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水中花の涙 ―29―


鳥たちが姿を消した空。

大量のネズミたちが一斉に逃げまどう。

静まり返った浜辺に、不気味な轟音が響く。

不吉で、異様な光景。


ラズの膝がガクガクと震えた。



――ミチュがまだ海の中にいる!



ミチュを心配する気持ちと、差し迫る津波への恐怖が交錯する。

津波はありとあらゆるものを根こそぎさらってしまう。


(早くミチュを見つけないと)


しかし、この大海原(おおうなばら)の何処を捜し出せばよいのだろう。

ユンユとは違い、時間が経っているため、引き潮によって沖に流されているはずだ。


何か良い方法はないだろか。

ミチュを一刻も早く見つけ出す方法は?


その時、ふとラズの脳裏によぎるモノがあった。


「白い小鳥!!」


ミチュがオルマ子爵未亡人にさらわれた時、アンはいとも簡単にミチュを捜し当てたことがあった。

魔法の指輪の不思議な力。


「アンさん!」


ラズが振り向いた時には、アンの指には白い小鳥が止まっていた。

アンがその事に気づいていない訳がなかったのだ。

ラズは安堵のため息を漏らした。


白い小鳥がアンの指から飛び立つ。

放たれた白い小鳥はまっすぐに海に向かった。

これでミチュはすぐに見つかる。

後は海に飛び込んで、ミチュを救出して、一目散に高台に逃げるまでだ。

ラズがそんな事を考えながら、目を細めて小鳥を見上げていると、アンの鋭い声が飛んだ。


「オルマ!」


「はっ」


名前を呼ばれたオルマ子爵は、瞬く間にユンユを右肩に担ぎ、ラズを左肩に担ぐと、脱兎のごとく走り出した。

ふいを付かれたラズは、あわわわわ、と珍妙な声を上げて、オルマ子爵にしがみついた。

何が起こったのか一瞬わからなかったが、オルマ子爵は海から反対方向に駆け出している。

高台に避難しようとしているのだ。

アンとミチュを残して。


「オルマ子爵、降ろして!!」


ラズは疾走するオルマ子爵に向かって、怒鳴り付けた。

腹ばいに肩に担がれ、太ももをぶっとい筋肉質の腕でがっしり捕まれて、身動きが取れない。

オルマ子爵は2人の人間を担いでいるのにも関わらず、恐ろしいまでの速さで疾走する。


「クリシナ様からの命を受けたのよ、貴女達を避難させろって」


「命令なんてしてないわよ。名前を呼ばれただけだったじゃない」


「私とクリシナ様はツーカーの仲なのよ」


「冗談じゃないわよ」


「あら、妬かない、妬かない。大丈夫よ、クリシナ様はノーマルな方だから」


「そう言う意味じゃなくてっ!」


ラズはオルマ子爵の肩に手をつき、顔を上げた。

海がぐんぐん遠ざかる。


「降ろして、オルマ子爵!」


「駄目よ」


断固たる態度のオルマ子爵は、走るスピードを決して緩めない。


「降ろしてよ!」


海から離れれば離れるほど焦りを感じたラズは、オルマ子爵の背中に拳を振り下ろした。


「今すぐ降ろしなさい!」


ラズは癇癪(かんしゃく)を起こした子供のように、足をじたばたさせて、何度もオルマ子爵の背中を叩いた。

しかし、オルマ子爵の鋼のような強靭な肉体にはラズの拳なんぞ、虫が止まるようなモノだ。


「おーほほほ、痛くも痒くもないわ」


「……それなら!」


ラズは腕を伸ばしてオルマ子爵の脇腹を、コチョコチョとくすぐった。


「ぎゃーははは、何すんのよ! こそばゆい、こそばゆいわ!!」


ラズは笑い転げるオルマ子爵の力が緩んだ隙に、オルマ子爵の肩から飛び降りた。


「ラズ先生!」


オルマ子爵の肩に担がれたままのユンユの青白い顔が、ラズの胸に突き刺ささった。

ユンユは疲労と心労でぐったりしている。


「ラズちゃん! 海に戻ってもクリシナ様の足手まといになるだけよ!!」


痛い所を付かれた。

悔しいが、今のラズには祈る事しか出来ない。

それは、わかっている。

それでも――。


「我がままを言っているのはわかっているの」


ラズは唇を噛み締めた。



“帰ってきたら祝言をあげよう。待っていてくれ”



そう言って戦場に旅立った、ブラフ。

ラズは笑顔で送り出した。

それが、彼の最期の言葉になるとは思いもよらなかった。



ブラフを待ち続けた日々。

さよならも、愛しているも伝えることが出来なかった。

どれほど後悔しただろう。

長く続いた日々は、アンの登場によって、ようやく終止符を打つことが出来た。


再び同じ想いはしたくない。



――待つのはもう嫌だ。



今は亡き婚約者を待ち続け日々は、ラズを無鉄砲な性格にするには充分な年月だった。

自分が動いていないと気が休まらない。

待つくらいなら、どんな危険なところでも行ってしまう。


「ゴメン。オルマ子爵、ユンユ」


ラズはうなだれて謝った。

それは、2人の制止を振り切ってでも海に戻るという、頑固な意思でもある。


「駄目よ、危険だわ。わかっているの? 津波がくるのよ! クリシナ様が――」


「オルマ子爵。ラズ先生を行かせてあげて下さい」


オルマ子爵の言葉をさえぎったのは、意外にもユンユだった。


「ユンユ!」

「ユンユちゃん!」


ラズとオルマ子爵は同時に驚きの声を上げた。


「行って下さい。ラズ先生」


「……ユンユ」


「早く!!」


ユンユが鋭く叫んだ。

大声を上げるのさえ辛そうだ。

ラズはユンユに駆け寄りたい気持ちをぐっと抑えた。


「あ、ありがとう!!」


ラズはユンユに叫ぶと、踵を返して海に向かって走り出した。


「どうしてよ、ユンユちゃん。海は危険なのよ!! 津波が迫っている所にわざわざ行くなんて愚かな行為じゃない! ラズちゃんはユンユちゃんにとって大切な人なんでしょ!」


