恋の狩人 ―5―
「 」
何かを叫んでいる。
誰が?
何を?
「 」
聞えない。
アンは深海を漂うような、まどろみから浮上した。それは静かな目覚め。身体には重たい倦怠感が残っている。
夢を、見ていた。忘れてしまったが、とても重要な夢だった。思い出せないのが、もどかしい。
アンは大きなあくびをすると、まだ薄暗い中、藁でこしらえたベッドから這い出し、顔を洗いに外へ出だ。
まだほの暗い朝。透明感のある群青色の空に、炊事の煙が昇り、家畜の鳴き声が、かすかに聞こえてくる。牧歌的な光景に心が落ち着く。
身体を思いっきり伸ばして、朝の空気を吸い込んでから、井戸の水を汲む。釣瓶から掌ですくった水はとても冷たくて、鳥肌が立った。思い切って顔を洗うと、犬のように顔を左右に激しく振り、水滴を飛ばした。
――髭を剃るべきだろうか?
アンは髭をぼりぼりとかいた。アンは自分の容貌を知らない。手で確認すると、目が2つあって鼻と口がひとつずつある。鏡はラズの家にあるが、別段自分の顔に興味がある訳ではない。自分の顔を見ているくらいなら、ラズの顔を見ていたい。アンは再びぼりぼりと髭をかいた。
ラズに接吻するとき、髭があったら邪魔になる。虱が居るかもしれない髭で彼女の顔に、唇に、近づくわけにはいかない。彼女の顔を良く見るためには、前髪も邪魔になる。
たしか、ダトンに貰った石鹸と剃刀があったはずだ。アンは家の中に戻ると、少ない手荷物の中から剃刀と石鹸を取り出した。
――カランッ
乾いた音と共に、木の櫛が床に落ちた。アンは櫛を拾い上げ、しげしげと眺める。それは手作りの、温もりのこもった質素な櫛。どこにでもあるような櫛だ。
――大切なもの。
脳裏に閃いた小さな疼き。忘れてしまった記憶が騒ぎ出す。アンは櫛を愛おしむように撫でた。記憶の鍵がそこにある。
記憶を思い出さなくても別にかまわない。それは本心だ。
なぜならラズに出会えたから。
ラズは別段、美人でもない。十人並み、というやつだろう。肩にかかる長さの赤茶けた髪は、いつも外を向いて跳ねている、そばかすの散る顔は愛嬌いっぱいだ。少年のような体でちょろちょろ動く様は栗鼠のようだ。
しかし、はじめて会った時、心の奥底から衝撃を受けた。どこかで会ったこのあるような懐かしささえ覚えた。そう“運命の相手”を見つけたのだ。
記憶を無くした男が何を言うと、ラズは言ったが、記憶を無くたからこそ、曇りのない透明な眼で見つける事ができたのだ。
――俺の魂の伴侶、決して離さない、決して逃がさない。
アンは不敵な笑みを漏らすと、剃刀を頬に当てた。
* * *
「誰、あんた?」
ラズは家でくつろぐ男を見て、腰を抜かした。
金色の瞳の、たいへん魅力的な男性がそこに居たのだ。高慢そうな笑みをたたえた唇に、黒い眉、高い鼻、美しい顔立ちは、決して女性的ではなく、神々しいまでに男らしさを感じさせる。
気絶しそう。
まさにそんな美貌だ。
男は、ラズを見てにっこりと笑った。白い歯がこぼれ出る。その笑顔には見覚えがあった。
「……まさか、アンさん」
「他に誰が居るというんだ? 盗賊が暢気に朝食の席に着くものか」
確かに……、ラズはどさっと椅子に腰を落とすと、真正面でしげしげとアンの顔を見た。金色に見えた瞳は、今は黒い色に見える。角度によって純金に見える美しい色合いだ。漆黒の髪はすっきり整えられており、後ろに撫で付けられた前髪、ひと房だけおでこに垂れているのが妖艶に見える。猛獣の帝王のような傲慢な笑みが良く似合う。
「どうだ、お前好みの男か? お前のために髭を剃った。これで接吻もしやすくなっただろう」
アンは恥ずかしげも無くラズを口説く。ラズはげんなりと、ため息をついた。この男の思考には着いていけない。
