恋の狩人 ―9―
踊りが止まり、歌が消え、おしゃべりが止んだ。村人は呆然と立ちつくす。
水を打った静けさ。
その中心に居るのは1人の男。
「…………アン……さん」
その存在は荘厳で神々しいまでに美しく、田舎の祭に、王者が舞い降りたかのようだ。
黒を貴重とした騎士の服は、金糸銀糸の精密な刺繍が美しく、高貴なる者が身につける物。その姿にひれ伏してしまいそうだ。
あまりに立派な服装は、村人が着ると、仮装大会のように滑稽になるだろう。
しかしアンは、それを見事に着こなしている。端整な容貌には似合いすぎる。畏怖の念さえ感じてしまう。
――おばあちゃん達、なんて事をしてくれたんだ。
黄金を溶かしたような瞳が真っ直ぐラズに向けられる。
瞬きが出来ない。動けない。金縛りにあったようにその視線を外す事が出来ない。
「ラズ……」
アンはラズの目を見つめたまま優雅に1歩、1歩、若草を踏みしめて足を運ぶ。ラズの前に立ち止まると。マントの揺れが収まる前に、その場に方膝を着いた。優雅にラズの手を取ると、アンは見つめたままだった瞳を伏せた。長い睫が頬に影を落とす。
ラズの思考は止まっていた。村人は固唾を呑み、見守っている。特に3婆姉妹は目を輝かせて、見守っている。
アンはラズの手の甲に、春風のような優しいキスを落としてから、灼熱の炎を宿した視線を向けた。
「ラズ、俺と花餅を食べてくれ」
「………………?」
金の瞳に見つめられ、ラズは意味がわからないまま、操り人形のように頷いた。
と、その瞬間、ラズの体がふわりと宙に浮いた。アンがラズを抱きしめて、くるくる回りだしたのだ。
「ありがとうラズ、一生大切にするからな!」
アンが何を言っているのかさっぱり理解できない。頭が働かないのだ。
――どうして私はアンに抱きしめられているんだろう? そして何故、村人たちはうれしそうに拍手を送ってくれるのだろう? 花餅を食べるだけなのに。
花餅を一緒に食べるのは、家族や友人にとって当たりまえだと思っているラズ、花餅を一緒に食べるのは、求婚を受け入れてくれたと思い込んでいるアン。2人はいったい何時、お互いの勘違いに気づくのだろう。
お祭ムードは一気に加速する。村人が歌や音楽に合わせて大いに踊り、はしゃぎ始めた。
しかし、楽しい時間は長く続かなかった。
「ラズ先生! スーリャが! スーリャが倒れた!」
ダトンの悲痛な叫び声が、村を震撼させた。不安の波が、村人たちに襲いかかり、重苦しい空気に包まれる。
青い空に暗雲が垂れ込める。
* * *
村長の家から出てきたラズを、村人がいっせいに取り囲んだ。
「先生! スーリャは? 赤ちゃんは?」
ラズの顔は真っ青だ。誰とも、目を合わせようとしない。
「……母子共に、危険よ」
村人たちが、一気にざわついた。息を飲むような悲鳴も聞こえる。
「先生、何とかならんのか!」
このままじゃ……。誰も次の言葉を紡げない。
――わかっている。わかっている。そんなこと1番自分がわかっている。歯痒いまでに! 何とかしたい、何とかしなければならない!
「みんな、方法が、ひとつだけあるわ」
ラズの言葉に村人の顔が期待に輝いた。
たったひとつの方法、それはあまりにも時期が悪かった。
「“恋花”が必要よ」
恋花、恋の狩人の餌。そしてそれを守る花守。人間が近づこうものなら八つ裂きにされてしまう。生きて帰る事はできない。
望みを絶たれた村人たちは、力なくふらふらと地面に倒れてしまった。
絶望が支配する中。
「何だ、恋花とやらを取ってくれくればいいだけの話じゃないか」
アンの明朗な声が響いた。
その言葉に村人たちは呆れ返った。
「アンさん、頭どうかしちまっただべか?」
「なぜ、やる前に諦める?」
「無理だべ! 死にたいのか?」
「死ぬ気はない、しかし俺は行く、恋花とやらを採りに」
アンは本気だ。それは村人全員に理解できた。スーリャを助けるために“恋花”が、のどから手が出るほど欲しい。
しかしアンが山に入れば、尊い命がまた1つ、消えるだけだ。
「馬鹿を言うでない。今、山に入るのは死を意味するだべ」
「俺は指を咥えて見過ごす気はサラサラない。何もしないまま後悔だけするのは性に合わない。自分のできる事は、限界まで試したい」
自分のできる事は限界まで試したい。そうか、その通りだ。ラズは拳に力をこめた。
「アンさん、私も一緒に行くわ。地理に詳しいから」
「ラズ先生!」
村人たちが悲鳴をあげる中、アンだけは、さすが俺の女だ、と誇らしげに笑った。
アンはマントを外すとラズの肩に掛けて、耳元で囁く。
「守ってやるよ、必ず」
その言葉は心の中に浸透し、勇気付けられる。
――信じてみよう。彼を。
「先生、オイラも一緒に行くだべ!」
