水中花の涙 ―30―
ラズはオルマ子爵、ユンユと別れると、全速力で海に向かって走った。
脇腹が痛い。
足が痛い。
心臓が痛い。
汗が目に入って、滲みるように痛い。
肺が、咽が、焼けるようだ。
一日で一生分、とまでは言わないが、こんなに走ったのは初めてだ。
明日は絶対に筋肉痛だ。
明日があれば、だが。
足がもつれて、滑り込むように倒れた。
膝と手の平を擦りむいて、血が滲む。
疲れが足腰に来ている。
三十路手前の体が悲鳴を上げているのだ。
捻挫した足も痛みだしてきた。
それでもラズは起き上がり、走り続けた。
しかし、再び足がもつれる。
体が気持ちについていかない。
今日は一日走り通し。
海にも潜ったため、服が濡れていて重い。
ラズは思い切って上着を脱いだ。
手足は泥だらけ、髪はぼさぼさ、ひどい有様だ。
まるで襲われた女だ。
しかし、形振りにかまっている暇はないのだ。
俯いた顔からポタポタと汗が滴り落ち、地面に染みを作った。
「ハア、ハア、ハア、ハア」
肩で息をする。
――苦しい。
口も咽もカラカラに渇いている。
ラズは唾をゴクンと飲み込むと、まっすぐ前を見据えた。
――海までもう少しだ。
ラズは立ち上がり、自分を叱咤しながら走り出した。
捻挫した足に激痛が走る。
ラズは派手にこけてしまった。
――もう少しなのに!
足が痙攣している。
悔しい、自分の足が思うように動かない。
悔しくてたまらない。
オルマ子爵に啖呵を切ってきたが、結果はこれだ。
情けなくなくて、涙が出そうだ。
いや、泣いている場合じゃない。
汗の出しすぎで、水分不足による痙攣だってありうる。
涙だって大切な水分だ。
ラズはぐっと、涙を堪えた。
風が吹いた。
嘆きの声が、海鳴りのように響く。
人々が逃げ出し、不気味なほど閑散とした町中。
小さな花が、風に揺れる。
この花も咲いては枯れ、種を落としてまた咲くのだろう。
津波が来れば、この花は一生、咲くことがない。
ラズは空に浮かぶ白い月を仰いだ。
その時、閃光がラズを襲った。
* * *
「ユンユ、顔色が悪いわよ、休んだほうがいいんじゃない?」
オルマ子爵と共に神殿跡に避難したユンユは、休む暇もなくケガ人の治療に当たっていた。
青白い顔で治療に当たるユンユを見て、リーザは心配になる。
「大丈夫だよ」
ユンユはケガ人を治療する手を止めようとはしない。
リーザは心配そうに眉をひそめ、狂気と化した海に視線を送った。
オルマ子爵とユンユが神殿跡にたどり着いた時、ラズ、アン、ミチュの姿がなかった。
リーザはあえて何も聞かなかった。
いや、聞けなかったのだ。
神殿跡は、避難してきた人々で騒然としていた。
人々の泣き叫ぶ声に耳を塞ぎたくなる。
打ちひしがれた姿に目を背けたくなる。
沈痛なる絶望の中で、オルマ子爵もユンユも頑張っているのだ。
(私に、何か言えるわけがないじゃない)
リーザは巨大な真珠を抱きしめた。
真っ二つに割れた真珠。
(この真珠さえ無事だったら……)
きつく抱きしめた真珠がほんのり暖かく感じた。
おや、と思い、真珠を見下ろすと、淡く光っているではないか。
「え?」
真珠が鼓動を打つように淡く光っている。
まるで、生きているようだ。
リーザの心にさざなみが立つ。
何かが――人知では計り知れない何かが、起ころうとしている。
「おい、海が!」
ひとつの声が上がった。
それから、どこからともなく人々の驚きの声が上がる。
「おい、アレは何だ!」
「な、何なんだ」
「アレは――」
絶望に打ちひしがれていた人々がどよめき立つ。
異様な雰囲気を感じたリーザは、真珠から視線を引き剥がし、人々を掻き分けて海が見える所まで移動した。
リーザは、海に広がる光景に息を飲んだ。
(私は、幻を見ているのではないだろうか?)
