水中花の涙 ―19―
「は~極楽、極楽」
のんびり温泉に浸かるのは、何年ぶりだろう。
ラズは50人ほど入れそうな巨大で豪華絢爛な温泉に浸かり、手足を伸ばしていた。
「肩こりがほぐれるわ~」
数年前まで、ハーレムの女性たちが寵愛を争い、美を競い、ひしめき合っていた浴場は、今や閑散としていた。
獅子の口から源泉が流れ落ち、浴槽から溢れ出していた。
湯の花の散る温泉は、少し硫黄の匂いがする。
“美と芸術の都”の全域が火山地帯であり、豊富に温泉が湧き出しているのだ。
ラズは温泉から腕だけを上げて、驚いた。
瑞々しい腕は、お湯を弾いている。
まるで、10代のような肌だ。
「すごいわ、お肌が若返ったみたい」
垢すりに、指圧、そして温泉と続き、お肌はつるつるだ。
自分の肌をうっとりと撫でる。
――これなら、アンさんに触れられても、平気だわ。
2人でベッドに横たわる姿を想像してしまったラズの顔が、カッと熱くなった。
何を考えているのよ、私は! それでもラズは、アンの口づけを思い出し、体が火照り始めた。
(このままだと、のぼせてしまう)
ラズは浴槽から出ると、冷たい水を浴びた。
体が引き締まる。
犬のように頭を振って、水分を飛ばした。
タオルで体を拭いても、潤いを保ったままの肌を見て、ラズは嬉しくなっきた。
『貴女の肌って、束子みたいにごわごわね。クリシナ様は貴女のどこがいいのかしら、私には理解出来ないわ』
数刻前の、オルマ子爵の声が蘇る。
「貴女の肌って、束子みたいにごわごわね。クリシナ様は貴女のどこがいいのかしら、私には理解出来ないわ」
肌がごわごわで悪かったわね。ラズはむっとしてオルマ子爵を見た。
オルマ子爵は、筋肉自慢のオカマだけあって、日々の行き届いた手入れで、その肌は糖蜜のように潤っている。
まったく、私の回りの男性は、どうしてこう肌が奇麗なのかしら。ユンユやアンの美しい肌を思い出して、ごわごわ肌の自分が女として悔しくなってきた。
「アンさん、じゃくて、クリシナ様がどうして、ごわごわ肌の私を思ってくださるのかは、私でも不思議なんです。誰かに教えてもらいたいくらいだわ」
その答えを知るのは、アンしかいないだろう。
オルマ子爵は眉間にシワを寄せて、ラズを観察した。
「ねえ、貴女。クリシナ様の事を“アンさん”とか気安く呼んでいるけど、まさか、彼が王子だと知らないの?」
――王子?
目を見開いたラズを見て、オルマ子爵がため息を落とした。
「やっぱり知らなかったのね。吟遊詩人が謡っているじゃない。王のご落胤だって」
英雄クリシナが、王のご落胤。
当然、その事はラズも知っている有名な作り話だ。
「でも、それって、あくまで作り話かと……」
「確かに、クリシナ様はご落胤ではないわ。王妃が産んだ正当な王族よ」
「…………嘘」
「あまり、知られていない話だけどね」
「でも、彼は、牛飼いのはずじゃ……」
「ええ、そうよ。理由は知らないけど、王が自分の子供、クリシナ様を殺そうしたの。そこで宮廷医師がこっそり逃がしてやったんですって。それでクリシナ様は身分を隠して、牛飼いをしていらっしゃったのよ」
ご苦労をなさったでしょうに、とレースのハンカチで目尻を拭くオルマ子爵を横目に、ラズは呆然と立ち尽くしていた。
アンは、彼は本当に古から続く王家の血を引く者なの? ラズの頭が真っ白に染まった。
アンの存在がどんどん遠くなる。
彼は王になるべくして産まれた存在なのだ。
私とは身分が違いすぎる。心のどこかで、アンが自分と同じ庶民の出だという事で安心していたところがあったのだ。
「彼は本当に王者なのね……」
「知らなかったのね」
オルマ子爵は呆れたように言った。
「ええ……」
ラズは操り人形のように、こくんと頷き、考え込むように、黙ってしまった。
それに苛立ちを募らせたのはオルマ子爵だ。
「んもう、湿っぽい! じめじめした悲劇のヒロイン気取りの女は嫌いよ! やっぱり納得が行かないわ! どう見たって背の低い、只の女性じゃない。これと言った魅力もないし! 貴女、惚れ薬かなにか使ったんじゃない?」
