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水中花の涙 ―24―

ラズは屈強な男たちに両手を締め上げられて、神殿の奥深くまで連れて来られていた。


(神殿の地下にこんな所があっただなんて)


肌寒い乳白色の鍾乳洞。

時折、雫が滴り落ち、水琴窟のような澄んだ音を反響させている。

川や緩やかに流れ、目の退化した魚たちが泳いでいる。

鍾乳洞の中心には祭壇が設けられ、大きな真珠が鎮座していた。


「ようこそ、聖なる地へ」


花珠様の声が、洞穴に反響する。


「ここは神殿の心臓部。もっとも神聖な場所、歴代の花珠はここで毎夜、海の神をお慰めするの」


「海の神を慰める?」


「そうよ、貴女には冥土の土産に、花珠にだけに受け継がれる、逸話をお話してあげるわ」


花珠様は、ラズを見ると美しい顔でやんわりと笑った。


「昔、海の神に奉納するため、毎年ひとり、美しい娘を選びだし、海に生贄として投げ込まれていたの。女も家族も名誉な事だったわ。だって、神の花嫁になるんですもの。でもね、そんなある日、血気盛んな男の恋人に白羽の矢が当たってしまったの。男は町のためだ、と一度は涙を飲んだわ。でも、恋人が海に投げ込まれるのを見た途端、自分も海に飛び込んだの。男は浮いてこなかった。誰しもが男はサメの餌にでもなったのだろうと考えていたわ、でもね――」



でもね――。


3日後。

男は帰ってきた。

もちろん、恋人を連れて。

町の人々は神の怒りを恐れた。

しかし、男は満面の笑みを浮かべて、もう大丈夫だ。

そう、告げたのだった。

男は、海底で美しい神殿を見つけたと語った。

海底なのに、息が出来るという、不思議な神殿。

男は神殿から大きな真珠をひとつ持ち帰った。

それ以来、海は荒れた事がないそうだ。

真珠はまさに海の神だ、と人々に神格化された。



「その真珠がコレ」


花珠様は、祭壇に鎮座する真珠を(うやうや)しく持ち上げた。

子供の頭くらいある、大きな真珠だ。

大きな真珠は仄かに光り、傷ひとつない美しい珠だ。


「その真珠を御神体に、この神殿が建てられたのよ。それからは代々美しい娘が入れ替わり、御神体の真珠を毎夜“お慰め”するのよ。といっても丹念に撫でるだけ、こういう風に」


花珠様が優しく真珠を撫でると、真珠は仄かに光りだす。


真珠(しんじゅ)はね神授(しんじゅ)とも書くのよ。満月のような真珠は女の性。満月は満潮、干潮を支配していると言い伝えられ、海の満ち引きは女の産む性に密接な関係がある。新たな生。子を宿すという意味があるの。まさに子供は神からの授かりものですものね」


花珠様は真珠をゆっくりと元の位置に戻と、ラズに向かい合い、ラズの顎に人差し指をかけて、顔を上向かせた。

花珠様のシミひとつない美しい顔が、嫌でもラズの視界に入る。


「この町で、男たちが真珠を持って求婚するのは、子供を産んで欲しいと頼むようなもの」


花珠様は、泣きそうに笑った。


「貴女はアン様の子供を産むの? それともサディ様?」


「意味が分からないわ」


なんで私がサディさんの子供まで、とラズは当惑を表した。


「よくも抜けぬけとっ!」


花珠様がラズの頬を手の平で打った。


「貴女はわたくしから、サディ様も奪った!」


「本当に何の事だかわからないのよ! お願いだからこんな事は止めて!!」


ラズは男たちの拘束から逃れようと必死だ。


「全部貴女が悪いのよ! わたくしがこんなに嫉妬に狂うのは全部貴女のせい! わたくしがアン様にもサディ様にも捨てられたのは全部貴女のせい! 貴女さえ居なくなれば――」


