水中花の涙 ―26―
焼けただれた顔。
重度の火傷を負った手足は、水ぶくれになっており、酷く痛そうだ。
一命は取り留めたものの、その傷は一生残るだろう。
絶世の美貌を誇った花珠様は、見る影もなくなっていた。
しかし、命が助かっただけで奇跡なのだ。
大地震の後、ラズたちは花珠様を子爵邸に緊急搬送した。
感染や汚染が何より怖い熱傷。
出来るだけ清潔な環境が必要なのだ。
子爵邸で待機していたリーザは慌しく帰還したラズたちを見て、目を丸くする。
「ラズさん、何事です!?」
「ユンユとアンさんは清潔な水を持ってきて欲しいの。それから、リーザ、おねがい手伝って! 皮膚が剥がれる可能性があるから、服は脱がさないでちょうだい、そのまま服の上から水をかけて、土や汚れは奇麗に落として。水泡を破らないようにそっと扱って」
オルマ子爵はすでに、大地震後の対応に走り回っている。
今は猫の手を借りたいほどの忙しさだ。
リーザは焼け爛れた花珠様の顔を見て、鋭く息を飲んだ。
恐怖に顔が引きつる。
無理も無いだろう。
しかし、彼女は気丈にも勇気を奮い立たせ、治療を手伝いはじめた。
花珠様は痛みに顔を引きつられている。
治療がひと段落着いた頃、リーザが花珠様の顔をまじまじと見つめ、驚愕に目を見開く。
「……まさか」
「どうしたの、リーザ。何か気になる事でも?」
ラズは気になって、リーザと一緒に花珠様の顔を覗き込んだ。
「この顔は、ロサ先生……」
「え?」
リーザの呟きに、ラズは耳を疑った。
「この顔、間違いありません。ロサ先生です!!」
「どういう事?」
「この方は花珠様なんかじゃありません、ロサ先生です!」
ユンユの女装を一発で見破ったリーザが言うのだから、間違いないだろう。
リーザの記憶力は、ずば抜けている。
「…………花珠様は、“ロサ”だったの」
ラズの頭に、驚愕の真実がゆっくりと浸透していく。
――花珠様とロサが同一人物。
でも、どうして?
どうやって、ロサは美貌の花珠様になる事が出来た?
成人したヒトの顔が、劇的に変貌するなど考えられない。
平凡な顔が、半年足らず前の顔が分からないほど美しく変わることは、ありえない事だ。
「……リー、ザ」
がらがらに擦れた、か細い声が聞こえた。
「ロサ先生!!」
リーザがすぐに花珠様に返事を返した。
花珠様を“ロサ先生”と呼んで。
「……リーザ、なの」
「はい、リーザです。ロサ先生!」
リーザの目から涙が零れ落ちる。
それを見たロサは、苦しそうに顔をしかめた。
残酷で、悲しい再会だ。
ラズは呆然と、悲しみにくれる2人を見守っていた。
「ロサ、本当にロサなの……」
花珠様はラズを見つめ、ゆっくり頷いた。
花珠様は認めたのだ。
自分が“ロサ”だと。
ラズたちがずっと探していたロサは、ずっと目の前に居たのだ。
花珠様、否、ロサは疲れたように瞼を閉じると、過去を思い出していた。
揺らめく瑠璃色の海に、満月が写りこむ。
ひとりの女性が身を乗り出して、水面を見つめている。
涙がひと雫、その目から零れ落ち、月光に輝きながら、海の中に落ちた。
涙は波紋を作り、水面に写る女性の姿を泡沫の如く消しさった。
あれは満月の夜。
私は海のふもとで泣いていた。
ずっと片想いだったサディ様が、私の肖像画を描きたいと申し込んできてくれた。
サディ様は美人画の巨匠。
そんな彼が私なんかを無償で描きたい、わざわざ頭を下げてくださった。
信じられない。
私は飛び上がらんばかりに嬉しかった。
もしかしたら、サディ様も私のことを少なからず想ってくださっているのでは?
そんな期待に心が弾む。
しかし、それを打ち砕いたのが学院長の言葉だった。
『貴女のような、醜女を誰が相手にします。古今東西、選ばれる女は美女と決まっています』
いつもの女性の美醜についての論争だった。
けれど、この日、この言葉は、私の心をズタズタにした。
涙が零れ落ちる。
どうして私は母のように美しく生れなかったの?
『お嬢さん、どうされた?』
しわがれた老婆の声。
そこには海から這い上がってきたような恰好の老婆が居た。
『美しくなりたいのかい?』
老婆が私の心を読んだように問う。
『美しくなって、恋をして幸せになりたいのかい?』
私は頷いた。
悲しみでいっぱいだった私の頭には、美青年のサディ様とつりあう様な美女になりたい、その思いしか無かった。
サディ様が見惚れるような、そんな女になりたい。
老婆は優しく笑うと、浜辺に打ち上げられている大きな貝を指差した。
『あれは海底遺跡から持ち帰った魔法道具の真珠母貝。小さな石が、真珠母貝に包まれ、美しい真珠に変わるように、お嬢さんも美しくなれるぞ』
真珠とは、真珠母貝に異物が入り、貝がその異物を無害にしようと、貝と同じ成分の真珠層で包んで生まれてくる美しい生きた宝石。
それが人間でも、出来るというの?
