水中花の涙 ―27―
美と芸術の都は、我先にと逃げ惑う者や、無心に神に祈りを捧げる者、泣き叫ぶ者、諦めてしまう者、この隙に乗じて悪事を働く者、乱闘騒ぎ、と無法地帯と化していた。
雷に続き神殿が崩壊、そして地震と津波。
町の人々が、神の怒りだと恐れているのも無理は無い。
恐慌状態に陥った人々は、神の怒りを納めてもらおうと、崩壊した神殿跡に集まり始めていた。
ラズは神殿跡に向かう人々を見て、脳裏にかすめる物があった。
――まさかっ!
海に向かっていたラズの足が止まる。
「どうかしたか?」
「アンさん! リーザの言っていた、エルフ族は満潮、干潮を自在に操る魔法って、もしかして神殿のご神体かもしれない」
神殿の地下に隠されるように祭られていた、大きな真珠。
花珠だけに代々語り継がれる神話。
生贄にされた恋人を助けた男は、神殿から大きな真珠をひとつ持ち帰った。
それ以来、海は荒れることが無くなったそうだが。
考えれば考えるほど、その真珠がラズたちの求めるものだ。
今、海底神殿に行っても、意味が無いのかもしれない。
しかし――。
(海? 神殿跡? どっちに行ったらいいの?)
津波が刻々と迫っている。
時間が無い。
気持ちがせくばかりで、頭が働かない。
「ラズ、神殿跡に行こう」
「アンさん!」
ラズはアンの言葉に大きく頷くと、神殿跡に進路を変更した。
――時間が欲しい。
そう、切に願いながら。
* * *
「何事ですか!?」
ロサの火傷の治療を続けていたユンユは、外の尋常ならざる騒ぎに気が散っていた。
町の人々が子爵邸に押し寄せてきているのだ。
「花珠様を出せと、人々が押し寄せてきているの」
ミチュを抱いたリーザが言った。
顔は恐怖に青ざめている。
「どうしよう」
リーザは脅えながら、窓から外を見下ろした。
町の人々が“花珠様を出せ”と子爵邸に大挙して押し寄せて来ていた。
オルマ子爵も兵士たちもいない。
この部屋まで来るのに、そう時間はかからないだろう。
「ここには“花珠様”はいないのに……」
いるのはロサだ。
リーザはミチュをギュッと抱きしめた。
血眼で花珠様を探す人々が恐ろしい。
花珠様がいないと知れたら、興奮した彼らを押さえつける手立てはない。
リーザはユンユと視線を合わせた。
ユンユは無理だと言わんばかりに、首を横に振る。
ロサはまだ動かせるような状態ではない。
退路は絶たれた。
「畜生っ」
ユンユが小さく毒ついた。
次の瞬間、扉が大きな音をたてて蹴破られた。
壊れた扉から、いきり立つ男たちが雪崩れ込んでくる。
「花珠様は何処だ!!」
「そんな人はいません」
ユンユが素早くリーザとミチュを背中に庇った。
「嘘を付くな!!」
「本当です。花珠様はいません」
「子爵邸に花珠様が運ばれたとういう、確かな情報があるんだ」
「だったら好きなだけ探せばいい。しかし、探すだけ無駄ですよ、それより早く避難した方が懸命です」
「いや、花珠様を海の神に奉納するんだ、そしたら神の怒りが収まるはずだ!」
この男たちは、花珠様を見つけて海に放り込むつもりだ。
ユンユには男たちの考えが理解できなかった。
女性をひとり海に沈めたところで、津波が収まるはずはない。
「正気の沙汰じゃない」
ユンユは男たちの血走った眼を見て、足がすくんだ。
彼らは恐怖で、おかしくなってしまっている。
追い詰められた人間は何をしでかすか分からない。
(どうやってこの危機を脱しよう? 僕ひとりでは、ミチュ、リーザ、ロサの3人を守りきる事ができない)
ユンユが考えあぐねいていると、部屋の奥から、うめき声が聞こえた。
「……わたくしは、ここに、います」
部屋の奥で横になっていたロサが、痛む体に鞭を撃ち、何とか上半身を起こした。
その焼けただれた顔に、男たちが一瞬怯む。
「“花珠”は、わたくしです。この子達は、なんの関係もない、子供たち、です。危害を、加えないで」
ロサが痛みと戦い、肩で息をしながら紡ぐ言葉は、ユンユたちを守るためのモノだった。
「何が“花珠”だ! お前のような醜い女など奉納したら、海の神がさらにお怒りにな――痛っ!!」
暴言を吐く男が、突然飛び上がった。
なぜなら、男のむこうずねをミチュが思いっきり噛んでいたからだ。
「ミチュ!」
「痛たたた! 離せこの餓鬼!」
男はミチュのうなじを掴むと、子猫のように引き離した。
それでもミチュは、男の顔をバリバリと引っ掻く。