「……前の髭面のほうが良かったわ」
それが、ラズの正直な感想だった。別に接吻をしたいとも思わないし……。
あまりにも美しい容貌に、こちらの心臓に悪い。今思えば、前の髭面はヒグマのようで可愛かった。
アンは、残念そうに肩を落とし、また髭を伸ばすと約束した。そしたら――
「俺と結婚しよう」
アンの唐突なプロポーズに、ラズは飲みかけのお茶を吹いてしまった。――私の聞き間違いか? ラズはアンの真剣な顔を見つめて、その真意をはかろうとした。
「いきなり何を言い出すのよ、吃驚するじゃない。どうしてアンさんの髭が伸びたら、結婚しなきゃならないのよ」
アンは大きな温かい手で、ラズの小さな華奢な手を包み込んだ。
「運命だから」
黄金を溶かしたような瞳は真っ直ぐにラズに向けられている。
“運命”と、きましたか。頭、大丈夫ですか? やっぱり頭を打つと少しおかしくなるみたい。ラズは笑顔を引きつらせながら手を引き抜こうとした。しかし彼は強く握って手を離してくれない。
「……昨日今日、会ったばかりの人間に、よく求婚なんて出来るわね」
ラズはその黄金に輝く真剣なまなざしを、受け止めることが出来ない。視線をはずし、遠くを見つめた。故に、アンが一瞬だけ悲しそうな顔をしたのを知らない。
「なあラズ――」
何かを言おうとしたアンの言葉は、ユンユの殺気によって阻止された。戸口に立ち、ギロッとアンを睨むユンユ。朝に強いユンユは、ラズより寝坊する事はない。夜も夜で蝋燭片手に医学書を読みふけり、いったい、いつ寝ているのか心配になるほどだ。
「あら、ユンユ。どうしたの? ご機嫌ななめね」
ユンユが嫉妬しているとは、露とも思い付かないラズは、アンの手から自分の手を引いて、ユンユが小脇に抱える籠に視線を移した。
「鳥の卵、無かったの?」
庭に放し飼いにしている、飛ばない鳥は、美味しい卵を産んでくれて助かる。卵はユンユの大好物だ。
「いいえ、ちゃんと3つありましたよ」
ユンユは緑と白のマーブル柄の卵を3つラズに見せた。
暖炉の火に掛けた鍋でベーコンを焼いて、その上に卵を落とした。美味しそうな香りが漂う。採りたての生野菜をひと口サイズにちぎって、焼いたパンに溶けかけのチーズを乗せる。ヤギの乳のミルクをコップに注ぐ。あっという間に美味しそうな朝食の出来上がりだ。
「いただきます」
3人で囲む食卓。いいものだな、とラズはしみじみ思う。どんなに忙しくても出来るだけ、一緒に食事をとるのがラズの決めたルールだ。だけど今日は何故か肌がピリピリするような……。
ユンユの機嫌は相変わらず悪いままだ。何をそんなに怒っているのか、聞くに聞けない雰囲気だ。
食後のお茶を楽しんでいる時。
「先生―、ラズ先生―」
家の窓から子供の声が聞こえる。おや? と窓の外を覗いて見ると、7歳になる可愛い女の子、スーが居た。焦げ茶色の髪をおさげにして、真っ赤な頬っぺたでにっこり笑っている。
「スーどうしたの?」
「先生、父ちゃんと母ちゃんが、喧嘩して怪我をしたの」
またか、とラズは頭を抱えた。
ククルのところの夫婦喧嘩は恒例行事だ。普通の夫婦喧嘩どころではなく、包丁が飛べば、回し蹴りが飛ぶ、斧を振りかざせば、鍬で応戦。まさに命の危機を感じる大乱闘なのだ。子供の点前、少し控えたら、と進言してみたが、2人にとって夫婦喧嘩は、愛情表現のひとつだと反発された。なんて豪快な愛情表現だろう。当のスーは、笑いながら夫婦喧嘩を観戦しているのだから、きっと大物になる。
「直ぐ行くわ、ちょっと待っていて」
ラズは必要な物を持って、スーと手をつないでククル夫婦の家に向かった。
険悪な雰囲気の2人を残していくのは、それは、それは後ろ髪を引かれる思いだった。