隙間から漏れた仄かな灯りが、街道の雨風を僅かに照らしている。
この漏れている灯りで人影を探そうとしても、何処にも人影を見る事はなかった。
横殴りの雨は刻が下がるに従って、何時しか霙に代わっていた。遠くの寺の鐘が霙混じりの風を裂いて宵五ッ(午後八時)を告げて来た。
街道に漏れていた灯は疾っくに消えて、暗闇に風の不気味な音だけが響いている。城下の家並はこの嵐にじっと耐える様に静まり返っていた。
人影を見る事がなかった街道に、身を窄めた人影が辺りを気にし乍ら、覚束ない足取りで歩いて来ているのが見える。見える人影は二人らしい。
霙は一段と激しさを増していた。街道の奥に見える二人は、霙に行く手を阻まれ乍ら何処まで行く積もりなのか。
冷たい風が霙を容赦なく二人に叩き付けていた。
横殴りの霙に足を取られて一人が跟踉めいた。跟踉めいたのは女子らしい。髷が乱れて長い髪が小袖にへばり付いている。連れの者がその女子を支えた。どうやら若い夫婦と思える。支えられた女子は大切な物を抱えているのか。常に腕の中を気にしている。
亭主と思われる者に促される度に、危なげな足取りを僅かに進めている。
暗闇の中で亭主と思われる者が、その女子を庇う様に寄り添っていた。
乱れ足の二人が商家の前で足を止めた。亭主と思える者が凍えた手で顔を拭うと、軒の上に掲げてある看板を見た。男は女子に眼を遣り僅かに頷いた。女子は霙を含んだ風が吹き付ける中で男の顔を見たが、直ぐに腕の中の物を庇う様に俯いた。
二人の体に滲みている寒さ故か、それとも二人が行うとしている様相の恐ろしさ故か、二人の体が小刻みに震えている。
霙混じりの風が、時偶激しさを増して二人の背を叩き付けた。濡れた小袖が二人の体にしっとりと纏わり付いていた。男が辺りを見渡した。雨風を凌ぐ処を探す様に、商家の間口を右から左へと首を捻ったが、この日の霙と風を凌ぐ処は何処にも見渡らなかった。女子は霙が腕の中の物に降り掛からない様に気遣って、先程から何度も背を丸めて庇っている。足は商家の門口から動こうとはしない。
男が商家の門口から隣との境目まで行き、女子の処に戻って来て女子の眼を見ると、女子の肩を緩く押して隣との境目まで連れて来た。其処には雨戸を仕舞い込む戸袋が荒れ狂う霙も風も誘い込んではいなかった。
女子は男の顔を見たが躊躇っている。しかし、亭主と思える者が女房と思える女子の肩を軽く押した。女子は膝を折り、その場へ屈んだままじっとして動かない。叩き付ける霙と風で、女子の体は先よりも震えが激しさを増していた。男は女子の身を案じて、女子の傍にしゃがみ込むと、女子に何事かを告げると、女子の腕に手を掛けた。
女子が再び男の顔を見上げる。男は滴り落ちる霙の雫を片手で拭い、女子に頷いた。
女子はやっと決心が付いたのか。腕の中の物を暫し見詰めて、白い布に包まれた物を戸袋の奥深くに押しやると、二人は戸袋から後ろに二、三歩下がった。
だが、女子がその場に戻ろうとする。
男が脇から強く引き止めた。女子が男の顔を振り返った。男は二、三度頭を左右に振った。女子の膝が崩れそうになったのを、男が抱き抱える様にして、その場から、来た道を戻りに掛かった。
女子は何度も何度も立ち止まり、戸袋の処へ戻ろうとして体を揺さぶった。
男は額から顔に流れ落ちる霙の雫を手荒く拭い去り、女子を引き止める。
引き止めた男、引き止められた女子の背を、冷たい霙混じりの風が無常にも押していた。
刻は宵五ッ(午後八時)を四半刻(三十分)ほどを過ぎた唐津街道沿いの簀子町。この町の商家の門口から二人は嵐の中へと姿を消して行った。
簀子町で福岡藩御用達薬種問屋を営む播磨屋市左衛門宗茂は番頭伊平が持って来た商い帳に、奥の座敷で先程から眼を通していた。播磨屋の間口四間半の雨戸に横殴りの霙混じりの風が打ち付ける度に、聞こえて来る軋みの音に宗茂の耳が奪われて、商い帳から眼を外し帳場の方に眼を向けた。
宗茂が奥の座敷から帳場へと足を運んだ。帳場では番頭の伊平が二人の手代に火の元と戸締りの指図をしている。
風が運んで来た霙が雨戸を激しく叩いている。不気味な音が薄暗い三和土を覆っていた。「番頭さん、この風ですから、火の元にはくれぐれも頼みますよ」
「はい、旦那様、いま一度火の元を見回りさせています」
「番頭さんも帰る刻にすまないねぇ」
と宗茂が言った時、近くの寺から宵五ッ半(午後九時)の鐘が宗茂と伊平の耳を被った。
「旦那様。この嵐ですから、今夜はこちらでお世話になります」
「そう言ったって、おもとさんが心配していなさるだろう」
「旦那様。おもとの処には使いを出しますから」
宗茂と番頭の伊平が話をしている間に、手代二人が火の元を見回って戻って来た。
上がり框から三和土へ降り様とする宗茂に、手燭を差し向けた伊平が三和土の下駄を照らした。宗茂は伊平が照らす下駄に足を下ろした。伊平が少し腰を屈め乍ら、雨戸の左端から右端へ灯りを流して行く度に、宗茂は雨戸の一つ一つに手を掛けて、雨戸の締まり具合を確かめている。霙混じりの風が強く吹き付けて、雨戸の軋む音が一段と激しさを増していた。主人宗茂と番頭伊平の後で、不安顔の手代同士が顔を見合わせているのが、伊平が掲げる手燭の灯りが捉えていた。