話を聞いていたダトンが、家の中から飛び出してきた。
「馬鹿ね、ダトン。その足じゃ山には登れないわ」
ラズはダトンの義足を指した。
「だどもオイラ、このままじゃ、頭がおかしくなりそうだべ」
「スーリャの側についていてあげてちょうだい。スーリャを勇気付けられるはダトン、貴方だけよ」
ラズはダトンの大きな身体を、家の中に押し戻した。
「先生! オイラは……」
「スーリャには貴方が必要なの。ダトン、貴方はスーリャの側に居なきゃ駄目なのよ」
村長の家の中では、村長と奥方が心配そうに息子、ダトンの決断を見守っている。
ダトンは無言で頷くと、スーリャの寝ている部屋に入っていった。入れ替わるようにユンユがその部屋から出てきた。
「ユンユ、医学の知識のある貴方ならわかるでしょ。私は最後まで足掻く事にしたの。今から山に採取に行くわ」
命を危険にさらしてでも、スーリャと赤ん坊を助ける。
「ラズ先生、僕も行きます」
「ユンユ……。私がいない間、スーリャを看ていて欲しいの」
「嫌だ! もう役立たずは、嫌なんだ!」
ユンユの悲痛な叫び声が、ラズの心をえぐる。
「ユンユ、可愛い私の息子」
ラズはユンユを抱きしめた。ユンユを抱きしめるなんて何年ぶりだろう。
――いつの間に、こんなに大きくなったんだろう。本当に逞しくなったわ。
ユンユはもう子供のやわらかい身体ではない、身長だって、ラズより高い。
「ユンユ、私は貴方を役にたたないなんて思っていないわ。私はユンユのことを誰よりも信じていて、誰よりも頼りに思っているの」
「……ラズ先生」
「お願いユンユ。貴方意外に頼める人がいないの。スーリャの様子を看ていて、私はユンユになら安心して任せられる」
それでも納得のいかない顔をしているユンユに、ケプラが抱きついた。
「先生! ユンユは私が捕まえて、絶対に離しません!!」
ケプラの目に宿る決意に、ラズは力強く頷いた。
「ありがとうケプラ」
「先生、オイラついて行きたいが、この足じゃ足手まといになっちまうべ。だからよ、アンさんにコレ」
村長の家の戸口に現れたククルが投げたモノ。
それはズッシリと重みのある見事な剣だ。一介の農民が持つような剣ではない。いや、農民は剣など持たない。
アンが鞘から剣を抜いた。職人の手によって鍛え上げられた剣身に、アンの炎のような黄金の瞳が移る。
それは軍の隊長格がもつような剣だ。
「アタイからは先生に、コレ」
そう言ってオリスがラズに着せたのは、楔帷子だった。軽くて丈夫なそれは、見たこともない金属で編みこまれていた。
「軽いわ」
「“妖精の紡いだ糸”を使ったものだよ。コレでどんな攻撃を受けても大丈夫さ」
「妖精の紡いだ糸?」
初めて聞いた。繊維のようで金属のような不思議な、手触り。
「昔、アタイが使っていた物なんだけどさ。アタイの命を何度も救ってくれた、きっとラズ先生も助けてくれるよ」
「2人とも……」
ラズは、声を詰まらせた。
「礼なら、帰ってから聞くべ」
ククルが、ニヤリっと笑った。
「こんばんわ~、ラズ先生」
この間延びした挨拶は。
「ナアダ先生」
薄い髪の毛をそよがせ、微笑んでいる、学校の先生。その隣にはぬばたまの黒髪を腰まで伸ばし、白磁のような肌を持つ妖艶な奥方が寄り添っている。50歳になるはずだが、ラズより若く見える。
その奥方が、小さなビンをラズに差し出した。
「これ、持って行きなさい」
「コレは?」
「しびれ薬ですわ」
ナアガ先生の奥方が蠱惑的に微笑んだ。
「風上から使いなさい。人間が浴びると死に至る劇薬よ」
ラズは目を見開いた、劇薬なんて、一般人が持つものではない。医者であるラズも、こんなに小さいビンに入った劇薬を知らない。
――ナアガ先生の奥方はいったい何者?
奥方は妖艶に笑い、人差し指を真っ赤な唇の前に持っていき、秘密。とジェスチャーを送ってきた。
「……わかりました。風上ですね、気をつけて使います」
奥方はナアガの腕に自分の腕を絡ませると、うれしそうに微笑んだ。その横から盲目の老人ヌエが、アルミスに手を引かれて姿を現した。
「ラズ先生」
「ヌエさん」
「この指輪、持って行って。きっと役に立つわ」
差し出されたのは、7つの宝石で出来た3つ目の龍。
「この指輪、どこかで見たことがあるような気がするわ?」
ラズはその指輪をじっと見つめた。その額にヌエの温かくて、皺くちゃな手が添えられた。
「ラズさん、貴方に春の女神の幸があらんことを」
「ありがとう、ヌエさん」
――みんなの気持ちが伝わってくる。なんて力が湧いてくるんだろう。
「ヒョッヒョッヒョッ」
静まり返った部屋に、長老の高笑いが響いた。
「役者がそろったわい、さあ、祭を始めよう」
長老の高らかな宣言に、ラズとアンは、視線を合わせて、力強く頷いた。