男は堪らず、ミチュを放り投げた。
「なんだ、この餓鬼は」
ミチュは全身の毛を逆立てて、男を威嚇する。
これが孤高の獣“花守”の時の姿だったら、男たちも恐怖に身をすくめただろう。
しかし今は、か弱い稚児だ。
しかも、絶世の美少女。
男たちが、そこに目がいかない訳がない。
「“花珠様”がいないのなら、この餓鬼でもいい。ちと幼すぎるが、これ以上の美貌はこの町にはいないだろう。この餓鬼を捕まえろ」
男の言葉に、ユンユの血の気が引いた。
花珠様の代わり、という事はミチュを海に沈めるつもりなのだ。
「させるか!」
ユンユが男に飛びかかる。
しかし、多勢に無勢、ユンユは投げ飛ばされ、ミチュはあっという間に男たちに連れ去られてしまった。
「大変だ、ミチュが海に放り込まれてしまう! リーザは神殿跡に向かったオルマ子爵にこの事を伝えて、僕はミチュを追いかける!!」
「わかったわ」
ユンユはミチュを追いかけて海に、リーザはオルマ子爵に会いに神殿跡に、それぞれ全力で駆け出していた。
* * *
ラズとアンは神殿跡に到着していた。
信仰の象徴を失った人々の打ちひしがれた泣き声が、悲痛に響きわたる神殿跡は、胸をえぐられるような悲壮感が漂っている。
「どうやって地下に入ったらいいのかしら?」
瓦礫が散乱する神殿跡。
地下は陥没して、見る影すらない。
真珠を探し出すには、瓦礫を撤去する作業が必要だ。
時間が迫る。
絶望的な状況だ。
(早く、瓦礫を退かさないと)
焦慮するラズの耳に、悲壮感にそぐわない素っ頓狂な声が聞こえた。
「ちょっと、ちょっと、あんた達、何でこんな所にいるのよ、海に向かったんじゃなかったの!?」
神殿跡で民衆の混乱を抑えていたオルマ子爵は、ここにいるはずのないラズとアンを見つけ、驚きの声をあげ、駆け寄っていった。
「オルマ子爵! リーザの言っていたエルフの遺物は、きっと神殿の地下洞窟にあります」
「地下洞窟!? 神殿に地下洞窟があるですって? 初めて聞くわ」
「私はさっきまで、その地下洞窟に囚われていたんです。そこにあったのが巨大な真珠。それは“花珠”が代々守り続けていた神殿のご神体。おそらくその真珠がリーザの言っていたモノです」
「神殿にそんな秘密があっただなんて……。神官たちにいろいろ問いただしたい事があるけど、時間が無いわ。今はそのご神体という真珠を見つけましょう。コレだけ瓦礫が散乱しているんですもの、早く取り掛かったほうがいいわ。よっしゃ、ここは漢を見せましょう。いっちょやったるわよ!」
オルマ子爵が腕まくりをしていると、アンの落ち着いた声がラズに掛けられた。
「ラズ、どこら辺に真珠があったか覚えていないか」
アンは腰に差してある剣に手を掛けている。
「えっと、私が這い出してきたのはあの辺りだったから……」
ラズは巨大な柱が横倒しになっている所を指差した。
「あの下だと思うわ」
「分かった」
アンがそうひと言いうと、剣が煌き、空をなぎ払う。
それは瞬く間の出来事だった。
巨大な瓦礫が真っ二つに割れ、地下洞窟に続く道が見えたのだ。
「…………」
ラズは人間離れしたアンの技に、言葉を無くし呆然とするしかなかった。
(まさか、この神殿壊したのって……)
ラズはアンの狂乱的な暴走を知らない。
神殿の地下洞窟から這い上がってみたら、神殿が崩壊していたのだ。
そして、誰も何が起こったか教えてくれなかった。
ラズは横目で、穏やかなアンを見た。
(……まさか、ね)
そんなラズを横目にアンは、地下洞窟に降りる。
地下の洞窟は、鍾乳石が折れ、落石が洞窟を塞いでいた。
その鍾乳洞の間に挟まれるようにして、何かが光った。
アンが屈んで、それを拾う。
「ラズ、コレか?」
アンが地下洞窟から持ってきた物。
それは、見事に真っ二つに割れた真珠だった。
美と芸術の都を静かに守り続けた真珠。
神殿の崩壊と共に、壊れてしまった。
それは、美と芸術の都の崩壊に繋がった。
「もしかして、この真珠が割れたから、津波が来るんじゃ……」
長年、魔法の力で押さえつけられていた自然の猛威が、一気に町に襲い掛かる。
そう考えるだけで、ラズは寒気を覚えた。
きっと、この美しい町は跡形もなく消え去る。
塩害で、この先何年もこの大地には住めなくなるだろう。
難民、貧困、飢餓、病気の蔓延。
そら恐ろしい未来がラズの脳裏に浮ぶ。
この真珠が、最後の頼みの綱だった。