伊平が雨戸の右端近くまで灯りを照らして行くと、宗茂は最後の雨戸に手を掛けて、少し雨戸を揺さぶって伊平に顔を戻した。灯りの中で宗茂は伊平に頷いて見せた。
「大丈夫でしょう。番頭さんも、手代さんも休んでおくれ。ご苦労さんでしたねぇ」
と宗茂が言って、上がり框の方へ足を向けた時、風の音が暫し止まった。
その止まった僅かな間に、風の音と違う何かを宗茂が捉えた。宗茂は上がり框へ向かう足を止めて伊平の顔を伺った。伊平もその何かを耳にしたのだろう。主人宗茂の視線から眼を外して、聞こえた雨戸の方に眼を定めた。宗茂もその方に眼を遣った。
しかし、風がまた吹き出して、その聞こえた物を再び捉える事は出来なかった。
宗茂は雨戸の右端の処に戻り、しゃがみ込むと耳を研ぎ澄まして、外の何かを捉え様としていた。雨戸に寄せていた宗茂の耳が何かを捉えたのか。番頭を見上げた。
「番頭さん、戸袋辺りで赤子の泣き声がする・・・・・」
「えっ、赤子ですか!」
と伊平が驚きの声を上げ乍ら、主人宗茂の横にしゃがみ込み、耳を雨戸へ擦り付けた。
「番頭さん、この嵐じゃあ。赤子を早く助けてあげなくちゃ」
番頭伊平は宗茂の指図で、雨戸の中程にある潜り戸の閂を抜き取り、潜り戸を半開きに開いた。唸りと共に霙混じりの風が三和土に勢い良く吹き込んで来た。その風が奥の障子を揺さぶった音が聞こえて来た。番頭伊平が半開きの潜り戸から、半身を外に出すと、霙が顔にびしびしと当たって来た。片腕で霙を庇い乍ら、風に逆らって外へ飛び出すと、宗茂は半開きされた潜り戸から霙を庇い乍ら、伊平の後を眼で追っている。
奥の障子を揺さぶった風の音と、帳場の騒ぎを気にして宗茂の母およつと宗茂の妻おうめ、それに女中のおひでが急ぎ足で帳場へ出て来た。
その時、潜り戸から半身を出している宗茂の処に、番頭の伊平が霙混じりの風を背に受けて戻って来た。伊平が抱き抱えている白い布の中から、不気味な嵐の音を掻き消すほどの激しい赤子の泣き声で、宗茂は開いている潜り戸を閉める事さえ忘れて伊平の傍に来ると、伊平の腕の中を覗いた。
「宗茂、捨て子かい・・・・」
其の時、母およつが声を掛けて来た。伊平の腕の中を覗いていた宗茂がおよつを見た。
「おっかさん、可愛い赤子だ。どうしょう」
宗茂の声に押される様にして伊平が、およつとおうめが立っている上がり框の傍へと行った。そこに、手燭を奥まで取りに行っていたおひでが、明々とした灯で伊平の腕の中の赤子を照らしてみた。
およつが伊平の腕の中の白い布を少し捲って、手燭の灯りの中に浮かぶ赤子を暫し見詰めて、おうめとおひでに顔を向ける。
そして、もう一度赤子に眼を戻すと、今度は宗茂の顔を見た。
「本当に可愛い赤子だのう」
とおよつが言って、あやし言葉を言っていたが、はっとしておひでを見た。
「おひで、この赤子は寒さとおっぱい欲しさに泣いているのだよ」
と言ったおよつが、おひでに言葉を重ねた。
「お湯を沸かしておくれな。おうめさんも手伝っておくれ」
おひでは手燭をおよつに渡すと、奥の台所へと急いだ。嫁のおうめが腰に廻していた細紐を解いて襷代わりに掛け乍ら、その後を追った。
「宗茂、東職人町の穏婆のおたかさんば、番頭さんに呼んで来て貰いなさい」
と宗茂に言ったおよつが、三和土にいる宗茂に手燭を渡し、伊平から赤子を受取って腕の中で頻りとあやしている。
雨合羽に菅笠の番頭が、狂った様に叩き付ける霙の中に飛び出そうとした時、およつが声を掛けた。
「番頭さん、おたかさんには、乳が出る女子を連れて来る様に言っておくれ」
「へい、では行ってめいります」
「この嵐の中にすまないが、頼みましたよ」
「へい」
伊平は腰を折って、其の狂った様に打ち付ける霙混じりの嵐の中へと飛び出して行った。伊平が飛び出した潜り戸を閉めていた手代の小助に、およつが台所からおうめを呼んで来る様に言うと、おうめに奥の間に赤子の床を敷き、箪笥の中から赤子を暖める小袖を探す様に言っている間も、およつは体を揺さぶり乍らあやし続けている。
およつが赤子を抱いて、奥で床を敷いているおうめの処へ行こうとした時、三和土で突っ立っている手代の亀松を見た。
「亀松、おもとさんの処に、番頭さんは今夜は播磨屋に泊まりますと伝えて来ておくれ」
およつの伝言を持って、手代の亀松が勢い良く嵐の中に飛び出そうとした時、およつが亀松の背に声を掛けた。
「亀松、おっかさんには余計なことは言わないことだよ。心配しなさるからねぇ」
「へい、分かりました。じゃあ、行ってめいります」
「頼みましたよ」
とおよつが亀松の背に言葉を投げた。
亀松は番頭の息子で、播磨屋が丁稚の時代から奉公させていた子であった。
三和土に残っている宗茂と、手代の小助を上がり框から見下ろしていたおよつは、火が付いた様に泣いている赤子に眼を遣り、腰を下ろしながら「よしよし」とあやすと、手代の小助に眼を向けた。