花珠様は、怒りに肩を震わせ、男たちに視線を送った。


「好きにしていいわよ」


花珠様はそう言い残すと、衣を翻し颯爽と立ち去って居った。

屈強な男たちはラズを取り押さえたまま、当惑しているようだ。


「おい、どうする?」


「花珠様は好きにしろ、とおっしゃった」


「ならヤッちまうか?」


「待て。殺す前に、少しは可愛がってやる」


「くっくっく、お前も物好きな」


「俺たちの花珠様を怒らせた罰さ。たっぷり可愛がってやろうぜ」


男がラズの体を不気味に光る眼光で凝視すると、舌舐めずりをした。

ラズの血の気が一気に引き、身の毛がよだつ。


「嫌!!」


ラズは男たちから逃れようと、必死に抵抗を試みるものの、男は余裕の笑みを浮かべながらラズを地面に押し倒した。


「嫌がられると、余計にそそるぜ。げへっへ、たっぷり可愛がってやるぞ」


「助けて!」


「残念だな、ここは誰も知りえぬ秘密の地下だ。誰も助けには来ない」


男たちがラズの手足を押さえる。

底知れぬ恐怖が、ラズの体を支配した。


「離して!! 嫌!」


ラズはしゃにむに暴れるが、屈強の男たちに押さえつけられ、ビクともしない。


「あっはっは、もっと暴れろ。俺を楽しませてくれ」


男の手が、ラズの服にかかる。

真っ青に青ざめたラズは、鋭い息を飲み込む。


「止めて!」


ラズの服が引き裂かれる絹の音が、洞窟に響き渡った。



* * *



アンが、息を切らして神殿についたころ、青ざめた顔の花珠様は、静かに祈りを捧げていた。

その手は微かに震えている。

荒い息遣いのアンが背後に迫ってきた時、花珠様はゆっくりと瞳を開けた。


「ラズは何処だ」


「…………」


「ラズは何処に居る!?」


「ラズ様は居られません」


「――っ!?」


アンは信じられるものか、と花珠様を睨む。

花珠様は脅えきった様子で、震える両手を喉元に置き、掠れた声を出した。


「ラズ様は……」


喉が引きつり、上手く声が出ない。

花珠様は乾いた唇を舐めると、震えながら口を開いた。

花珠様の小さな声が、神殿に(とどろ)く。


「ラズ様は、もう何処にもいません」


花珠様の言葉が雷鳴のようにアンを打った。


「何を……何を言っている?」


アンは理解に苦しむように、上ずった声で問うた。

花珠様は崩れ落ちるように膝をつき、アンを見つめながら、後悔の涙を流しはじめる。


「貴方が悪いのです!! どうして、わたくしを見てくださらないの!?」


花珠様は涙ながらに訴える。


「…………ラズは何処だ?」


「どうして、アン様もサディ様もわたくしを見捨てるのです!! わたくしは悪くない、悪くないわ!」


花珠様は子どものように駄々をこね、両手に顔を埋めて泣き崩れた。

悲痛な泣き声がこだます。

しかし、アンは容赦しない。

怒りに歯を食いしばり、花珠様の胸倉を掴んだ。

怒りに燃える金の瞳が花珠様を睨みつける。

晴れ渡った空に暗雲が立ち込め、雷が轟く。


「ラズは何処だ!!」


いきなり降り始めた強い雨が、神殿を打つ。

花珠様の涙に濡れる青い顔を、雷が照らし出す。


「ラ、ラズ様は、男たちに手篭めにされて……。もう、今頃は海の底に――」


アンは、躊躇なく腰に挿してあった剣を手に取ると、花珠様めがけて振り下ろした。



雷が神殿に落ちる。



「…………」


風が神殿の蝋燭を全てかき消した。

暗い神殿の中に、雨の匂いと蝋燭の煙の匂いが立ち込める。

土砂降りの雨以外、全ての時が止まった。


雷鳴が再び光る。


花珠様は、目の前で止まっている青く光る剣を、凝視していた。

鉛を仕込んだ孔雀の扇子が、花珠様に振り下ろされた剣をギリギリで止めている。

アンと花珠様の間にオルマ子爵が割って入っていたのだ。

冷めた顔をしたアンに対して、オルマ子爵は汗をかき、血管が浮き出して、顔を真っ赤に染めている。


「……退け」


アンの低いドスの効いた声だけで、オルマ子爵は震え上がった。

しかし、今ここを退くわけにはいかない。


「早く逃げなさいよ、このあんぽんたん娘!!」


オルマ子爵が叫ぶ。

アンの力は尋常じゃない。

いつ、鉛を仕込んだ孔雀の扇子が折れてもおかしくない。

しかし、あんぽんたん娘と言われた花珠様は、恐怖に腰を抜かしていた。


「これだから、小娘は嫌いなのよっ!」


オルマ子爵が叫んだ途端、アンが剣を振り払い、オルマ子爵が吹っ飛んだ。

アンが、花珠様に向かい合う。

雷鳴がアンの端整な顔を青白く染め上げる。

整い過ぎた顔に、表情がまったくない。

花珠様はとんでもない化け物を起こしてしまった事に気がついた。


(……彼は何者なの?)