ラズはギクッとした。
惚れ薬なんて使ったこともない。
それでも、昨日、占いの老婆から貰った惚れ薬が鞄の中にあると思うだけで、なぜか後ろめたい思いをしたのだ。
ラズの目が泳ぐ。
オルマ子爵は、ラズのその表情を見逃さなかった。
「貴女! 本当に惚れ薬を使ったの!?」
「違うわよ! 第一、惚れ薬なんて子供だましじゃないですか。効果はあると思えません!」
「あら、この都にはよく効く惚れ薬があるのよ。まるで魔法みたい効果てきめんなんですって。何処からともなく現れる怪しい老婆が売っているらしいのよ。最近は模倣品が出てきちゃって困っているの」
怪しい老婆。
ラズはもしかして、と鞄の中を漁った。
「……もしかして、コレじゃないですか」
ゆっくり振り向いて、オルマ子爵に老婆から貰った惚れ薬を見せた。
「それよ、それ! やっぱり惚れ薬を盛ったのね!」
「違います。昨日、占いの老婆から貰ったモノです。良かったら差し上げますよ」
ラズは惚れ薬をオルマ子爵に差し出した。
「いらないわ、恋は駆け引きが楽しいのよ。こんなモノつまらないわ」
オルマ子爵は、ふん、と惚れ薬を孔雀の扇子で叩いた。
その拍子にラズの手から惚れ薬が落ちて、高価な絨毯に落ちてしまった。
「大変!」
ラズは大急ぎで惚れ薬を拾い上げた。
割れはしなかったものの、蓋が外れて絨毯にシミを作っている。
むせ返るような薔薇の香りが部屋中に立ち込めてきた。
「うえっ、すごい匂い!」
鼻をハンカチで押さえたオルマ子爵が大急ぎで、窓を開けた。
ラズは絨毯のシミをタオルでふき取っている。
――この匂いどっかで嗅いだような?
薔薇の香り、とラズが頭をひねっていると、メイドたちがやって来て、ラズは邪魔にならないように、その場を離れた。
薄らいでいく薔薇の香り。
――そうだわ、この香り、花珠様と同じ香りだわ!
* * *
「花珠様、アン様が来られました」
神官が告げた言葉に、祈りを捧げていた花珠様の顔がパッと輝いた。
その表情に神官は一抹の不安を覚えた。
花珠様に魅了された男たちは大勢いる。実際、神官もその1人だ。
絶世の美女で、慈悲深く叡智に長け、それでいてお高く止まらない、素晴らしい女性。
大金持ちから爵位持ち、と花珠様に一目ぼれして、熱烈に求婚してくる者が後を絶たない。
しかし、あのアンという男は花珠様を見ても、眉ひとつ動かさない。
アンという男がラズという女性にぞっこんなのは誰が見ても分かることだ。
花珠様が失恋するなど、想像が出来ない。
想像が出来ない分、花珠様がどれほど悲しまれるのか、不安なのだ。
アンの元へ向かう花珠様の背中を見送りながら、神官はため息を落とした。
「アン様、お待たせしました」
花珠様がアンの待つ部屋に、ゆっくり足を踏み入れた。
薄い衣は、その妖艶な体を隠しきれていない。
豊満な胸に、くびれた腰、柔らかいカーブを描く腰。
歩くたびに足にまとわり付く長いスカートは、素足よりなまめかしい。
「今日は、ラズ様やミチュ様はおられないのですね」
2人っきり。その事が、花珠様の心に疼いた。
「ああ」
アンの短い言葉に、花珠様が満足そうに微笑んだ。
「今日はどういったご用件でしょう?」
「ロサの事だ」
アンの言葉に、花珠様の顔から笑顔が消えた。
「情報は?」
アンは侮蔑な態度で聞いた。
いままで、男性にはちやほやされて来た花珠様には、アンの態度が解せなかった。
「情報はまだ何も……」
「そうか、それじゃあ邪魔したな」
「お待ちください!」
「何だ?」
「あの、もう少し、ここに居て欲しいのです」
「何故だ?」
「……何故って」
わたしくしと一緒に居て欲しい。 その言葉が喉までせり上がってきた。
他の男たちだったら、1秒でも長く、花珠様の側に居たいと望む。
それなのにアンは、花珠様を歯牙にもかけない。
屈辱だった。
花珠様は、震える唇を開いた。