「小助、おまえは暖かいお茶と足を温めるお湯を沸かしておきなさい。いいかい」
「へい」
およつは宗茂にも眼を配ったが、赤子が泣き声を一段と大きくしたので、ゆらゆらと体を揺すぶり乍ら奥へと行った。
既におうめが床を敷いて暖かそうな綿衣を重ねていた。およつとおうめが冷たくなった赤子の産衣から綿衣へ取り替えている間も、赤子の泣き声はやむ事はなかった。
その時、およつが叫んだ。
「おうめさん、男の子だよ」
「お母さん、未だ生まれて日が経ってない様ですねぇ」
「生まれて一月ぐらいかねぇ」
番頭の伊平が店を出てからもう一刻(二時間)近くなりそうだった。その間に手代の亀松は戻っていた。
そろそろ夜四ッ半(午後十一時)の鐘の音を聞く頃である。
奥の間では、赤子の体を暖かいお湯で、先程から拭き上げているおよつの手捌きを宗茂とおうめが繁々と見詰めている。
外からの風が何処から入って来たのか。行灯の火影をゆらゆらと揺らした。
およつが宗茂とおうめに眼を配った。
―番頭さんの帰りが遅いね。おたかさんの都合が付かないのかなぁー
と呟くと、赤子のほっぺを指でちょこっと押してあやしたが、赤子の泣き声は止みそうもない。およつがおうめを見て言った。
「おうめさん、この子はお腹を空かしているのだろう」
「・・・・・・」
おうめは応え様がなく。眼を赤子に落とし、左手を自分の乳房に掛けた時、座敷の外から亀松の声が聞こえて来た。
「旦那様、番頭さんがお帰りになりました」
「そうかい。すぐ、ここに来る様に言いなさい」
「へい」
部屋の襖が開くと、伊平の後ろで二人の女子の姿が行灯の灯に薄っすらと見えている。
宗茂とおうめがその姿を見ると、おうめが立ち上がり襖の入り口に行き、二人の女子を部屋に導いた。
「これはおたかさん、この嵐の中を、急なお呼び出しをして申し訳ありません」
と宗茂が鄭重に言葉を掛ける傍から、おうめが深く腰を折っている。
宗茂とおうめの背後ろからおよつが声を掛けた。
「おたかさん、この寒空に申し訳ありませんねぇ」
「おおごりょんさん。遅くなってすいません」
と言って、おたかが話を繋いだ。
乳の出る人を探していたのでこの様に遅くなってしまって、その乳の出る人はおよつさんも知っていなさる美濃屋のおはつさんが、昨年の秋口の終わりにお子を儲けられていなさるので、そのおはつさんに乳貰いのお願いをしたので、おはつさんのお子を今晩乳の出る女子さんの処へ預けるやらで、刻が遅くなったと話してくれた。
此の話を聞いたおよつが口を開いた。
「これは美濃屋のごりょんさん、こんな嵐の夜分に、ご足労をお掛けし申し訳ありません」
おはつは赤子が寝かされている処に歩を運ぶなり言った。
「それよりも、赤子がお腹を空かしているのでしょう」
宗茂は番頭の伊平に労いの言葉を掛ける為に帳場に戻ると、部屋にはおよつを始めとした女子衆だけが赤子の顔を覗いている。
おはつが床から赤子を抱き上げると、赤子を左の腕に抱え右手で襟元を大きく開くと、弾ける様な乳房が灯の中に浮び上がっていた。おはつは左手に抱えている赤子を自分の乳房に近付けた。赤子は紅葉の様な小さな手をおはつの乳房に押し付けると、我武者羅に乳を吸う音を部屋に響かせている。
およつにおうめ、そしておたかが赤子の仕草を一時も眼を離さず見詰めていた。
赤子は母親の乳房を求めて何刻も泣き続けていたのだろう。先程まで泣き通していたのがまるで嘘の様に泣き止み。小さな口をむちょむちょと動かしたかと思えば、小さな指を口に咥える仕草をすると、おはつさんの腕の中ですやすやと眠り始めた。すると此処にいる女子達が互いに顔を見合わせて微笑んだ。
微笑んだおうめとおよつが、おはつとおたかの袖口から裾に掛けて眼を流すと、二人の足首が小刻みに震えていた。其れを見たおうめがはっとして声を出した。
「おはつさん、おたかさん、気が付かずに申し訳ありません」
とおうめが言うと、およつがおうめに頷きを見せた。次の間へと急いだおうめの両手にはおよつとおうめの小袖を抱えて戻って来た。
「おはつさん、お湯を沸かしていますので、足を温めて、濡れた小袖を着替えて下さいな」 とおよつが声を掛けると、おはつは躊躇いの顔を見せていた。
「おはつさん、遠慮はいらないよ。どうか足を温めて下さいな」
およつがおはつとおたかに温容さを見せている。
おはつは昨夜の嵐の中を、小袖の上に雨合羽を羽織って来ていたので、小袖は左程濡れてはいなかったのだろう。
昨夜の内に、手焙りの火で乾かしてくれた小袖が丁寧に畳み置かれていた。
昨夜のおたかは小袖に蓑を覆っただけで播磨屋に駆け付けていたので、おたかの小袖を手焙りの火で乾かす事は出来なかったのだろう。およつの衣裳と思われる物が衣桁に掛けられている。
おたかが衣桁の小袖に眼を遣った。其の小袖の肩から裾に掛けて障子越しの緩い朝陽が当たっているのを見ていたおたかが、ようやくその小袖の袖に腕を通した。紫縮緬地に雪が残る池で、鴛鴦が戯れている奥では梅が咲き誇る文様があしらわれている。