アンの剣がゆっくりと振り上げられる。

雨が加速し、海が荒れる。

空は唸り、雷が鳴り響く。

地獄のような光景だ。


「お止めください!!」


背後からオルマ子爵がアンに向かって切り付ける。

アンはそれを紙一重で交わすと、オルマ子爵に向かって剣を繰り出す。

オルマ子爵は花珠様が動かないのなら、アンを動かす作戦に変えたのだ。


「くっ!」


オルマ子爵は自慢するだけあって、なかなかの剣の名手だ。

この町では彼の右に出る者はいない。

しかし、今回は相手が悪い。

数歩動いただけで、肩に熱い痛みが走った。

アンの剣先がオルマ子爵の肩をえぐり、赤い鮮血が糸のように弧を描いた。

アンはオルマ子爵を蹴り飛ばすと、後ろを振り向いた。

そこには花珠様を守るように立ちはだかるユンユ姿。


「アンさん! これ以上は止めてください!」


ユンユが必死に呼びかける。

ユンユとて花珠様が憎い。

しかし、花珠様の命が目の前で簡単に消されるのを、黙って見ているわけにはいかない。


「その女を放せ」


「こんなことしても、ラズ先生は喜びません!」


「……」


アンのこめかみがピクッと動く。


「ラズ先生は、何より命を重んずる人です!」


その通りだった。

アンはこれまでラズが、自分を危険にさらしてまで何度も人の命を救ってきたのを目の当たりにしている。

この場で怒りに任せて花珠様を殺せば、ラズはアンを嫌悪するだろう。

それは分かっている。

しかし……。


「うおおおお!」


アンが雄叫びを上げで、剣を床に突き刺した。

床に亀裂が走り、花珠様の直ぐ前で止まった。


アンが剣を床に刺したまま、顔を伏せて肩を小刻みに震わせている。

心のなかで、必死に葛藤しているのだ。


「花珠様、今のうちに逃げますよ」


ユンユは鋭く囁くと、花珠様のわきの下に頭をくぐらせて担ぎ上げた。


(何処に逃げれば……)


ユンユが辺りを見渡す。

すると、オルマ子爵が肩を抑えて、起き上がろうとしている姿が目に入った。

ユンユは花珠様を担いで、オルマ子爵のところに駆けつける。


「オルマ子爵!」


「ユンユちゃん、早く逃げなさい。ここは私が抑えておくから」


「何を言っているんですか。一方的にやられておいて」


ユンユの呆れたような口調に、オルマ子爵の自尊心が傷ついた。


「しかたないじゃないの、相手は天下のクリシナ様よ!」


「大きな声を出すと、傷に響きますよ」


ユンユは、スカートを破ると、オルマ子爵の肩に巻いた。


「駄目よ。ユンユちゃんまで血で汚れるわよ」


「なに馬鹿なこと言っているんですか? 宮廷医師を目指す人間が血で汚れるのを嫌ってどうなります」


ユンユはいつもよりきつめに傷口を閉めると、オルマ子爵は、痛っと叫び声を上げた。


「痛いわよ。酷いわ、ユンユちゃん」


「さあ、早く神殿を出ましょう」


「私は残るわよ。貴方たちはその隙に逃げなさい」


「無理です。今のアンさんは誰にも止められません」


ユンユは肩越しにアンを振り返った。

怒りのオーラに包まれた彼は、噴火直前の活火山のように見える。

全て物を怒りの炎で焼き尽くしてしまいそうだ。

そんなアンを止められるのは、この世にひとりしかいない。


「――ラズ先生しか」



* * *



ラズがいない。

どこにもいない。

いない。


アンの心から灯火が消えた。

暗い孤独が無限に広がる。



――ラズのいない世界なんて無意味だ。



――ラズを俺から奪った全てが憎い。



憎い、憎い、憎い!!


