水中花の涙 ―20―
夢を見た。
懐かしい夢だ。
まだユーアが若く、幸せだった頃の夢。
こよなく本を愛するユーアは、いつも自宅の図書室に篭っているような少年だった。
古い本に囲まれて、のんびり過ごす午後は、幸せの時間だった。
「ユーア、また図書室に居る! 今日は私とピクニックの約束でしょ」
本の山に囲まれているユーアの前に、可愛らしい少女が現われた。
朗らかに笑う太陽のような少女は、いつもユーアの手を引いて、図書室から引きずり出して、外を連れまわしていた。
じゃじゃ馬娘と、本の虫息子。
2人は田舎の下級貴族同士、親同士が決めた許婚。
幼い頃は、一緒に遊ぶ友達だったが、歳を重ねるごとに、お互いに思いやる心が芽生えていった。
それは次第に恋心に変わり、相思相愛の仲になるにはそう時間がかからなかった。
しかし、2人の仲は嫉妬に狂った、ひとりの女によって引き裂かれた。
美青年に成長したユーアに横恋慕した女は、ユーアの婚約者に嫉妬の炎を燃やしたのだ。
婚約者の家は社交界から追い出させ、家を断絶させられ、身に覚えのない借金まで負わされた。
婚約者は借金の形に花街に売られたしまったのだ。
ユーアは2人で逃げよう、と婚約者に言った。
しかし、婚約者は首を縦には振らなかった。
「今、私が逃げたら、父や母はどうなるの? 家はどうなるの?」
下級貴族のユーアには何も出来なかった。
最愛の女性1人を助けることの出来ない自分が、どれほど惨めに感じたか。どれほど悔しかったか。
その夜、2人は月の下で契りを交わした。
青い白い月に照らされた彼女の裸体は、息を飲むほど美しかった。
翌朝、シーツに包まり、対の指輪をお互いの指にはめた。
「この指輪、あなたの瞳の色と同じ色ね」
翡翠色の指輪。
その指輪をはめて、ユーアは身を粉にして働いた。
彼女を花街から身請けするだけの大金を稼ぐために。
しかし、お金を貯める前に、婚約者のいる町が戦火に飲み込まれてしまった。
ユーアが駆けつけた時には、すでに町は灰に帰していた。
薬指にはめた、翡翠の指輪が熱い。
――彼女はどこに?
ユーアは絶望的な状況の中、ただひたすらに婚約者を探した。
そんな時、ユーアの耳に、小さな泣き声が聞こえてきた。
――誰かが生きている。
ユーアは急いで瓦礫を退かした。
子供だ。
まだ小さな子供が、地下室で泣いていた。
顔も髪もススで汚れ、真っ黒な少年。
唯一判別できたのは、瞳の色。
――翡翠のような碧の瞳。
ああ、そうだ、港町で出会ったあの少年。
どこかで見た記憶があると思ったら、花街でたったひとり生き残ったあの時の幼子だ。
大きくなったな。
婚約者を失ってから、ユーアは命を捨てたように戦った。
それは皮肉にも、英雄クリシナの金の盾と呼ばれるようになっていた。
権力や財産を手に入れても、大切にしたい人は、もう、いない。
寂寥の思いが込み上げてくる。
* * *
ユーアはゆっくりと碧の双方を開き、夢の世界を振り払った。
「目が覚めたか?」
老人の声がした。
ユーアが、声のした方に顔を向けると、痩躯の老人が歯の抜けた口を開けて、にっこりと笑った。
(ここはどこだ?)
ユーアが起き上がろうとすると、首筋に鈍い痛みを感じた。
「うっ!」
記憶が瞬時に蘇る。
英雄クシリナを探して、村に辿り着こうとした時、突然襲われたのだ。
襲っていたのは山賊だろうか?
斧で、旅人に襲い掛かる、山賊がいるのだろうか?
ここは悪漢のアジトなのだろうか?
様々な疑問がユーアの脳裏に駆け巡る。
ユーアは、俊敏に体を起こし、腰に手を当てた。
――剣がない!
「大丈夫じゃ、ここには老いぼれのワシしかおらん」
痩躯の老人がひゃっひゃっひゃと笑っている。
ユーアは、質素ながら清潔なベッドに寝かせられ、小さな小屋に老人と2人っきり、大きく開け放たれた窓からは、蝉時雨が聞こえてくる。
ベッドの脇には、ユーアの剣と荷物がきちんと置かれていた。
物取りが目的で襲ってきたわけではないようだ。
逃げようと思えば、簡単に逃げられる。
「貴様、何者だ!?」
ユーアは“逃げる”という選択肢を捨て、目の前の飄々とした老人を見据えた。
「ワシか? ワシはしがない老人じゃ」
「……ここは何処だ?」
「小さな農村じゃよ」
農村? ユーアは口の中で呟いた。
納得がいかない。
山賊に襲われたのなら、今頃、身包み剥がされて、道端に転がっていたはずだ。
それが、看病を受けて、きちんとしたベッドに寝かされている。
この村はどこかおかしい。
この村に向かう途中から、ひしひしと感じていた。
兵法を用いた、幻惑術。
旅人を惑わせ、村にたどり着けないようにしてある。
なまじ知識のあるユーアだからこそ、警戒されたのだ。
眼鏡を失くし、道に迷っているうちに幸運にも村に辿り着いた者も居たが、この村に来る者は、ほとんどが、村人たちが連れてくる。
アンも、ラズもユンユも村長の息子のダトンに連れてこられた。
一見は普通の小さな村だ。
しかし、ユーアを襲った男も只者ではなかった。
高度な兵法を用いてまで、隠したい村。
(何かを守っているのか?)