――海の上に浮かび上がる、荘厳な神殿。
「……蜃気楼?」
いや、まさか、津波が起こっている海に蜃気楼が発生するわけがない。
では、アレは、何?
海に浮かび上がる神殿は、えもいわれぬ美しさだ。
真珠色を帯びた壮大な神殿の周りには、海蛍のような瑠璃色の美しい光が乱舞し、滴り落ちる水滴が透明な音を奏で、銀の波紋を作り出している。
神秘的で幽玄なる美しさ。
誰もがその美しさに、心を奪われた。
真珠が海の神殿に共鳴するように光る。
「もしかして――」
リーザは辺りを見渡す。
目的の人物はすぐに見つかった。
「オルマ子爵! この真珠を海に投げ返して」
「リーザちゃん。この真珠光ってない!?」
「この真珠を海に返してあげて!」
共鳴しあう、真珠と神殿。
真珠は本来、海の神殿にあったものだ。
オルマ子爵はリーザと真珠を交互に見つめてから、力強く頷いた。
「わかったわ、オルマ様にお任せ! いっくわよ~」
オルマ子爵はリーザから真珠を受け取ると、砲丸投げのようにその場でぐるん、ぐるんと回ると、遠心力を利用して、うりゃああああ、と真珠を勢いよく放り投げた。
真珠は高く、高く、空へ、キラーンと消えてった。
「…………飛ばし過ぎちゃったかしら」
オルマ子爵は申し訳なさそうに、リーザを見下ろした。
「大丈夫、きっと大丈夫」
リーザは自分自身を励ますように、呟いた。
誰もが固唾を呑んで海を見守る。
風が止み、嘆きの声も止み、海から聞こえていた轟音も聞こえなくなった。
すべての音が止まった。
――静寂。
次の瞬間、白い光がすべてを呑み込んだ。
* * *
――奇跡。
目も眩むような閃光が、町全体を包み込んだ。
それは、一瞬の出来事。
音もなく、色もない。
上も下も、左右さえ分からない、白亜の世界。
(……何が、起こったの?)
さざなみの音が耳に届く。
朝が明けるように、世界が徐々に色を取り戻す。
ラズは閃光で眩む目を擦りながら、海へと足を進めた。
ぽたりと、顔にかかる雨の雫。
いや、違う。
海水だ。
日照り雨のように、青い空から海水が降りしきる。
ラズは海を見つめ、唖然とした。
――津波が消えている。
なぜ、どうして?
あの巨大な津波が消えるなんて。
夢を見ているのだろうか?
ラズは自分の頬をつねってみた。
「……痛い」
夢じゃない。
ラズは放心したように海を見つめた。
宝石の欠片のように、きらきらと海水が降る。
穏やかな海に、七色の虹が架かり、白い小鳥が空を飛ぶ。
平穏で幻想的な風景。
(あの白い小鳥は、アンさんの指輪。そっか、彼がこの奇跡を起こしたのね)
白い小鳥が旋回して、ラズの元へ飛んでくる。
(アンさんの事だから、ミチュを連れて何事もなかったように帰ってくるだろう)
白い小鳥がラズの肩に止まる。
小鳥が笑ったような気がした。
アンもミチュも無事だ。
ラズはそう確信した。
安堵した途端、ラズの体から力が抜ける。
ラズの意識は、暗い深淵に落ちていった。
目が覚めた時、目の前に憂いを帯びたアンの顔があった。
「ラズ、気がついたか?」
「……ここは?」
「オルマ子爵邸だ」
ラズは眼球だけを動かし、辺りを見渡した。
天蓋付きの巨大なベッド。
ろうそくの仄かな明かりがベッドの端に座るアンを照らし出している。
部屋全体は薄暗かった。
「もう、夜なの?」
私はどれくらい気絶してたのだろう? とラズは不安になった。
「ああ」
「ミチュは?」
「無事だ、怪我ひとつない。今はミチュもユンユも泥のように眠っている」
「そっか、皆が無事でよかった」
ラズはほっとため息をつくと、アンに向かってニッコリ微笑んだ。