播磨屋の家族が朝餉を取っている座敷の襖越しに、おたかが声を掛けた。
「おたかです、お邪魔してよろしゅうござんしょうか」
「ああ、おたかさんにおはつさん、遠慮なくお入りよ」
襖の向こうから、およつの声が聞こえた。
朝餉後の席で女子四人が賑わっている時に、奥の部屋から甲高い赤子の泣き声が皆に聞こえて来た。女子達の話が止って、互いが顔を見合わせた。奥の部屋に眼を注いだ。
今までの賑やかさを忘れたかの様に、女子達はその場から奥の部屋へと足を急がせた。
奥に駆け込んだ女子達の中で、おたかが手馴れた仕草で赤子の綿衣の裾を捲くると、酸っぱいおしっこの匂いが女子達の鼻を衝いた。おうめが席を立つと、戻って来たおうめの手には、襁褓代わりの布が持たれていた。
「おしっこが出てむず痒かったのよ」
とおたかが、襁褓代わりを宛がえている手を緩めて言った。
「そぅ、お腹が空いているのかと思ったよ」
とおよつが言うと、おたかが振り返りおよつとおうめに、そしておはつに眼を配った。
「お腹といえば、昨夜は取り急ぎの頼みで、おはつさんに乳貰いをお願いしたが・・・」
と言ったおたかが、暫し口を噤んだ。そして徐に言い出した。
「おはつさんどうだろうか。この赤子の乳貰いを受けてくれんかねぇ」
「およつさんにおうめさん、私の乳をこの赤子で貰って下さいな」
とおはつが笑みを浮かべ乍ら応えた。
おはつの体からお乳が良く出ている割には、お乳が張って困っている事をおよつにおうめ、そしておたかに聞かせた。
「そうなの、おはつさん分けて下さる。有難い事だよ。なぁおうめさん」
おうめが頷くと、およつが話を続けた。
「今日の内には、旦那様の許しを乞いに伺わせて貰いますばい」
「播磨屋さんとおはつさんの心づくしで、この子の命が消える事は無くなったねぇ」
とおたかが、染み染みと言った。
昨年の秋口の終わりに、おはつが初めての男の子を、おたかの手で取り上げられていた。その良吉と言う子が多くの乳を吸う割には、母のおはつは乳が張って夫婦で悩んでいたので、乳貰いの話におはつは二つ返事だった。
おたかが襁褓代わりを宛がえると、おはつが赤子を抱き起こし乳を飲ませ様とすると、赤子は勢い良くおはつの乳房に小さな手を押し当てて、ごくごくと喉元を鳴らしていた。
お腹が膨らんだのだろう。赤子は何時の間にか円らな眸を閉じて、床に詰めている人に無邪気な寝息を聞かせていた。
朝餉の膳が片付けられた処で、おたかがおよつに言った。
「およつさん、そろそろお暇するので、あたきの汚れ小袖は・・・・・」
「おたかさん、その小袖を着て行ってくれないかねぇ」
とおよつが言うと、おたかがおよつの顔をみた。
およつには宗茂より二つ上の姉がいた。おゆりと言う姉が二十年前に博多店屋町の薬種問屋春日堂に嫁いで、三人の子供を儲けていた。おゆりが実家に戻ってお産をした時、三人の子を取り上げてくれたのが、このおたかだった。その時のお礼も兼ねて小袖を着て帰ってくれとおよつは頼んだ。
しかし、この様な家紋入りの小袖に腕を通す訳には行かぬと、おたかが断わりを掛けると、およつは笑みを漂わせて、その家紋はあたきが入れた伊達紋じゃけんと言って、二人の話にけりがついて、おたかはおよつの小袖を貰い受けて、乳人役を終わらせたおはつと播磨屋を後にしていた。
座敷ではおよつを囲んで、宗茂とおうめが赤子の事で話し合った。
話は、この子をこれから先どうしょう。この赤子の名前をなんとしょう。これしきの事を決めてしまうのに、おたか達が播磨屋を後にして半刻(一時間)が過ぎていたにも拘らず。未だ話は決まっていなかった。話が決まったのは、それから四半刻(三十分)後であった。宗茂とおうめはこの話を持っておはつの処へ伺ってみた。
城下で呉服商を営んでいる美濃屋を伺った宗茂とおうめは、美濃屋の奥の座敷に案内された。其処で待っていたのは美濃屋の大旦那の理右衛門さんとおおごりょんのおちよさん、それに若旦那の善右衛門であった。
宗茂とおうめに話をして下さるのは、宗茂とおうめと然程年が変わらぬ善右衛門におはつさん夫婦と見ていたのが、待っていなさったのが城下で大商い処の大旦那様と大ごりょんさんに二人は狼狽したが、昨夜のお礼を宗茂とおうめが述べた。
昨夜、播磨屋で決めた話をこの場で話すなら、母のおよつなら話も出来ようが、宗茂の歳で美濃屋の大旦那様に向かって、素性の分からない子の乳母の話を願い出る事は出来ない相談だ。と思って宗茂は口篭った。大旦那の理右衛門は宗茂の気持ちを悟ったのか。
宗茂とおうめに言った。
「五代目宗茂どん、美濃屋と播磨屋の間や、そんな心配はよしんしゃい」
と理右衛門が言った後から、おちよさんが口を入れた。
「播磨屋さんは良い事をさっしゃったばいと話していた処ですばい」
「良いこと?」
と宗茂が言った。
「宗茂どんがよーぉ泣き声を聞き付けて、赤子の命を拾わしゃったと感心しとったとばい」