嘘みたいな話だ。
それでも私は、一縷の望みを老婆に賭けてみた。
こうして、私は大きな真珠母貝の中に入り、美しい女性へと生まれ変わったのだった。
ただの醜い小石が、真珠へと変わった瞬間だ。
** *
「……私は恋に目が眩んで、愚かなことをしてしまった」
ロサのこめかみに涙が伝い落ちる。
塩っ辛い涙が、火傷でただれた顔に激しい痛みをもたらす。
「……ロサ」
ラズは慰める言葉が見つからなかった。
(私だってそうだ、アンさんに愛されていても、それがどうしても信じられない。……自分自身に自信がないから)
サディはロサを愛していたのだ。
しかし、ロサは自分に自信が持てず、猜疑心に苦しみ、愚かな行為に走ってしまった。
“美しくなりたい”という気持ちは誰の心の中にもある。
いつまでも若くありたい、いつまでも健康でいたい、人の欲求は尽きる事がない。
それ自体は、悪い事ではない。
人類が欲求を追及して、より良い生活、医療の進展、と文化が発展していく。
しかしロサは、美を追いかけるあまり、美に溺れ、己を見失ってしまったのだ。
その結果は、地位も名誉も友も失ったのだ。
そう、ロサが失ったモノは、あまりにも大きい。
部屋が静まり返る。
誰も、何も言えない。
沈痛な空気が張り詰める。
「たいたい?」
痛いほどの空気を破ったのは、甲高い子供の声だった。
ミチュが愛らしい顔を、扉から覗かせている。
部屋に入ってくるのは、遠慮しているようだ。
「ミチュ!」
ラズは忙しさのあまり、すっかりミチュの事を忘れていた。
ミチュは大人たちがバタバタしている間、大人しく待っていてくれたのだ。
いつも元気溌剌なミチュが、ひとりでちょこんと座って居たかと思うと、申し訳ない気分になる。
ラズがミチュに笑いかけると、ミチュは嬉しそうにラズに駆け寄り、ラズの手をギュッと握った。
それからロサを指差して。
「たいたい?」
と、訊いた。
「そうよ、火傷はとっても痛いの」
ミチュは、分かった、というように大きく頷くと、ロサのベッドの脇に立った。
「たいの、たいの、とんでけ~」
ミチュが舌足らずの可愛い声で、呪文を唱える。
「たいの、たいの、とんでけ~」
「もしかして、痛いの、痛いの、飛んで行け?」
ロサがおずおずと聞くと、ミチュはにっこり笑った。
「そうだよ。いたいの、いたいの、とんでけ~」
ロサの目から、暖かいが涙が零れ落ちた。
焼けた顔にかかる涙は痛いけど、それ以上に心が温まる。
人から受ける、ちょっとした善意がコレほどまでに心を揺さぶったのは久方ぶりだ。
無垢な優しさが胸に溢れ、心が満たされる。
嬉しさに咽びかえるロサは、ミチュに何度も感謝の気持ちを伝えた。
「ホ~ント、頭でっかちの女って、恋するのが下手よね。恋は頭でするんじゃないの、心でするものなのよ」
そう言って、部屋に入ってきたのはオルマ子爵だった。
先ほど別れた時と、幾分も変わらない恰好だ。
肩の傷の血は止まっているようだが、早く包帯を巻いたほうがいい。
「オルマ子爵、肩の――」
「それは後よ。さて皆さん、急いで避難してちょうだい」
「避難?」
「津波が来るわ」
* * *
――津波が来る。
オルマ子爵がその知らせを聞いたのは、ほんの数刻前。
オルマ子爵は津波の経験は無いものの、文献で知る限り、多大な被害が予想させる。
町全土を多い尽くすような、大きな津波。
町の人間が全員逃げるには時間はない。
命が助かったとしても、町は壊滅。
財産、歴史的建築物、漁業、畜産物、開墾地、長く積み上げてきた物が全て飲み込まれる。
しかし、嘆いている暇などない。
命あっての物種だ。
「すぐに町の人間に避難するように勧告を出しなさい」
「はっ」
「兵士を総動員して、パニックにならないように迅速かつ的確に避難ルートを確保して」
「はっ」
「母上にも、すぐに避難するように通達してちょうだい」
「はっ」
「さあ、のんびりしている暇は無いわ、すぐに行動して!」
「はっ」
オルマ子爵は、窓から見える浜辺を睨んだ。
ぞっとした。
今までに見た事のない引き潮だ。
普段は沖に浮ぶ船の船底が見え、逃げ遅れた魚たちが、地面で苦しそうに跳ねている。
それは、異様な光景だった。
――とんでもない事が起こる。
オルマ子爵は湧き上がる恐怖を抑え、自分のすべき事に目を向け、歩き出した。
間に合わないかもしれない。
自然の猛威の前では人間は無力。
それでも。
――ひとつでも、命を助けたい。
* * *
「津波ですって!?」
ラズは素っ頓狂な声がでた。
海の近くで育ったラズにとって、津波の恐ろしさは身に染みて分かっている。
「そうよ、だから出来るだけ高いところに逃げるのよ」
「でも……」
ラズは、ベッドに横たわるロサを見る。
サディも未だに意識が戻らない。
地下には老婆がいる。
この町には、ロサやサディのような動けない病人や、機敏に動けない老人が数多くいる。
「グズグズしている暇はないわ。命が惜しいなら身ひとつで逃げなさい」
早く逃げなければ、命が無い。
それは分かっていても、ロサを目の前に足が動かない。
出来る事ならロサを動かしたくない。
重度の火傷を負ったロサは、絶対安静なのだから。
何か方法は無いだろうか?
