水中花の涙 ―23―
ラズとサディを乗せた馬車は、神殿の前で緩やかに停車した。
サディが先に馬車から降りると、馬車を降りようしていたラズの腰を掴み、ふわっと抱き上げ、優しく地面に降ろした。
「――サ、サディさん!」
ラズは恥ずかしさと、驚きで顔を真っ赤にして叫んだ。
「小柄なラズさんが、この大きな馬車から降りるのは大変ですよ」
当然のように言うサディ。
(もしかして、この人、天然のタラシかもしれないわ)
美人画の巨匠と言われるサディは、幼い頃より貴族の令嬢たちと触れ合う機会が多く、彼女たちに失礼がないように、徹底したマナーを身に着けていた。
それが今や、当たり前となり、自然と女性をエスコートしてしまうのだ。
今も、神殿に続く階段の前に立ち、ラズに手を差し伸べている。
(は、恥ずかしい)
令嬢のような扱いに慣れていないラズは、戸惑いながらもサディの手に自分の手を添えた。
サディの好意を無下にするわけにはいかない。
ラズは顔を赤く染め、はにかんだ笑みをサディに向けた。
2人は恋人同士のように寄り添い、階段をゆっくり登る。
(この現場にアンさんがいなくて良かった)
と、ラズは切実に思ったのだった。
しかし、その現場を嫉妬に狂った瞳で見ていた人物がいた。
優雅でたおやかな手が、鍵爪のように神殿の柱を引っかく。
「……何故」
美しい顔が嫉妬で歪む。
「何故、アン様もサディ様も……」
胸がざわつく。
「何故、あの女なの……」
――私のほうが何倍も美しいのに!!
神殿に佇む美貌の花珠様は、その美しい顔を歪めて、仲睦まじい様子のラズとサディをねめつけていた。
――許さない!!
* * *
神殿に佇む花珠様は、まさに女神。
漆黒の長い髪。
艶のある肌。
豊満な体。
薄衣はその体を余す所なく浮き立たせる。
仄かに香る、芳しい薔薇の匂い。
足首の鈴が歩くたびに、玉響に揺れる。
上品で神秘的、そして艶冶な美貌。
頭から爪先まで、完璧な美。
花珠様はゆっくりと口角を上げ、凄絶な笑みを浮かべた。
「…………」
余りにも美しい花珠様に、ラズは言葉を忘れて見惚れてしまう。
同性だというのに頬が赤らむ。
花珠様はラズだけを見つめて、ゆっくり近づいてくる。
(花珠様ってホントに綺麗……。ん? そういえば、どうして花珠様と惚れ薬は同じ匂いなんだろう?)
ぼんやりと、そんな事を考えていると、花玉様がラズの手前で止まった。
それからおもむろに、サディへと視線を移す。
「花珠様、こちらは――」
「知っております。この都で美人画の巨匠、サディ様を知らぬ者などおりませんわ」
そう言うと、花珠様はサディに極上の微笑みを向けた。
「お誉めに預かり、光栄至極にございます」
返事を返したサディの声がどこか固い。
緊張しているのだろうか? これだけの抜きん出た美貌は、美人に見慣れている画家のサディにとっても、見惚れしまうのだろう。ラズはそう思いながら、サディを見上げた。
しかし、サディは花珠様を見ていなかった。
何を考えているの分からない、不思議な表情でラズを見下ろしている。
「帰りましょう。ラズさん。何だか嫌な気がします」
サディが小さな声で、ラズの耳元に囁いた。
(何故、今来たばかりなのに? まだロサの事も聞いていない)
ラズが首を傾げてサディを見ていると、花珠様の声が聞こえてきた。
「サディ様、どうかお願いがございます。わたくしの肖像画を描いて頂けないでしょうか?」
花珠様からサディへの、直接の申し入れ。
画家としては大変名誉な事だ。
「……お断りします」
「えっ!? ちょっとサディさん、断るだなんて勿体ない」
サディが余りにあっさり断るモノだから、ラズは驚いた。
(信じられない、こんなに綺麗な人を描けるチャンスを棒にふるだなんて。もし、私が画家だったらお金を払ってでも描きたいわ)
「……何故、わたくしを描いて頂けないのでしょうか?」
花珠様の笑顔に陰りが見える。
「花珠様は美しすぎて、魅力を感じないのです。申し訳ありません」
サディの言葉が静かな神殿に反響する。
青ざめる花珠様を見て、ラズは心の中で悲鳴した。
(ひいっ! 魅力を感じない? この麗しの花珠様に!?)
