水中花の涙 ―25―
――全て無くなってしまえばいい、こんなセカイ。
狂気がアンを支配する。
何も考えられない。
“破壊”だけ。
辺りは火の海と化し、瓦礫が散乱する。
海が唸り、神の雷が絶えまなく轟く。
そこは、まさに地獄絵図だった。
* * *
「……何よ、これ。一体何が起こったの?」
なんとか地下から脱出できたラズは、変わり果てた光景に我が目を疑った。
辺りを見渡すと、黒髪を風になびかせ、怒りに我を忘れた人影を見つける。
――アンさん。
瓦礫と煙火のなかにいるアン。
恐い。
あんなアンを見た事がない。
ラズが神殿の地下に行く前は、空は晴れ渡っていたし、神殿も傷ひとつない美しい姿だった。
――何があったの?
世界を憎み、壊しつくす、破壊神のようなアン。
雷鳴が轟き、何の表情を表さないアンの顔が青白く光る。
――泣いている?
ラズは何故だか、そう感じた。
アンの体全身からほとばしる、怒り、そして、悲しみ。
ラズはたまらず走り出していた。
「――アン!!」
* * *
ラズの声が聞こえた。
幻聴か?
幻でも夢でもかまわない。
――ラズに会いたい。
アンが振り返ったそこには、ラズがいた。
瓦礫のなかを、まっすぐこっち向かって走って来る。
紛れもなくラズだ。
“ラズ”と渇いた唇が動く。
声は出なかった。
狂気の世界から我に返ったアンは、茫然自失で、ただラズだけを見つめていた。
虚ろだった金色の瞳に、光りが宿る。
ラズだけが、アンをこの世界に繋ぎ止めておける。
* * *
ラズは走ってきた勢いのまま、両手を広げてアンに飛びついた。
アンの首にしっかりと抱きつく。
「アン!!」
アンが剣を持っていない方の手で、ラズを抱き寄せる。
身長差のある2人が、おでこを合わせて抱き合うと、ラズの足はどうしても地面から浮いてしまう。
ラズは息を切らして、アンの目を覗き込む。
金の瞳が悲しそうに揺れている。
「アンさん」
ラズは子供を守る母のように、アンの頭を抱きしめた。
「…………ラズ?」
「何?」
「ラズなのか?」
「他に誰だっていうの?」
「…………」
アンはラズを地面に立たせると、自分は膝を付き、ラズの胸に顔を埋める。
「ちょっ! アン!」
いくら小さいとはいえ、胸に顔を埋められるのは恥ずかしい。
逃げようにも、アンが腰に腕を回し、離してくれない。
「生きている」
「え?」
「鼓動が聞こえる」
アンはラズの心臓に耳を当て、力強く脈打つ命を聞いていた。
「……アンさん」
ラズは何となく理解した。
(アンさんは、私を心配してくれていたんだわ)
ラズはアンの黒髪を優しく撫でた。
アンは目を瞑り、ラズの鼓動に耳を傾ける。
雨が止み、雷雲が逃げる。
雲の切れ目から、幾筋の光りが町に降り注ぐ。
人々はそれを“天使の梯子”と呼ぶ。
「君を失ったかと思った……」
静けさを取り戻した神殿に、アンのか細い声が落ちる。
ラズはその声に胸が痛くなった。
「心配かけて、ごめんね」
ラズはアンの頭をギュッと抱きしめた。
愛おしさが込み上げてくる。
――ずっと貴方の側にいさせて。
そう言おうとした瞬間、空から巨大な瓦礫が降ってきた。
半壊していた神殿が、ついに耐えられなくなり、崩れはじめたのだ。
神殿は地響きと土埃を上げて、あっという間に全壊した。
* * *
神殿が崩壊する様を、ユンユたちは離れた場所から見守る事しか出来なかった。
「ラズ先生」
ユンユが崩れ落ちるように膝を付いた。
碧色の瞳から、とめどなく涙がこぼれ落ちる。
崩壊した神殿。
中に居るはずのラズが、無事なはずがない。
「いや、まだだ、まだ諦めない」
ユンユは昔に戦火に巻き込まれた町から、助かった経験があるのだ。
暗い瓦礫の下から救われた時、どれほど嬉しかったか。
ユンユは涙を乱暴に拭くと、力強く足を踏み出した。
「待ちなさい! どこへ行くつもり!?」
オルマ子爵がユンユの二の腕を掴んだ。
「ラズ先生を助けるんですよ、離して下さい」
「お馬鹿! 崩壊したばかりの神殿は危険よ」
「早く助けないと!」
「もう助からないわ、諦めなさい!」
「嫌だ! 最後まで諦めない」
「駄々っ子みたいなこと言わないで」
「誰が駄々っ子だ! こんちくしょう、離しやがれ!」
「んまっ! 女の子がなんて口をきくの」
「僕は女じゃない!」
「どこらかどう見ても“可憐な女の子”じゃない」
オルマ子爵のその言葉が、ユンユの逆鱗に触れた。
ユンユの右足が風を切る。
「×*☆¥♂ッ!!」
オルマ子爵の股間にユンユの蹴りが見事決まる。
オルマ子爵、…………悶絶。
「……ユ、ユンユちゃん、ひ、酷いわ。私は“心は乙女”でも、体は男なのよぉ〜」
「ふん」
脂汗を滲ませたオルマ子爵が地面に崩れ落ちると、ユンユは改めて神殿に向かおうとした。
「――あれは!!」
土埃舞い散る崩壊した神殿から、歩いて来る人影がある。
――まさか!