「……もう、む、無理だわ、間に合わない」
ラズが考えあぐねいていると、リーザの虚ろな声が聞こえた。
「間に合わないじゃなくて、間に合わすのよ」
オルマ子爵は、あくまで前向きな姿勢を崩さない。
しかし、リーザは窓の外を指差す。
ソコには、水平線にあわ立つ白い波。
津波だ。
あと30分も無い。
逃げ切れない。
「それでも、逃げるのよ! 希望を捨てるようなこと言わないで」
「オルマ子爵、他に方法は無いかしら」
「無いわよ。あったらとっくにしているわ!」
ラズの問いに、完膚なきまでの答が返ってきた。
「待って下さい。ひとつだけ方法があるかもしれないわ」
リーザの言葉に、誰もが驚き、希望を見出した。
全員に期待の眼差しを向けられたリーザは、しどろもどろになりながら喋りだした。
「あ、あの、現実味のないお話で、期待は出来ないのだけど……」
「時間が無いのよ。早く要点を言いなさい、小娘!」
「確かな事ではないのだけど――」
* * *
ラズとアンは海に向かっていた。
津波が来るというのに、海に向かうのは自殺行為だ。
リーザが言うには、昔エルフ族は満潮、干潮を自在に操る魔法を使っていたという。
リーザは卒論のテーマに、海底にあるという遺跡を調べていた。
海底神殿は昔話に語り継がれるだけの話だったが、リーザは独自にエルフ語を翻訳して、海底神殿の事を徹底的に調べていたのだ。
海底神殿。
そこに、町を救う鍵がある。
こうなったら、一か八か海底神殿に行くしかない。
「ラズ!」
ラズの案に、まず反対したのは、もちろんアンだった。
「危険だ。このまま逃げよう」
「駄目よ。逃げてもどうせ、津波に追いつかれる。だったら立ち向かう方がいいわ」
「ラズ、約束したはずだ。自分から危険なことに顔を突っ込まないと」
「そうだったわね、覚えているわ。約束を破れば……」
押し倒す。
金色に煌くアンの瞳は、有言実行を意味している。
一度アンに身を任せれば、もう彼から離れられない。
傷つくかもしれない。
王族の直系であるアンは、いずれ国王になり、その隣には王妃が座るだろう。
ラズは自分が王妃になれるとは思っていない。
王妃となるには、身分が必要だ。
側室になりたいとも思わない。
しかし、ラズは心に決めていた。
もう迷わない。
そう、恋は心でする物だ。
――私の心は叫んでいる。
「アンさん、貴方の側に居させて」
何時まで側に居られるかは分からない。
アンがラズに飽きるまでか、それともアンが他の人と結婚するまでか。
いずれ別れはやってくるだろう。
それまで、側に居させて欲しい。
思い出が欲しい。
「…………ラズ」
感極まったアンが、ラズを抱きしめようとしたが、ラズはそれを拒否した。
アンの顔を、手をめいっぱいに伸ばして、遠ざける。
アンの口付けが始まれば、最後まで行きそうな勢いだ。
「だ、駄目よ、今は」
「何時ならいいんだ?」
まるで、“おあずけ”を食らった犬のような表情のアン。
ラズの顔が引きつる。
いくら心を決めたからといっても、こう周りに人が居る時に、何時かを決めろと?
顔が赤くなるのを感じる。
「取り敢えず、海底神殿から帰ってから――」
決めるわ。
ラズは言葉を濁した。
「帰ってからならいいんだな」
アンがニヤリと笑う。
その顔は嬉しくてたまらないといった表情だ。
ラズも軽率な事を言ってしまった、と顔がますます赤らむ。
神殿から帰ったら、何をするつもりなのだろう。
それを考えると、顔から火が出そうだ。
「そこのバカップル! イチャイチャしてないで、さっさと海底神殿に向かいなさいよ」
「イチャイチャって!?」
顔を赤く染めたラズがはっと振り向くと、オルマ子爵が暴れるユンユを羽交い絞めにして、からかう様な顔を向けている。
リーザもロサも顔を赤らめて咳払いしている。
「いちゃいちゃ、いちゃいちゃ! ママとパパはいちゃいちゃ!」
ミチュが新たに覚えた言葉を繰り返しながら、手を叩いて喜んでいる。
(ああ、こうやって子供は言葉を覚えていくんだ……)
ミチュの前では、極力言葉に気をつけようと心に誓ったラズであった。