しかし、その真珠が、この津波を引き起こす原因だったのだ。
津波がこの町まで到達するのに、もう時間がない。
その時、遠くから、オルマ子爵を呼ぶ声が聞こえてきた。
「オルマ子爵ー! オルマ子爵大変です!! あれ、どうしてラズさんたちいるんですか? あっ、その真珠って、もしかしてエルフの遺物? でも、どうして割れているんですか?」
神殿跡に急ぎ遣って来たリーザは、ラズたちがいるのを見て驚き、矢継ぎ早に質問する。
冷静そうに見えるリーザだが、どうやらパニックに陥っている様だ。
「リーザ、落ち着きなさい! それで、何が大変なの? ユンユちゃんに何かあったの?」
オルマ子爵が、まずはリーザを落ち着かせようよするものの、オルマ子爵自身にも焦りが見える。
「お城に大勢の人が来て、ミチュちゃんを連れて行ったの」
「ミチュを!?」
ラズがギョッとした。
ロサに何かあったのかと訝しがっていたのだが、まさかミチュの名前が出てくるとは思ってもいなかったのだ。
「神の怒りを鎮めるため、ミチュちゃんを生贄に海に放り込むって言っていたわ」
「そんな!」
ラズは考えるより先に、海に向かって走っていた。
* * *
海岸では狂信者たちが、ミチュを囲んで儀式の真っ最中だった。
男がミチュを抱え上げ、海に放り込もうとしている。
「止めろ!! ミチュを離せ!」
ユンユがミチュを取り返そうとしても、男たちに遮られてしまう。
「子供ひとり海に沈めて、津波が収まるわけないだろ!!」
「黙れ、娘よ、お前も生贄にされたいのか!」
「僕は男だ!」
「助かりたいからといって、そのようなうつけを」
「くそ!」
女装したままのユンユが何を言っても通じないだろう。
いや、女装しているからこそ出来る事がある。
ミチュの代わりを申し出るのだ。
ユンユはカナヅチだから、海に放り込まれたら一大事。
その前にミチュを助けて、逃げださなければならない。
ミチュを渡してもらう瞬間。
そこがチャンスだ。
ユンユはいつも携帯している短刀に、そっと手を伸ばす。
「まって下さい。僕が、じゃなくて、私が生贄になる。だから、その子を、ミチュを離してやってください」
「お前がこの子供の代わりに生贄になるというのか? お前は穢れを知らぬ生娘か?」
「はい。ぼ、私はまだ男性を知りません」
ユンユは恥ずかしそうに、しかし、高らかに宣言する。
その顔は真っ赤だ。
「ほう、良く見たらなかなかの別嬪さんだ」
(僕、この町から無事に去ることが出来たら、沢山食べて、筋トレして、絶対男らしくなってやる!)
ユンユは心の中でそう誓いながら、男を睨んだ。
「……だから、ミチュを渡してください」
ユンユは、男に見えないように短剣を握った。
男はユンユの事を女性だと勘違いしている。
そこに生れる油断に付け込めば、なんとか逃げられるかもしれない。
チャンスは一度っきり。
手が汗ばむのを感じる。
「……わかった、では子供を渡そう」
ユンユの喉仏がごくりと動く。
汗が顎を伝う。
男がゆっくりとミチュを地面に離した瞬間。
ユンユが足を一歩踏み出す。
ミチュが男の手にガブリと噛み付く。
「ぎゃっ! 痛たたたた、離せこのクソ餓鬼!」
「ミチュ!!」
ミチュを助けようとした計画は、お転婆娘、ミチュの手によって脆くも崩れさった。
「このクソ飢餓が!」
男が悪態をつきながら、ミチュを思いっきり海に投げ飛ばした。
「ミチューー!!」
ミチュは空中でグルグルまわり、水飛沫を上げで海に落ちた。
「大変だ、早く助けなきゃ。泳げないとか言っている暇じゃないぞ」
ユンユがミチュを助けるため、海に飛び込もうとすると、後ろから男に殴り倒された。
「この小娘の手足を縛れ!」
「何をする、離せ!」
男が命礼を下すと、ユンユの手足はあっという間に縄で縛られた。
「さあ、この小娘も海の神に捧げろ」
「海の神よ、お受け取り下さい。そしてお怒りをお鎮め下さい」
「お怒りを鎮め下さい!!」
「海の神よ、鎮まりたまえ」
「鎮まりたえ!!」
ユンユは悔しさで、歯噛みした。
手足が出ないとはまさにこの事だ。
ミチュを助けるどころか、自分自身まで危険な状況だ。
「離せ!!」
「海の神よ、お受け取り下さい」
男たちがユンユを抱え上げると、海に放り込んだ。
水飛沫と共に、ユンユの体が海に沈む。
(息が、苦しい)
ユンユの意識はもがけばもがくほど、海の底へ沈んでいった。