ラズは目を見開いてサディを見上げた。
芸術肌の人間とは、まったく不可解な生き物だ。
「……申し訳ありません。俺達は帰ります」
「サディさん!?」
サディは、驚くラズの肩を抱くと、神殿の出口に向かった。
訳が分からないラズは、ほとんどサディに背中を押されるように歩いている。
何とか後ろを振り向いて花珠様を見ると、その表情は長い黒髪に隠れて見えない。
しかし、その肩は小刻みに震えている。
(泣いてらっしゃる!? 花珠様に謝らなきゃ失礼よ)
ラズがサディの腕から逃れた時、朗々とした怒りの声が神殿に響き渡った。
「よくも、よくも、わたくしを侮辱したな! 後悔させてやる!!」
花珠様が片手をあげると、どこからともなく、屈強な男たちが現れた。
「だから、花珠様の嫉視を見た時、何だか嫌な予感がしたんだ!」
サディが咄嗟にラズを背後に庇う。
サディは女性の機微に敏感なのだ。
いくら花珠様が嫉妬心を隠しても、簡単に見破ってしまう。
あっという間に、2人の回りを屈強な男たちが取り囲む。
「痛みつけておしまいっ!」
花珠様のかけ声に、男たちが一気にラズとサディに向かって飛び掛かってきた。
人形のようにサディが殴られ、ラズの悲鳴が神殿に、こだます。
少し離れた所でラズたちを見ていた花珠様が、美貌を歪ませてニヤリと笑った。
* * *
それは昔話。
占いの老婆が語る、昔話。
ある所に、それはそれは美しい娘がいた。
年頃になった娘は町1番の働き者の男に添い遂げ、愛し愛され、幸せに暮らしていた。
そこに、ひとりの好色な男が現れた。
好色な男は権力にモノを言わせ、娘を攫い、己のハーレムに閉じ込めてしまった。
娘は、愛する夫を想い、毎日涙した。
陰湿ないじめに堪える日々。
そこは、華やかな地獄。
そして、宿った新しい命。
それが、ハーレムの女たちの嫉妬を煽った。
娘の心は次第に蝕まれる。
気が狂いそう。
そんなある日、打算的なハーレムの女の手引により、娘は産まれたばかりの赤子を抱えてハーレムから逃げ出す事に成功。
急いで愛する夫の元へ。
しかし、夫はすでに新しい妻を娶っていた。
絶望。
仲睦まじい夫婦を見つめる娘の腕の中には、指輪をおしゃぶり代わりにしている、いたいけな赤子。
この子には、何の罪もない。
娘は赤子を手放すと、ひとり、海に身を投げたのだった。「
その話が真実なら、おばあちゃんはサディの産みの親ね。産みの親が海に入水。よく助かったわね」
オルマ子爵がうたぐり深そうに、占いの老婆に聞いた。
ユンユとオルマ子爵は、子爵邸の地下牢にいた。
光の差し込まない薄暗く湿気た地下牢は、薄ら寒かった。
占いの老婆は鉄柵の中。
オルマ子爵はとくと老婆を見つめた。
サディの母親なら50代だろう。
しかし、この老婆は80代くらいに見える。
「苦労や心労は人をぐんと老けさせますからね」
ユンユの言葉にいの一番で反応したのはオルマ子爵だった。
「うそ! 嫌だわ。私は最近心配事だらけなの、老けちゃうわ。白髪が出来たらおばあちゃん、貴女のせいですからね!」
「楽天家が何かを言っている」
「ん~、ユンユちゃん、何か言ったかしら?」
「いいえ、何も言ってません。それよりお婆さん。海に入ったなら、どうやって助かったんですか?」
「イルカじゃよ」
「イルカ!?」
「イルカは人間と遊ぶのが好きな、知能の長けた動物。ワシはイルカの背に乗り、不思議な所にたどり着いた」
「不思議な所?」
「海底遺跡じゃよ」
海底遺跡。それは古のエルフ族の遺物。
魔法を操る事の出来た彼らの遺物は、魔法の使えない現代では魔法物と呼ばれ、大変貴重な物で、国宝級に珍重される。
「不思議な所じゃった。海の底だというのに、息ができたんじゃ。夢のように美しい神殿は食べる者も困らぬ天国のような所じゃった。ワシはそこで長きにわたり過ごした。しかし……」
あれは満月の晩。
女の泣き声が聞こえた。
悲痛な泣き声が……。