ユンユの心臓が高鳴る。
目を細めて注視する。
土埃が風に流され、現れた人物を見てユンユの表情が驚きに、そして喜びに変わる。
「――ッラズ先生!!」
ユンユはアンに抱かれるラズに向かって駆け出していた。
* * *
「ユンユ!!」
ラズはアンの腕から降りると、ユンユに向かって駆け出し、2人はきつく抱き合った。
「良かった無事だったんですね」
「うん、何だか皆に心配かけたみたいで、ごめんね」
「怪我は!?」
ユンユはラズから身を離すと、腫れた頬を見た。
「少し頬が腫れているけど、後は何処もなんともない」
「良かった」
ユンユはホッと安堵の息を付いた。
「ねえ、私が神殿に居る間、何が起こったの?」
「え?」
ユンユは返答に困り、アンを見上げた。
アンは片方の眉を軽く動かしただけで何も言わない。
いつものように、穏やかで飄々としたアンだ。
先ほどまでの破壊神が嘘のようだ。
ユンユは崩壊した神殿、アン、ラズと視線を移し、大きくため息を落とした。
「とりあえず、ラズ先生」
「何?」
「アンさんより長生きして下さい」
「は?」
何が起こったのか聞いたのに、まったく意味不明の答が返ってきた。
ラズは、とりあえず頷いておいた。
「ちょっと、あなた方、再会の喜びはソコまでにして、この小娘を何とかなさい」
オルマ子爵は脂汗をかいた顔で、花珠様を捕らえている。
ラズはオルマ子爵の肩に巻かれた血のついた布を見た。
「オルマ子爵、怪我をされたのですか!? 凄い脂汗」
「この脂汗はキンタ、ゴフッ!!」
ユンユの肘鉄が、オルマ子爵の横腹を突いた。
「そうなんです。肩の傷が随分と疼くようで……」
ラズ先生に卑猥な事を言ったら許しませんよ。とユンユがオルマ子爵の耳元で囁いた。
泣きっ面に蜂のオルマ子爵は、涙目を血走らせながらユンユを睨む。
「この、いい子ぶりっ子があああ!」
猫を被ったユンユはにっこりと笑い。
オルマ子爵のうなじに手刀を落とした。
「大変だ、オルマ子爵が気を失われた。アンさんオルマ子爵を担いでくれませんか?」
若干、棒読み加減の台詞にラズもアンも白々しいと思った。
第一、ユンユがオルマ子爵に手刀を落とした所は、ばっちり見えていた。
「……ユ、ユンユ」
「何ですか、ラズ先生?」
にっこりと微笑む天使。
天使の微笑が、とっても怖い。
「な、なんでもないわ」
ラズは引きつった笑いを浮かべると、口を噤んだ。
どうやらオルマ子爵は、ユンユの逆鱗に触れてしまったようだ。
ラズは心の中でオルマ子爵に手を合わせた。
ご愁傷様です。
ぽくぽくぽく、チーン
* * *
花珠様は神殿から出てきたラズたちを驚愕の目で見つめていた。
生きている。
どこも怪我もしていない。
わたくしの叩いた頬以外、なんともない。
詰めいていた緊張が、涙となって溢れ出す。
どれほど後悔したことか、どれほど罪の意識に苛まれた事か。
自分にあんな残酷な事が出来なんて、露ほども思わなかった。
激情が体を支配して、嫉妬が心を蝕む。
誰よりも美しいという驕りが、自分を駄目にしてしまった。
わたくしは、美と引き換えに、とんでもない女に成り下がってしまった。
わたくしは、酷く醜い女。
「……ラズ様」
か細い声に、ラズが振り向いた。
雨に濡れても美しい花珠様が、青ざめた顔で立っている。
アンとユンユが、ラズを守るように立ちはだかる。
花珠様は2人の迫力に脅えたものの、ラズを見つめた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