「海にはアンさんがいるから、だから」


そう言ったユンユは何処か寂しそうに笑った。


「だから?」


「……だから、大丈夫。信じているんです。アンさんを」


「彼が“英雄クリシナ”だから?」


英雄像を、神格化までされた英雄クリシナ。


「アンさん自身を信じているんです。ラズ先生にぞっこんのアンさんなら、何が何でもラズ先生とミチュを救ってくれます」


「……英雄じゃなくて“彼自身”を信じているのね」


「はい、悔しいけどアンさんしかラズ先生を信じて託せる相手はいないんです」


英雄としての偶像は本当の彼自身ではない。

ユンユやラズは“アン”という彼自身を、信頼しているのだ。

地位や財産を持った者にとって、それがどれだけ嬉しい事か、ユンユやラズにはわかるまい。


(まったく。クリシナ様がこうもラズちゃんに惚れ込むのが少し分かる気がするわ)


「信じて待ちましょう。それにオルマ子爵はするべき事があるでしょ」


「するべき事?」


何かしら? とオルマ子爵が聞き返した。


「今、恐怖におちいっている町の人々を励まして支えられるのはオルマ子爵だけです」


「――!!」



“今、貴方が居るべき所は家族の元よ! 家族がどれだけ心細い思いをしているか、家族思いの貴方なら分かるでしょ”



自分の言葉が自分自身に返ってきた。

オルマ子爵は目を丸くしてユンユを見た。


濡れそぼり、青白い顔。

海に向かったラズ。

海に残ったアン。

海に投げ込まれたミチュ。

刻々と迫り来る津波。

心配で堪らないだろう。

自分自身も死の淵をさ迷った。

それでもユンユは、町の人々の事、オルマ子爵の事を考えている。

今出来る最良の事を模索している。


「……まったく、貴女って子は」


オルマ子爵は小さく嘆息しながら呟いた。


「何か言いましたか?」


「いいえ。さあ! 神殿跡に急ぎましょう。あそこにはリーザちゃんもいるわ」


「はい」


オルマ子爵はユンユを腕に担ぎ直すと、全力疾走で神殿跡に向かった。

お姫様抱っこをされたユンユは至極不満顔だった。



* * *



時は少しさかのぼる。


海に投げ飛ばされたミチュは、最近オルマ子爵邸の巨大な温泉で習得したばかりの“犬かき泳ぎ”で浜辺に向かって泳いでいた。

しかし、小さな体は潮に引っ張られ、沖に沖にと流されてしまう。


どうにもならないもどかしさで、ミチュは泳ぎながらえぐえぐ泣きじゃくり出してしまった。

止めどなくこぼれ落ちる塩っ辛い涙が、しょっぱい海に混ざり合う。


泳いでも、泳いでも遠ざかる陸地。

涙で視界が曇る。

水分を含んだ服が体に纏わり付き、手足は疲れ、鉛のように重く感じられた。

波が何度も顔にかかる。



――疲れた。



ミチュの手足は、もう泳ぐ力がなくなっていた。

チャポン、と小さな音を立ててミチュの体が海の中に消えた。

ミチュの小さな体は静かに海底に沈んでいく。

閉じた目の端から真珠のような涙をこぼしながら……。



『……我を呼んだのは、そなたか』


朦朧(もうろう)とする意識のなか、朗々たる声が聞こえた。

それは頭に直接響いてくる、不思議な声だ。


(だれ?)


夢か(うつつ)か。

ミチュは微かに目を開けた。


『我を呼んだのは、そなたか』


声が再び頭に響く。


(呼んでないよ)


ミチュの目の前にいたのは、全長5メートルはありそうな。



――巨大な白いサメ。



誰もこんな狂暴そうで巨大なサメを呼んでいない。

逆にお引き取り願いたいくらいだ。


『我は“主”を見つけた』


(うん?)


あるじって何?

ご飯の名前?

食べられるの?

美味しいの?

食いしん坊なミチュはなんでも食事に結び付けて考えてしまう傾向があった。


『我は、気の遠くなるほど遥か昔から、この深海でそなたを待ち続けた』


(お魚さんをたべるのはスキ)


でも、食べられるのは嫌だ。


『そなたの名は?』


(……ミチュを食べても美味しくないよ)


『我の名は?』


知らない、と答えようと思った。

しかし、ミチュの脳裏に自然と浮かび上がる“名前”があった。

ミチュは手を伸ばすとサメに軽く触れた。

ザラザラとした肌触り。

サメはゆっくりとミチュに擦り寄ってきた。


怖くない。

むしろ安心感に包まれる。ミチュはニッコリと微笑んだ。



(君の名前は――)



――海神(わだつみ)



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