と言った理右衛門が後に続けた話は、宗茂が赤子の声を耳にしなかったら、赤子は今朝方には凍え死んでいたか。野良犬どもに喰い千切られていたかも知れなかった。それを播磨屋さんが助けなさった。だから、この美濃屋も手助けの欠片でもさせて貰おうと思っている。と美濃屋の考えを聞かせてくれた。
この美濃屋の理右衛門の話に、宗茂とおうめは互いに眼を合わせた。
「大旦那様、手助けとは・・・」
「あの赤子の事で播磨屋さんがお困りの事を、この美濃屋にも遣らせて貰いたいとたい」
「播磨屋が困っている事・・・・」
「そうですたい。昨夜、嫁のおはつが乳人役でお宅へ伺ったでしょう」
「・・・・・・・」
「今後も、この美濃屋を乳人役でお使えしなっせと言う事たい」
この理右衛門の話を聞いた宗茂が、敷いていた座布団を後ろに廻して理右衛門さんとおちよさんに頭を垂れると、横のおうめも深く頭を下げていた。
「理右衛門さん、この話はこの宗茂がお願いすべき事でありますのに・・・・・」
「なに、話の最初に言った様に、美濃屋と播磨屋の間で遠慮事はいらないと言う事たい」 理右衛門の話に、頭を垂れて聞いていたおうめが、宗茂の横から声を出したが、その声は涙声で震えていた。
「大旦那様申し訳ありません。私が赤子に乳を遣らなければならないのに・・・・・」
止めたおうめの話に、美濃屋の善右衛門が応えた。
「おうめさん、案ずる事はありませんよ」
と善右衛門が言って、暫しおうめに眼を定めていたが話を続けた。その話とは、おはつが播磨屋で乳人役を引き受けた話を今一度話した時、おちよが笑みを見せ乍ら言った。
「播磨屋さんのややと、美濃屋の良吉が乳兄弟とは目出度いことや」
「ちょっと待って下さいませ。今、おちよ様が乳兄弟と言われましたが・・・・」
宗茂が訝る表情で言葉を止めた。宗茂が思うには、宗茂が昨夜拾い上げた赤子は何処の誰の子か素性が分からない子だ。其の子と美濃屋の良吉が兄弟。
すると、理右衛門が宗茂の心を悟ったのか。座から上体を前に乗り出して皆の顔を一巡して、静かに話し出した事は、宗茂どんは、昨夜、あの赤子が何処の赤子か分からないから、あの赤子を播磨屋に入れるべきでないと考えなさったか。そんな事は考えさえしなかっただろう。赤子の命を消したくないから播磨屋に抱き入れて、おたかさんの処へ使えを出されたのだろう。
この筑前の国は享保の飢饉から天保の飢饉を受けて、お百姓衆は生きて行くのに難渋していなさる。播磨屋さんに抱かれた子は、そのお百姓の手で殺める事なく。何かの縁であなた方の腕に抱かれた。抱かれた命は、その子の親御達に代わって私達が命の火を燃えさせていかなければ、この筑前の国は成り立っては行きますまいぞ。
この様な話を理右衛門が聞かせてくれた。座は静まりの中にあった。
善右衛門が座の重たさを気にして口を開いた。
「おとっつあん、赤子がお腹を空かせているのじゃないかい」
「おぉ、そうだな。早速、乳人役のお出ましじゃあ。あはははは・・・・」
と理右衛門は高笑いを部屋に響かせた。一呼吸置いて理右衛門が宗茂に尋ねた。
「宗茂どん、処で赤子の名は決めたのかえ」
「はい、久吉と名付けました」
「久吉・・・・・」
「はい、あの子に久しく吉が賜ります様にとおうめが決めました」
「そうかい。いい名前だ。おうめさんきっと幸せを掴む事だろうよ」
昨夜の久吉の乳貰いのお礼と、久吉の今後の乳貰いの願いとして、宗茂が懐から差し出した物に、美濃屋は赤子の養育には銭の遣り取りは一切無用だと言って、その代わり赤子のこれからの衣裳はこの美濃屋から取り寄せてくれと、理右衛門が笑を携えて言った。
夕刻の乳人役で伺ったおはつの乳房に、久吉がむしゃぶり付いて、小さな口からちゅうちゅうと言う音を立てている。
お腹が満腹になったのか。小さな口から少しの乳を戻した。おうめが手早く手巾で久吉の口元を拭くと、久吉が小さな口を大きく開き欠伸をした。この久吉の様子をおうめとおはつが眼を合わせて微笑みを交わした。おはつはおうめより七つばかり年下であったが、何だか二人は以前から慣れ親しんでいた様な仕草で、おうめがおはつの腕から久吉を抱き抱えて床に寝かせると、おたかから貰って来た襁褓を手際よく久吉のお尻に据えて産衣を重ねている。
「おうめさん、慣れた手付きだわぁ」
おはつの言葉に、おうめは下げていた頭を少し捻っておはつに笑顔を見せた。
おはつを送ったおよつに宗茂そしておうめが座敷に戻ると、既に、おひでが夕餉の支度を整えてあった。三人が膳に向かうと、およつが話を切り出した。
「おうめさんこれからどうしょうかねぇ・・・」
およつの問いかけに、おうめは宗茂の顔を見た。
「あたきは未だおうめと話をしてないとやが・・・・・」
と言って、宗茂は言葉を止めた。止めた後に宗茂が繋いだ話は、あの子の名前も久吉と付けているので、明日、お奉行所にある播磨屋の宗門人別改帳に久吉を書き添えて頂き、里親が見付かるまでこの播磨屋で育てたい。と宗茂の心の内を話した。