「怖いのです」
「怖い?」
「はい、昨日のような乱闘騒ぎが起こったら……」
「そうか、しかし俺には関係ない話だ。早くラズのところに帰りたい」
そう言うとアンは、花珠様に背を向け、一陣の風のように去っていった。
「……ラズ様」
ひとり取り残された花珠様は、呆然とラズの名前を口の中で呟いた。
* * *
アンは子爵邸に帰る前に、鍛冶屋に寄っていた。
“美と美術の都”は匠たちが集まり、腕を切磋琢磨して磨き上げる。
鍛冶屋も一流が揃っている。
アンは荷物から、見事な水晶のような鉱物を取り出した。
名もなき村で雷が落ちた翌日。
落雷を受け、折れた大木の中から見つけたものだ。
美しく、硬い鉱物を剣に鍛えなおせないだろうかと、鍛冶屋に持ち込んだのだ。
「コレは不思議な物じゃのう」
老齢の鍛冶師が言った。
「鍛えられるか?」
「ワシを誰だと思っているのじゃ。コレを鍛えることが出来るのは、ワシだけじゃ! 久しぶりに腕が鳴るわい」
この鍛冶師は、その世界で右に出るものがいないと言う、有名な鍛冶師の第一人者だ。
「それと、鞘はコレを使ってくれ」
アンはククルから貰った、白い鞘を鍛冶師に渡した。
孤高の獣、花守と戦い。不死と言われた化け物、金蚕蟲を倒し、鞘だけになったククルの剣。
村を出る前に、ククルからお守りとして貰ったのだった。
鍛冶師は、その鞘を見ると驚愕に目を見開いた。
「お前さん! コレを何処で手に入れたんじゃ!」
「農民に貰った」
ククルは子煩悩な農民だ、それ以外、アンは知らない。
「なんと……」
鍛冶師は、絶句した。
「その鞘は使えないのか?」
「いや、この鞘……懐かしい、昔、ワシが打った最高傑作じゃった」
老齢の鍛冶師は懐かしむように、鞘を撫で、剣の主を思い出していた。
『傭兵王ククルの剣』
決まった主を持たず、金額次第で誰にでも雇われ、忠義などまったくない、死神のような男。
誰もが恐れ、味方に欲しがった。
しかし、数年前にその姿をぷっつりと消したまま、現れたことはないという。
誰もその行方を知らない。
もし、彼が敵国に雇われていたら、未だに戦争は終結していないだろう、とまで言われている。
暗殺されたと噂されているが、定かではない。
* * *
「どうなっているんだ、この村は」
ユーアはクリシナが居るという村に、なかなかたどり着けなかった。
見事に配置させた石や岩が、錯覚を起こし、人間を惑わせる。
兵法のひとつにある、人工的に作り上げた迷路だ。
普通の者なら、たどり着けなかっただろう。
しかし、ユーアにはクリシナの元で国随一と言わしめた軍師としての知識がある。
「不思議な村だ」
ユーアは好奇心を刺激された。
この村には、頭脳の長けた者がいる。
そして、何かを隠している。
そう思った瞬間、ユーアは殺気を感じ、咄嗟に剣を抜いた。
流れるような動作で、迫り来る攻撃を受け止めた。
剣が受け止めたのは、斧だった。
「おや、なかなかやるね」
斧を持った大男、ククルがニヤリと笑った。
従者はすでに、大地に伸びている。
「何者だ!」
「俺はこの村の農民だべ」
農民と言いながら、斧を振るうククルの腕はクリシナ様に匹敵するかもしれない、とユーアは思った。
と、その時、うなじに鋭い痛みを感じ、ユーアの意識は深い闇の中に消えていった。
「腕が落ちたんじゃないの?」
ユーアの首筋に手刀を落としたオリスが、冷ややかに言った。
ククルは妻のオリスを恨めしそうに見てから、口を尖らせた。
「この村に移り住んで、数年。久しぶりに、腕の確かな奴と対決できると思ったんだべ。人の楽しみを奪ってしまうなんて、いけずな奴だべ」
「ふん、あんたは昔からそんなんだから、詰めが甘いのよ。敵を倒すときは迅速に、ソレが掟よ」
「ソレは暗殺者だけの掟だべ」
「なんか文句あるのかしら、旦那様」
「なんでもないべ、それよりこの貴族様方どうするべ」
ククルとオリスは金髪に奇麗な顔のユーアを見下ろした。
「とりあえず、長老に聞きましょう」