しかし、アンは眉間にしわを寄せた。
「何故、海に戻って来たんだ」
アンは腹を立ってていた。
ミチュと共に海から上がってみると、ラズが地面に倒れ伏していたのだから。
手足は泥だらけで血が滲み、髪はボサボサ、上着もなくなっており、襲われたような格好だった。
心臓が止まるかと思った。
ぐったりした体。
いくら揺すっても意識が戻らない。
生きた心地がしなかった。
心配はいつしか怒りへと変わった。
ラズ。
無鉄砲なラズ
アンにとって唯一無二の存在。
彼女を失ったら自分は正気ではいられないだろう。
「何故、海に、危険な場所に帰ってきたりするんだ」
ラズは答えない。
ろうそくの燃える音が、静かな部屋に異様に大きく響いた。
「ラズ!」
「もう、待つのは嫌だったの!」
ラズは勢いよく起き上がると、アンの首に腕を回した。
「怖かったの。ミチュを、アンさんを失うのが」
ラズはアンの首筋に顔を埋めた。
アンの匂いがラズの鼻腔をくすぐる。
「……」
アンは無言でラズを抱きしめると、こめかみに口付けを落とした。
こめかみ、まぶた、頬、唇。
ついばむように口付けを落とす。
アンはラズを軽く押して、ベッドの上で覆いかぶさった。
金色の瞳がラズを見下ろす。
「ア、ア、ア、アンさん?」
アンに組み敷かれ、狼狽するラズ。
「次、危険な事をしたら、押し倒すって言ったはずだ」
アンが微笑んだ。
瞳が猛禽類のように光る。
ろうそくの炎に照らされたアンは、いつも以上に色気をかもしだしていた。
アンの唇がラズの唇を捕らえる。
「……ん、んん、……ん?」
ラズの口の内に“何か”が転がった。
アンが口移しで何かを渡したのだ。
ラズは口の内のモノをつまみ出した。
「これって……」
揺らめく炎に淡く照らし出された真珠。
そういえば、この町に来るとき船長が言っていた。
『真珠は、海の神さんの花嫁たちから出来たと言われとるんでさ。だから真珠を身に着けて結婚すると、幸せになれると言い伝えがあって、求婚中の男は、海に潜り、真珠をひとつだけ取って来ることを許されとるんでさ』
「今日は初夜だな」
アンがラズの耳たぶを噛みながら、嬉しそうに言った。
「ちょっ、え? 待って」
まだ返事もしてないし、何より順番が違う。
「待てない」
アンがラズの両手首を掴み、動きを封じた。
アンの唇がラズを翻弄する。
「ラズ……」
アンが大きな手で、ラズの前髪を梳くようにかき上げると、おでことおでこをくっつけて真剣に囁いた。
「……最初は痛いと思う。何故なら、男の、もがっ」
「アンさん!!」
ラズは急いでアンの口を両手で塞いだ。
それ以上先は、言わせないわよ、と言わんばかりだ。
アンは不思議そうに、口元からラズの手を退ける。
「ラズは母親がいないだろ、だからこういう事は誰からも教わっていないはずだ」
アンはラズの手のひらに口付けを落とす。
「ダイレクトに伝えようとしすぎよ。そ、それにね、私は医者よ。何がどうなるかは知ってるわ」
ラズは顔を真っ赤に染めて、反発した。
何も知らない子供のように扱って欲しくなかった。
「医学書の中だけだろ」
アンは悪戯っぽい微笑みを浮かべながら、ラズのこめかみに唇を押し当てた。
「む、村では獣医も兼用していたのよ、種付けだって手伝っていたわ」
「知ってる」
アンは大きな手でラズの頬を包み込み、親指の腹でラズの下唇を撫でる。
「村長の家の子牛は――」
「黙って」
アンの口付けが、ラズの言葉を奪った。
二人の熱い息が溶け合う。
さざ波が子守唄のように、優しく夜の町に降り注ぐ。
夏の夜の夢は、深海に眠る忘却の彼方。