ユーアは考える時の癖で、薬指にはめた翡翠の指輪を、親指で摩った。
* * *
ユンユは着替えを済ませて、母親の形見の翡翠の指輪を首に掛けなおした。
「やっぱり、ズボンが1番だ」
ユンユは昨日からずっと女装をしたままだった。
夜も部屋中の鍵を閉めたにも関わらず、鬘を被ったまま寝た。
神経がささくれそうだ。
朝食を済ませると、一目散に町に繰り出し、本来の男の姿に戻ったのだった。
「ここが、工房かあ。でっかいな」
ユンユが見上げる先には、巨大な工房があった。
ロサが生徒たちを連れて来た工房だ。
女学院には男性がひとりもいない。
学生も教師も、めったに男性と会うことがない中、この工房が異性と触れ合う唯一の機会だ。
ロサの片想いの相手は、たぶんこの工房に居る。
そう目星をつけたユンユは、ロサの捜索をこの工房から始めることにしたのだ。
しかし、どうやって工房の中に入ろう?
騒ぎは起こしたくない。
「ちょっと君」
ユンユが工房を見上げていると、声を掛けられた。
振り向くと、少女が立っていた。
「やっぱり、あなた、昨日の!」
少女、リーザがユンユを指差して叫んだ。
(なんで彼女がここに!?)
ユンユは焦った。
リーザは今頃、学院内で勉強中のはずだ。
「人違いじゃありませんか?」
ユンユは内心の焦りを隠して、にっこり微笑んだ。
昨日は、女装をしていたし、このまましらばくれよう。
「ふん、白を切ろうなんて、馬鹿なことを考えるのはよしなさいよ。私は黒子の位置まで覚えているんだからね。この変態!」
「へ、変態……」
「女装して、女学院に忍び込むなんて変態じゃない。女装癖?」
「違っ!」
女装が趣味だなんて、ありえない。ユンユは血相を変え、全力で否定した。
「あら、じゃあ教えてちょうだい。どうしてロサ先生の部屋に忍び込んでいたの?」
「…………」
教えていいものだろうか。
教えればリーザも事件に巻き込んでしまう。
ユンユは唇を噛んで思案した。
「君たち、工房の前で痴話喧嘩は止めなさい」
深みのあるバリトンの声に、ユンユとリーザが同時に振り向いた。
声の主は、絵の具で汚れた服を着て、手には筆を持っている。
明らかに工房の画家だ。
「おや、君はリーザじゃないか? 学校はどうした? 1人で来たのか?」
画家がリーザを見ると、リーザは申し訳なさそうに縮こまった。
ユンユはリーザの後ろめたそうな行動に、ある事に気付いた。
「学校をサボったのか?」
ユンユがリーザにしか聞こえないような小さな声で囁いた。
リーザの顔が赤らむ。
それは肯定を意味している。
ユンユは、心の中でニヤリと笑うと、画家に向かって天使のように、にっこり微笑み片手を差し出した。
「はじめまして、リーザの従兄弟のユンユです。昨日この町に着いたばかりで、今日はリーザに観光案内を無理やり押し付けてしまったんです」
スラスラと嘘をつくユンユを見て、リーザは呆れたように口を開いた。
画家がリーザを呼ぶまで、彼女の名前すら知らなかったのに。
ユンユは、リーザに向かって片目を瞑ると、口裏を合わせるように促した。
「そうだろ、リーザ」
「え、ええ」
リーザがぎこちなく頷く。
「それで、ここは素晴らしい工房だと聞いたので、連れてきてもらったのです。中を見ても良いですか?」
ユンユはにっこり微笑んで、無邪気な従兄弟を演じた。
「かまわないが……」
画家の返事は歯切れが悪い。
見られたら悪い物でもあるのだろうか?
ユンユは疑問を抱きながら、工房に足を踏み入れた。
* * *
ユンユとリーザに話しかけてきた画家は、美人画で有名なサディとう男だった。
30代のなかなかの男前だ。
(この人がロサの片想いの相手だろうか?)