そしておうめに視線を施した。おうめは暫しおよつの顔を見ていたが、およつがおうめに頷いた仕草を見せたのを見て口を開いた。
「お母さん、私も里親が見付かるまで播磨屋で育てて見たいと思っています」
「そぅーねぇ、あんな可愛い子が、この播磨屋に居てくれたら毎日が楽しいものねぇ」
とおよつは言って、笑顔をおうめに見せていた。
翌日、宗茂とおうめは久吉をお奉行所に届け出す為に、昼の乳人役に来ていたおはつと共に唐津街道を東に向かった。美濃屋の門口でおはつと別れた宗茂とおうめは、土手ノ町にあるお奉行所で届けを済ませて上名島町まで戻って来た時、おうめがお奉行所に届け出した事をおたかに話して来ると言って、街道を横切って東職人町へと横道を入って行った。
夕餉の膳で宗茂がおよつに、奉行所から聞かされた話をしている。
五十七年前の享保十七年に西国一帯を襲った大飢饉で、筑前の国だけでも十万人の餓死者を出したと言う話をおよつに聞かせると、この話はおよつも知ってはいたが、此の飢饉の影響とその後にも発生した飢饉の被害で、村ではお百姓達が家族と共に生きて行く事が出来ずに赤子を捨ている話はおよつも知らなかった。
此の事で、お城でも捨て子禁止のお触れを何度も出してはあるが、其の事は止まる事はなく、今月も久吉を含んで六人の捨て子が届け出されている,とおよつに聞かせたのだ。
「そんなに捨て子が多いのかい」
とおよつはびっくりした表情を見せた。
「その捨て子の事だが・・・・・」
と宗茂が言って、暫しおよつに眼を定めていたが、話の続きを喋り出した。
捨て子を拾って養育するには六歳までが一応の節目である。この歳まで里親の申し入れが無ければ、里親の話は諦めざるを得ない。其の後は、十一歳になるまでは実親が名乗り出る事が許されているので、この歳まで養育する事には不都合はないが、この歳になっても実親の名乗りがなければ、捨て子を拾って養育している家は、此処で、拾った子の行く末を考える事だと、お奉行所から教わった事をおよつに聞かせた。
奉行所から聞いて来た話を宗茂が話し終えた処で、およつがおうめに問うて来た。
「おうめさんは、奉行所の帰りに、おたかさんの処へ寄ってくれたのだろう」
「あっ、言い忘れてごめんなさい。おたかさんが小袖の事を大変喜んでいられましたよ」
と言った後には、おたかさんは久吉と言う名前に殊の外喜びなさって、久吉の事で何か困った事がある時は、夜九ッ(午前零時)であろうと、このおたかを呼び付けてくれと言われました。とおたかの伝え事をおよつに聞かせた。
「そぅーかい。おたかさんがそう言ってくれたのかい。ありがたい事ばい」
「おたかさんは久吉の命が切れなかった事を本当に喜んでいられましたよ」
「そぅーだねぇ。およつもそう思うよ」
「おたかさんが言われるには、色んな処で子返しが横行しているそうですよ」
「なんだい。その子返しとは・・・・」
「生まれた我が子を、親が我が手で殺めている事ですって」
「何、子を殺める・・・・・」
「えぇ、食べるのに事欠くから、その様な事が多いらしって」
「そぅーかい。それからすると久吉は捨てられたが、手を掛けられなくって良かったねぇ」
とおよつがしんみり言った時、奥から久吉の甲高い泣き声が襖越しに聞こえた。おうめが素早く立ち上がり、奥の座敷に行き乍ら言った。
「あら、おしっこをしたのかなぁ」
―母御の様な者だー
およつが呟いた。
この時、おうめは二十七歳で宗茂は三十五歳であった。二人が一緒になって十年を迎えていたが、二人の間には未だ子供は授かってはいなかった。
久吉が播磨屋の宗茂夫婦の腕に抱かれて六日目の夜、宗茂は番頭の伊平から今日の商いの様子を聞いていた。お城との商い話の他に、街道の西に掛けての早良郡、志摩郡、怡土郡の商い話を伊平から四半刻(三十分)ほど聞くと、宗茂が久吉をあやしているおうめの傍に遣って来た。
すると、宗茂が傍に座った音で、久吉がおうめの腕の中で動いた。
「お前さんが座った音で、久吉が腕の中で動いているのよ。久吉は音が聞こえるのねぇ」
「そうかい。じゃあ、眼も見えるのかなぁ」
「眼は未だはっきりと、見えてはないだろうねぇ」
「儂にも抱かせてくれよ」
「久吉、このお店のご主人様だよ」
とおうめが言って、久吉を宗茂に渡した。
「おぉ、おぉ、久吉、宗茂と言うのだ。よろしくなぁ」
腕の中の久吉の頬っぺを指で押し乍ら言った宗茂の仕草を、おうめが見乍ら宗茂に声を掛けてみた。
「お前さん、久吉が私達の腕に抱かれて、今日で六日目よ」
「うーん、そうか、もう六日になるか」
「お前さん、久吉の生まれた日は、私達が抱いたあの日と思っているの・・・・・」
とおうめが言って、明日が七日目でお七夜になる事を宗茂に話した。聞いた宗茂はおよつの考えもある事だろうと思って返事を渋った。此の様に宗茂が渋るだろうと思って、おうめはお七夜の話をおよつに既に話していた。
