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9.23世紀は明るい世界

 二十三世紀の我々は、ニュースやソーシャルネットワーク上の投稿、文学、あらゆるメディアにおいて、差別的表現に遭遇することがほとんどなくなった。不適切ワードを頭に思い浮かべただけでAIから警告が発せられ、その語が侮辱的文脈で使われるようになった歴史的背景や、その言葉によって虐げられてきた人々について、実に長い講釈を聞かされることになる。問答無用で。いかなるデバイスでも、これはシャットアウトできない仕様になっており、時と場所を選ばない。友人宅を訪問した時に、コーヒーメーカーに搭載されたAIから一時間半に渡る「差別について」のレクチャーを受けさせられたりすれば、もう二度とそんな言葉は使うものか、となるのが普通だから(コーヒーメーカーは、どこのブランドであるにせよ、口の悪さにかけては定評がある)。


「その部分は、もう少し新しいエディションでは修正されているはずなんだ。著者のアリス・カニンガム自体は納得していなかったらしいが。だがその修正すらも、後世には侮蔑的とされて、結局その箇所は、まるごと削除されてしまった。そのような修正が繰り返されるうちに、オリジナルのアリス・カニンガムと、現在のアリス・カニンガムの作品の間には、とても同一作品とは思えないほどの齟齬が生じてしまった」

「それは仕方ないじゃん」とわたしは父に叫んだ。

「だって、三百年も昔の野蛮な思想の垂れ流しを、現代人が読めるわけないじゃん」


 わたしは泣きながら、髪の毛を引き毟った。束になって抜けた髪の先には、血塗れの頭皮が付着していた。

 こんな風にスペース・ピープルも泣いたのだ。

 人類の残虐極まりない歴史を、そしてその当時進行中だった戦争や紛争について、ステイツ大統領の脳を通じて瞬時に学んだ彼らは、山のような体を震わせ、身もだえ、泣きわめき、全身を掻き毟った。今のわたしには、彼らの怒りと悲しみがわかる。この世界の血塗れの歴史は、彼らの倫理観とは相いれなかった。彼らの慟哭の直撃を受けた人類の、実に三分の一が亡くなった。残りの三分の一は耳や目から血を流しながら生き延び、あとの三分の一は、激しめの頭痛を感じた者や、強風に吹かれたとしか感じなかった者など、ほぼ無傷で生存した。国民を苦しめのさばる政治家や、犯罪者、あくどいことをして財を成した資本家などが犠牲者の筆頭で、つまり、いなくなってくれたほうがせいせいする者たちが消えて、最初の大混乱を乗り越えた後のこの星は、格段に暮らしやすく、生きやすくなった。


「無理に読めとは言わないが、そういうのを好んだからといって、別にわるいことではないだろう」

 父の言葉は、わたしを打ちのめした。

「そんな前時代的なヘンタイ趣味」

「お前こそ、地球外生命に感化されすぎだ」

「じゃあ、お父さんは読んだの?」

「いや。父さんは、読書は好きじゃない」

「じゃあなんで変態読書家の肩なんか持つの。今時、人間が書いた小説なんか読みたがるのは一部のヘンタイだけだよ」

「お父さんのお母さん、つまりお前のおばあちゃんは、そのヘンタイだったってことだ」


 父の珍しく真面目な言葉に、わたしははっとなった。

 とりあえず一冊は歯を食いしばって読んでみろ。それでも燃やしたいと思うなら、そうすればいい、と父は言った。それで仕方なく、『お終いの朝に死にゆく』を読み始めた。世の中、特に若い世代ほど、紙の本を馬鹿にする傾向があるため、ひと目を忍んで、祖母宅でのみ。警告のアラームが鳴りっぱなしになるので、読書中はハンニャをシャットダウンしておかなければならなかった。

 しかし、紙の本というのは。

 長編小説としては特段長いというわけでもない文字数の『お終いの朝に死にゆく』一冊読むのに、両手の親指の付け根がはれ上がり、肩より上に腕をあげられなくなった。紙の本を読むのが、こんなに筋肉を酷使する重労働だったとは。


「で、どうだった」と父に訊かれ、わたしはそっけなく答える。

「割と面白かった」

 結論から言えば、そう。驚くべきことに、そうなのだ。

 アリス・カニンガムは、詩人などではなかった。怪奇幻想小説、あるいはホラーと呼ばれるジャンル、今は小さな個人出版社が細々と紡いでいるような零細ジャンルの著作を八十冊以上をものし、テラー・クイーンあるいはイーヴァル・ウィッチなと言われていた作家だった。わたしたちが学校で教わった国民作家A・Cとは、なんとかけ離れた姿か。

 そして彼女のオリジナルの作品ときたら。離島――人種差別的名称を拝した島名で、こればっかりは作中に登場するたびに、黒ペンで塗りつぶさなければならなかった――に隔離された人々が、次々と謎の死を遂げる。実は死んだ者はゾンビとなって生き返り、殺戮を繰り返すのだ。ああ、なんということだろうか。化物の手によって理不尽に人が殺されていくフィクションを、わたしは胸を高鳴らせながら読んだ。親指の付け根がずきずき痛むのに気づいたのは一気に読了した後だった。


「そうかそうか」と嬉しそうに顔を輝かせる父を、正視することができなかった。

「でも、燃やす」


 現代人には刺激が強すぎるのだ。人種差別や性差別が横行し、子供や女性の人権が踏みにじられていた時代を色濃く写し取ったフィクションは、それ自体が害悪だ。そんな野蛮な時代があったことを深く恥じて、そのような記録が後世に残らないよう、そして今後新たにそのような記述が生まれないよう、AIに監視させ、必要な修正を適宜加えている。


「やっぱり、バージョンアップができない本なんて、おかしいよ」


 万物は流転し、大昔に書かれた本も、その時代に即した変化を遂げるべきなのだ。それによって、作者自身が書き記したオリジナルとは、長い時間を経て、かけ離れた内容になってしまったとしても。

 アリス・カニンガムは英国を代表する詩人で、変わりやすい英国の天気をときに抒情的に、あるいは皮肉を込めて、しかし生まれ育った土地への愛情とけれんみたっぷりに歌い上げたことで知られる。代表作「どうして傘が要るの? どうせ濡れるのに」は、英国国歌ナショナル・アンセムで、スペース・ピープルの意向で、国という形態がなくなった今も、それはしぶとく残り続けている。

 口をあんぐりとあけ、がっくりと肩を落とした父には申しわけないが、今から百年後、二百年後のアリス・カニンガムは、一体どんな作家になっているのか、少し楽しみですらある。


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