花珠様の両目からとめどなく、後悔の涙が零れ落ちる。
「本当にわたくしは何とお詫びしたら……」
「花珠様」
「わたくし、ずっとずっとサディ様をお慕いしていたのです」
それなのに、美しくなった途端、男たちからもてはやされ、向けられる賛美の眼差しがこの上なく嬉しくなって……。
驕り高ぶり、サディ様を失った。
「平凡な容姿の貴女が、どうしてモテるのか分からなかった。それが腹ただしかった」
「…………」
「醜い怒りを、貴女にぶつけてしまった……」
激情に駆られた自分が恐ろしい。
「わたくしは……ラズ様になんて酷い事を」
「……花珠様」
ラズがゆっくり花珠様の前に進み出ようとした。
「ラズ!」
アンがラズの肩を掴んで止める。
しかしラズは、アンの手を優しく叩いてから、大丈夫と言うと、花珠様の前に進み出た。
アンは剣に手を掛けて、ラズの後ろに立つ。
「花珠様、顔を上げてください」
花珠様がゆっくりと顔を上げた瞬間。
――パンっ。
小気味のいい音が、青空に響き渡った。
「……ラズ様」
花珠様は叩かれた頬を押さえて、驚きに目を見開いている。
「痛~、平手打ちって、こっちも結構、痛いのね」
ラズは花珠様の頬を叩いた、手の平にフーフーと息を吹きかけている。
「コレで、チャラにしましょう」
「――そんな!」
「貴女の後悔は伝わりました。後悔するくらいなら、それをバネにもっと違う事に気持ちを向けてちょうだい。貴女は“花珠”として尊敬されているわ。貴女にしか出来ないことは沢山ある」
「……ラズ様、わたくし、わたしく」
ラズは微笑むと、子供のように泣きじゃくる花珠様を抱きしめ、背中を摩った。
アンは未だ花珠様を許せないらしく、威圧的に睨んでいるものの、ユンユは“ラズ先生は甘いんだから”と文句を言いつつ微笑んでいる。
決着がつき、穏やかな時間が戻ったと思われた。
しかし、神殿の地下にある巨大な真珠が、激震によりヒビが入り、二つに割れた事をラズたちは知らない。
真珠が割れた時、海の底で火山が噴火した。
その拍子に、突き上げるような大きな地震が、町を襲う。
「――地震!!」
立っていられないほどの大きな地震。
地面がひび割れ、町の建物が崩壊する。
割れた大地から、温泉の源泉が噴出した。
熱い源泉がラズと花珠様に降り注ぐ。
「危ない!」
源泉を浴びれば、命の危険性があるほどの大火傷するだろう。
アンが手を伸ばす。
――間に合わない!
そう思った瞬間、花珠様がラズを突き飛ばした。
驚く間もなく突き飛ばされたラズは、アンの腕の中に納まる。
「――っ!!」
源泉が降りかかる直前、花珠様はラズの無事を見て、ホッとしたように笑った。
そして、断末魔の悲鳴が青空を引き裂いた。
* * *
「花珠様!!」
源泉を浴びた花珠様は、見るも無残な顔になっていた。
まるで、顔が溶けているようだ。
微かだが、息はある。
「早く冷やさなきゃ!」
「ラズ先生! 花珠様の皮膚は本当に溶けていますよ!!」
ユンユが慎重に花珠様の顔からどろどろに溶けた皮膚を剥がすと、内側から真新しい皮膚が出てきた。
「え?」
「どうなっているんだ?」
まるで蛇の脱皮のように、皮が剥けていき、まったく違う人物の顔が花珠様から現われた。
花珠様の皮膚を被った、見知らぬ人間。
(どういう事?)
ひとりの人間が、違う人間の皮を被っていたという事?
分からない。
あり得ない。
しかし、そのお陰で花珠様は助かるかもしれない。
「……取り敢えず、子爵邸に運びましょう」
虫の息の“花珠様”だったその人物を、ラズたちは子爵邸に運んだ。