おうめがおよつと話した事は、おうめが久吉と言う赤子を初めて抱いた時は、其の可愛さから里親の話が来るまで、おうめはしっかりと養育しょうと思っていたが、美濃屋の理右衛門さんとおちよさんの話を聞いた時から、おうめの心に強く抱く物が溢れていた。
其の強く抱く物とは、播磨屋が拾った久吉と言う赤子には、世間の赤子と同じ様な幸せを与えて遣りたいと言う思いをおよつと話していた。この事に、およつは釘を差す事はせず。
宗茂と話し合って事を進める様に言った。此の事もあったから、お七夜の事を宗茂に話したのであった。おうめの話を黙って聞いていた宗茂が、暫くして口を開いた。
「お七夜をするのか。この子は捨て子だぞ」
「お前さん、捨て子であろうと、拾ったからには・・・・・」
おうめは言葉を止めた。そして、おはつの義父理右衛門が話してくれた事を宗茂に話すと、宗茂が暫し閉ざしていた口を開いた。
「おうめ、儂が悪かった。お前の言う通りだ。お七夜をしよう」
此の事で、二人はお七夜の為来りについて夜遅くまで話し合っている。
為来りと言えば、子供の名はこのお七夜の日に付けて、名を書いた命名書を神棚に供えるが、宗茂達はお奉行所に届ける為に既に名は付けていた。
その為に、既に付けている名を命名書に書いて神棚へ上げる事にしたが、肝心要の久吉の臍の緒が無い事に二人は戸惑いの表情を見せていた。臍の緒は久吉が病弱な体にならない事や物覚えが良くなる事を願って、久吉の名を書き表した命名書に包んで神棚に上げなければならないのだ。
「お前さん、どうしょう」
「どうしょうと言ったとて・・・・」
「臍の緒は、久吉の先を明るくする物よ」
「うーん」
宗茂は暫し俯いて考え込んだ。その宗茂の顔を覗く様にして、おうめが言った。
「お前さん、私達の臍の緒を久吉の命名書に包んで神棚へ上げたらどうかしら」
「えっ、そんな事までするのか」
と宗茂が言った。
「あの子を拾った義理の手前・・・・・・」
「そうか。分かった。じゃあ、そうしよう」
おうめは翌朝、実家からおうめの臍の緒を貰って来る事にした。実家からの帰りには、お七夜祝いへの誘い話を、おたかさんの処に立ち寄ってする事にした。おはつさんへのお誘いは明日の朝、おはつさんが久吉の乳人役で来られた時に話す事で、おうめが言い出したお七夜の段取りは出来上がって行く。
お七夜の晩を迎えた。座敷の上座に久吉が寝かされている。その手前の膳には尾頭付きの鯛と赤飯が盛られていた。膳を囲む様におたかにおはつそしておよつが並んだ。
皆を前にして宗茂とおうめが深々と頭を垂れて口上を述べた。
これで久吉は播磨屋と親しい人達の間で、宗茂夫婦が養育して行く世間並みの赤子と認められたが、これも内輪だけの事であって、世間様が久吉を宗茂夫婦と温かい間柄の赤子と認めてくれるには、宗茂夫婦の心の持ち様もあると二人は思っていたが、それよりも血の繋がった兄弟達が温かい眼で見てくれるのか。と宗茂夫婦に多少の不安があった。
しかし、極親しい人達から、久吉が里親に貰われる間まででも、捨て子ではなく播磨屋が暖かく養育している赤子として見てくれる事が、おうめには何よりも嬉しかった。
お七夜を終わらせて、おうめが昼下がりの刻に久吉を見ていると、この久吉は何処の誰の子であったのだろうか。
その親御さんが何故にこの久吉を捨てなさったのだろうか。
女子に取って赤子は女子の命と思える。その赤子を捨てなさる時の親の気持ちは如何程の思いであったのだろうか。そう思うと、おうめは何としても、この子に良い里親が現れるまで大事に育てて見ようと思っていた。
其の時、久吉に眼を遣ると、久吉が眠りから覚めたのか。大きな欠伸をして眼をくるくると動かした。その久吉をおうめが抱き締めると、おうめの心に熱い物が込み上げて来た。
―何と可愛い子かしらー
おうめは思わず呟いた。
久吉はおうめに行き成り抱かれてびっくりしたのか。不機嫌な甲高い泣き声を部屋中に流していた。おうめはこんな可愛い子が宗茂との間に生まれていたならば、と思って久吉の顔を見ていたら、思わず、七年程前の様子が甦って来て、再びおうめは久吉を聢りと抱き締めた。其処に、久吉の泣き声を耳にしたおよつが座敷に入って来ると、久吉をあやしながら噦り上げているおうめの肩に手を乗せた。
「おうめさん、あなたの辛い胸の内分かるよ」
このおよつの言葉には、おうめと宗茂が一緒になって三年が過ぎた頃に、おうめがおよつと宗茂に願って来た言葉を含んでいたのだった。
月が代わり二月に入った。久吉をおうめが初めて抱いた時は、久吉の身の重さは綿を抱える様な物だった。
処が、この半月の間に腕に堪える様な重さに、おうめは笑みを漂わせて庭に面した障子を開けた。そこでは紅千鳥の梅の枝に、紅の花弁が程よく咲いていた。淡い緑の羽を少し振るわせ乍ら、小枝から花弁に嘴を差し入れている鳥がいる。
「久吉見てごらん。目白が久吉にご挨拶をしているよ」
とおうめは開けた障子の横で、久吉を腕の中であやし乍ら、目白が蜜を求めている姿を暫し見ていると、襖越しに小助の声がした。
「ごりょんさん、美濃屋のごりょんさんがお出でになりました」