「彼が、ロサ先生の恋のお相手よ」
まるで、ユンユの心を読んだように、リーザがユンユの耳元で囁いた。
「昨日、あれから私もロサ先生の日記を読んだのよ。だからここに来たの」
「どうして、彼がロサの恋の相手だと分かるんだい?」
「私はロサ先生と一緒にこの工房に来たことがあるの。その時のロサ先生はなんていうか、上の空って感じで彼を見ていたの。その時は気にも留めなかったんだけど、日記と照らし合わせると、そうとしか考えられないわ」
「…………なるほど」
ロサの事を知る人物が居るのは便利だ。
そう思いながらユンユは工房を見渡した。
顔料臭い。
細密画を主とする工房は油絵が主力。
岩石を細かく潰し、油で溶く絵の具は独特な匂いがするのだ。
時には、解き油と混ぜると有毒性ガスを発生させる岩石もある。
画家の卵たちが、顔料の性質を学びながら、岩石を砕き、熟練の画家たちが腕を競い合う。
たくさんのキャンバスが並び、下絵から仕上げまで流れ作業だ。
サディはこの工房でも1,2を争う有名な画家だそうだ。
サディの描く美人画は驚くほどの値段が付き、女性たちはこぞって自画像を描いてもらいたがってるのだとか。
「リーザ、最近ロサはどうしている? 学院長に聞いたら、急に実家に帰ったそうだが、君なら手紙の遣り取りをしてそうだと思ったんだ。こっちには何時帰ってくるのか聞いてないか? ロサの自画像を描く約束をしているんだ。リーザどうした、青い顔をして気分が悪いのか?」
サディが心配そうに聞いた。
リーザはユンユを見てからサディに向き直った。
「ロサ先生は……半年も前から行方が分からないの」
「――!?」
サディの目が驚愕に見開かれ、顔がさっと青ざめた。
「ロサは実家に帰ったんじゃないのか?」
リーザが頷く。
「じゃあロサは、ロサは何処に!?」
「わからないの」
「クソッ、学院長が嘘を付いたんだな。今すぐとっちめに――」
「学院長はロサ先生の行方はご存じないわ」
「どうして分かるんだ」
「昨晩、学院長とお話したの」
「また、嘘を付いているかもしれないだろ」
サディの興奮とは逆に、リーザは落ち着いている。
ユンユはサディの姿を静観しながら、ロサの想いは一方通行じゃなかったのでは、と思うようになっていた。
「学院長は嘘をつく時、少しだけ鼻の穴が広がるの。本人も自覚のない癖だと思うわ。だから学院長は本当にロサ先生の事は知らないみたい」
「そんな事で――」
信じられるものか。サディの続けようとした言葉を、ユンユが止めた。
「待って下さい。リーザは僕の黒子の位置まで覚えているほど観察力と記憶力が優れています。ロサの事を心配すのは分かりますが、ここはリーザが正しいと、僕は思いますよ」
「じゃあ、ロサは何処に……」
「ひとつだけ僕に心当たりがあります」
そう言うとユンユは、ポケットからオルマ子爵の紋章が入った指輪を差し出した。
「この指輪は、ロサの部屋で見つけました。ロサのような庶民が紋章入りの指輪を持っているのは変です。コレは代々直系のみに受け継がれる指輪。彼女の手にコレがあるという事は、何か事件に巻き込まれたのではないでしょうか」
「…………この指輪は、俺の指輪だ」
「えっ!?」
ユンユとリーザは驚いて、青い顔をしたサディを見つめた。
「俺は、この工房の前に置き去りにされた捨て子だったんだ」
篭の中に入れられ、手紙ひとつない赤ん坊。篭の中には指輪がひとつ。
普通の庶民には、紋章入りの指輪がどういった価値のモノかはあまり知られていない。
ひと目で紋章が見分けられるというのは、天才的な記憶力と勤勉なリーザだからこそ出来たのだ。
「俺は自分がどこの誰なのか、ずっと不安だったんだ。ロサに相談すると、学院内の図書館で紋章を調べることが出来るというから、指輪を彼女に預けたんだ。それが彼女にあった最後の日さ。指輪のせいで彼女は事件に巻き込まれたのか?」
サディの声が震えている。
「昨夜、オルマ子爵に会いました。指輪のこともロサの事も知らないそうです」
「オルマ子爵に会った!? 庶民がおいそれと貴族に会いに行けたわね」
リーザが驚くのも無理がない。
貴族と庶民の生活は、天と地ほど違うのだから、めったに会うことはない。
「まあ、ちょっとしたツテで」
ユンユは引きつった笑いを浮かべた。
アンの、英雄クリシナのお陰とは、口が裂けても言えない。
「会いに行こう」
サディが言った。
「俺は、オルマ子爵に会いに行かなきゃならない」
サディは指輪を握り締めた。
ユンユは首にかけてある翡翠の指輪を服の上から握り締めると、大きく頷いた。
ユンユ、リーザ、サディがオルマ子爵邸に向かうのを、影から眺めている占い師の老婆が居ることを、ユンユは知る由もなかった。