アンの内からどす黒い憎悪が、とめどなく溢れ出してきた。

怒りで目の前が真っ赤に染まる。



――全て、壊れてしまえ!



アンの心の声に共鳴して、一斉に雷が落ち、町のあちこちで火の手が上がる。


アンがやおら立ち上がる。


その瞳は虚ろで何も写していない。


雷を帯びたような剣が、勢いよく(くう)をなぎ払う。

すると、旋風が起こり、かまいたちのように神殿の巨大な柱をなぎ倒す。

天井が崩れ、巨大な瓦礫が地響きを響かせ、地面に落ちてくる。

埃と雨風が吹き荒ぶ。

雷が落ち、神殿にも火の手が上がる。


たった一振りで神殿を半壊させてしまったのだ。


「ここは危険だわ、早く逃げましょう」


オルマ子爵が、ユンユと花珠様を守りながら神殿から避難した。


「あんな、クリシナ様はじめて見たわ……」


思い出しただけでも寒気がする、と雨のなかを半壊した神殿を見つめた。

空は雷雨が轟き、町から黒煙が立ち上る。


まるで戦場だ。


人々の悲鳴が、神殿まで届く。

早く何とかしなくては、とオルマ子爵の焦燥感が募る。


「ちょっと、あんぽんたん娘、何時まで呆けているつもりよ。ラズを何処にやったのよ!?」


オルマ子爵が雨に負けじと大声で怒鳴りつけると、花珠様は土砂降りの雨のなか、震える指で神殿を指した。


「ラズ先生は神殿に居るんですか?」


ユンユが咄嗟に神殿に駆け戻ろうとすると、オルマ子爵によって止められた。


「神殿に戻るのは危険よ!」


「でも!」


「でもも、へったくれもないわ!」


ユンユはオルマ子爵の手を振り払おうとしたが、オルマ子爵はしっかりと掴んで放さない。

神殿の崩壊する音、燃え盛る炎。

ユンユが悔しさに唇を咬むと、鉄の味が口の中に広がる。

再び雷が神殿に落ちる。


「ラズ先生ええええ!!」


ユンユの叫び声は、雨音にかき消されてしまった。



* * *



「ユンユ?」


ユンユの声を聞いたような気がしたラズは、辺りを見渡した。

地震のような地響きで、鍾乳石が折れ、あちこちに転がっている。

今もばらばらと小石が降っている。

ラズを取り押さえていた屈強な男たちは、ラズを置いてさっさと逃げ出していた。


(何が起こったのかしら?)


地震のようだが、地響きは上から聞こえる。

ラズは、服の下に着ていた鎖帷子(くさびかたびら)をそっと触った。

このお陰でラズは助かったのだ。


村を出る時、ククルの妻オリスがくれた楔帷子。

思い出しても、顔から火が出そうなほど恥ずかしい。


『その首筋の赤い痣、キスマークでしょ』


『え!?』


ラズは真っ赤な顔で、首筋の、アンが付けたキスマークを隠した。


『大丈夫よ。この村の人たちは野暮天だから、虫刺されとしか思っていないわ。おめでとう、お赤飯炊く?』


『いえ、まだ、ソコまでは……危なかったけど』


『だと思った。最後までいってたら、アンさんがもっと上機嫌なはずだもの。でも最近のアンさんはちょっと暴走しすぎよね。まあ、あんだけいい男なら迫られても悪い気はしないわ』


そう言って豪快に笑うオリス。


『でも、嫌ならちゃんと断りなさいよ』


『……はい。努力します』


アンの力にラズが勝てわけがない。

しかも、あの美貌に迫られたら心も揺らぐ。


『頼りない返事ね。んじゃ、コレあげるわ』


オリスがラズに渡したのは、驚くほど軽い楔帷子。


『貞操帯だと思って、出来るだけ着ていなさい』


『て、貞操!』


『そう、アンさんの馬鹿力でも簡単にはこの楔帷子は壊せないわよ』




確かに、屈強な男たちがナイフで楔帷子を切ろうとしたが、ナイフの方が折れてしまった。


「ありがとう、オリス」


ラズは心からの感謝をオリスに送った。


と、その時、再び巨大な音と共に、立っていられないほどの揺れを感じた。

ここに居たら危険だ。

ラズは這いつくばって、逃げ道を求めた。

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