「あー、そう。直ぐ行きますから」
と小助に返事を戻すと、おうめは久吉をおよつに預けて帳場へと向かった。
帳場に行くと、宗茂が昨年長崎に出向いて、生薬の買出しをした分が一月の末に博多津に荷揚げされていた。その荷を廻船問屋の岡丁持が運んでくれたのを、手代の亀松と小助が三和土の奥に積み上げている。番頭の伊平は上がり框でお客と話していた。門口近くの三和土で宗茂とおはつが立ち話をしている。おはつの腕には良吉が抱かれている。
「あら、おはつさん、いらっしやい」
奥から声を掛けて、上がり框から三和土の下駄に足を掛け乍ら、番頭の伊平が話しているお客へ鄭重に頭を下げた。そのお客に笑顔を振り撒き、おはつの方へ足を向けた。
「今日は、良吉ちゃんを連れて来なさったよ。可愛いじゃないか」
と宗茂は言って、おはつを上がり框の方へ招いた。
「おうめさん、今日はお日和がいいので、良吉を連れて来ました」
「まぁー、可愛い・・・・」
と言って、おうめはおはつの腕の中の赤子を覗いた。
奥の座敷で、良吉と久吉を並べて寝せると、久吉が横の良吉の方に頭を少し動かした。
「おうめさん、久吉ちゃんが頭を動かして良吉の方を見たわょ」
「そぉー、二、三日前から、首もしっかり据わって来た様になったのょ」
おうめがお茶の代えを用意している背でおはつに応えた。
おうめとおはつの赤子の話は尽きない。お城の時櫓から太鼓の音が流れて来た。
「あら、おうめさん、今の太鼓は何刻ですかねぇ」
「多分、陽の落ち時分から昼八ッ(午後二時)じゃないかしら」
「えっ、もう、そんな刻。あぁー、長居してしまったわ。ごめんなさいねぇ」
「いいえ、どういたしまして、おはつさん今日は楽しかったですよ」
「わたしも、ありがとう。じゃあ、夕刻また来ますからねぇ」
里のおかっさんが風邪を拗らせて床に付いている事を耳にしていたおうめは、旦那様とおよつの許しを受けて、先日、母の見舞いに出掛けた。
其の時、播磨屋が捨て子を拾って養育している話を一部始終聞かせたのが、母の風邪の薬となったのか。母が床を畳んで元気になっている事を、おうめの実家の手代が用事で播磨屋を伺った時、おうめは聞いていたのだった。
母が元気になった話を聞いて、十日が過ぎようかとしていた。そろそろ巷の桜も蕾を綻ばせようとしている二月十三日、おうめの里の肥前屋から嫂のおすみが託け物を持参した。
おうめが母の病気見舞いに行った時、久吉には世間の赤子と同じ様な幸せを与えたいと言う話をしていたのを、おうめの両親と兄夫婦がおうめの思いを汲んで、久吉の三十二日目のお宮参りの祝い着を持ち込んで来たのだ。
この託け物におよつは殊の外喜び、およつが若き日に嗜んでいた舞いの扇をおすみに渡した。おすみが舞を嗜んでいる事を知っていたからである。
おうめは嫂が届けてくれた祝い着の下に着せる衣裳を選ぶ為に、十五日の昼下がりにおはつと一緒に美濃屋に向かった。
播磨屋から街道を東に僅かばかり行った処で、街道筋から心地よい香りが二人を包んだ。おうめが香りの方に眼を向けると、街道脇の圓應寺の境内で咲き誇っている沈丁花を見た。白い花弁の芯の処で淡い紅色を見せているのが、白色を一層引き立てている。
「おはつさん、何と香りの良いこと」
おうめは足を止めて、沈丁花に眼を注ぎ乍ら言った。
美濃屋から仕入れた武者文様の入った反物を、風呂敷に包んで街道を播磨屋に向かっている。そのおうめの心は、この反物で久吉の初宮詣での衣裳仕立の事を描いていた。
刻は夕七ッ(午後四時)を少し過ぎていた。播磨屋の太鼓暖簾横を摺り抜け様とした時、西から来たと思えるお百姓風の夫婦が、街道脇に佇んで播磨屋を窺がっている。その二人の視線とおうめの視線が合った。二人は気まずい顔をおうめに見せると、深々と腰を折って背を西へと遠ざけて行きなさった。
おうめが太鼓暖簾の横から二、三歩街道に身を乗り出して、その二人の背を暫く追ったが、二人は振り返る事もなく。夕焼けで染まる街道に背を小さくして行った。
おうめの胸に挿す物があった。
久吉の衣裳はおうめが夜鍋をして十九日に出来上がった。
二十日、これ以上のお日和はない朝を迎えていた。昼四ッ(午前十時)、播磨屋の氏神に当たる鳥飼八幡宮へ、おうめが仕立てた衣裳を身に付けさせ、その上に肥前屋が届けてくれた祝い着を掛けた久吉が、羽織姿のおよつに抱かれていた。およつの後に同じ羽織姿のおうめが付いている。
鳥飼八幡宮の鳥居前でおよつは立ち止まり、深々と頭を垂れると共に右手で久吉のお尻を抓った。久吉が火が付いた様な泣き声を出した。およつが嬉しそうに笑っている。
この日の夕餉時に、おうめが八幡宮の鳥居前で久吉が泣き出した事をおよつに尋ねると、およつはただ笑って応えようとはしなかったのだ。
そんなおよつの顔を、おうめが見ていると、ふっと思い出された事があった。それは夕焼けの中を西へ行きなさった。
あの日の、あのお百姓さんの事だった。おうめは宗茂とおよつに話して見ようと思った。