「だから、ワシは思ったんじゃ。助けてやりたい、と……。いつの時代も泣くのは女。ワシは天啓を受けたのじゃ。海底遺跡にたどり着いたのも神のお導き。ワシは海底の神殿にあった遺跡を持って地上に帰ってきた」
「あら、じゃあ、おばあちゃんが配っていた惚れ薬は、本物の魔法だったのね!?」
「そうじゃ、恋に嘆く女たちに渡した」
老婆は素晴らしい仕事を成し遂げたように、ご満悦に頷いた。
「馬鹿ね、恋や愛はエルフ族より原始のモノ。魔法でも太刀打ち出来ないわ」
「何を!? 惚れ薬を使った女子たちは幸せそうじゃったぞ!!」
老婆は鉄柵に捕まり、オルマ子爵に噛み付いた。
オルマ子爵は孔雀の扇子を優雅に扇ぎながら、片方の眉毛を上げて老婆を見下ろした。
「……本当にそうかしら? 惚れ薬を飲ませた男性が誰かの夫だったり、すでに愛を誓った婚約者がいたりしたら? 惚れ薬を使った女たちは幸せかもしれないけど、その陰で泣く女がいるのよ」
略奪愛。
それは老婆自身が経験した、血の滲むような苦痛。
「…………」
「それにね、惚れ薬を使った女たちも良心が疼く者や、惚れ薬なんて曖昧な物を使ったから、相手の本当の気持ちがわからなくて疑心暗鬼にかかる者が出てくるわ。恋を叶える努力もしないで、幸せになんてなれないのよ!」
オルマ子爵が、肩をそびやかして断言した。
「……幸せになれない」
老婆の強い思い込みが揺らぎはじめた。
「卑怯者は心の底から幸せを感じる事は、決してないのよ」
私の産みの母のようにね。オルマ子爵は胸中で呟いた。
オルマ子爵の産みの母は他人から見たら、女の栄華を極めたように見えただろう。
しかし、いつも何かに怯えていた。
その怯えを振り払うように、馬鹿騒ぎして、また怯える。
産みの母が、きらびやかに着飾るのは、心の傷を隠すための心化粧。
空虚な幸せ。
――幸せってなんだろ?
オルマ子爵は、自分自身に問い掛けてみてから、馬鹿馬鹿しい、と頭を振った。
「お婆さんは、女性たちに幸せになって欲しかったんですね」
ユンユの声が老女の胸に響いた。
「彼女たちは、幸せじゃないのかい? 愛する人の側にいるだけじゃ幸せじゃないのかい?」
「わかりません。人の幸せは人それぞれですから、それにね」
ユンユは昔を思い出すように、やんわりと笑い、言葉を続けた。
「幸せかどうか考える時間があるという事は、大切な事だと思いますよ。他人の幸せを考える、その時間も大切な事です。……少し前まで自分の幸せと大切な人の幸せの間で苦悩していました。でも本当の気持ちを話して解決した時、自分は回りの人に大切にされ、想われていたんだって気づきました。目の前が無限に広がったんです。ラズ先生とは離ればなれになってしまうけど、今まで以上に絆が深まりました。不安もあるけど、今、とても幸せです」
「……お嬢さん」
(お嬢さんじゃないんだけどね……)
ユンユは呆れて、碧の目をぐるりと回した。
すると、鳩が豆鉄砲でも喰らったような顔をしているオルマ子爵と目が合った。
「何か、顔に付いてます?」
ユンユはぺたぺたと自分の顔を触った。
「いえ、ちょっと目から鱗が……」
「は?」
ユンユが問いただそうとした時、血相を変えたリーザが地下牢に駆け降りてきた。
「大変! サディさんがっ――!!」
ユンユとオルマ子爵が、リーザの只ならぬ様子に、言葉を最後まで聞かずに、大急ぎで地下牢から駆け上がると、そこには、真新しい剣を腰に挿したアンが血みどろのサディを担いでいた。
「アンさん!」
「クリシナ様!」
「この男が子爵邸の前に倒れていたぞ、何者だ?」
オルマ子爵がアンに説明している横で、ユンユがサディを診た。
足の骨が折れ、あちこち殴られ蹴られた跡がある。
ひどい傷だが致命傷はなく、気絶しているだけだ。
「……ねえ……ラズさんは?」
引き攣ったか細い声に、誰もがリーザを振り返った。
「ユンユたちが町に出てから、神殿の遣いが来たの。ラズさんは、サディさんと一緒に神殿に――」
リーザの言葉の途中で、アンは駆け出していた。
身を裂くような不安が、アンに纏わり付く。
熱い太陽が凍りのように冷たく感じる。
――ラズ、ラズ、ラズ!!