水中花の涙 ―18―
「こんばんは~、足の調子はいかがかしらん?」
ぶらりと、ラズの部屋に入ってきたのは、オルマ子爵だった。
玉虫色の寝間着を着たオルマ子爵は、両手にホットミルクを持っている。
「オルマ子爵、どうされたのですか?」
ラズはホッとしたような残念だったような複雑な気持ちを隠して、上半身を起こした。
オルマ子爵は、遠慮なくラズの寝台に腰を掛けると、ホットミルクをラズに渡し、にっこり笑った。
「はい、どうぞ。よく眠れるように持ってきてあげたわよ」
ラズはおずおずとホットミルクを受け取ると、立ち上る湯気を見つめて、ため息をつく。
「ごめんなさい、晩餐会を中止にさせてしまって……」
結局、晩餐会は取り止めになったのだった。
ラズはその事で、とても落ち込んでいた。
「本当よね。あんなに見事にずっこけるとは、久しぶりに大爆笑したわよ。ねえ、ところで……」
オルマ子爵は、そこで一旦言葉を切ると、いそいそとラズの布団に潜り込んできた。まるで、恋の話に花を咲かせる、女の子同士のパジャマパーティーのようだ。
しかし、相手は異性に興味がないとは言えども、男性。
しかも子爵。
ラズはどう接していいのか戸惑ってしまった。
「あ、あの?」
「あなた、クリシナ様の何?」
ずばり、オルマが聞いた。
「何、と申されても」
「私の知っているクリシナ様は、何かに執着することがなく、いつも憎らしいくらいに飄々としていたわ。決して、女性に心を奪われたりしなかったもの、女性を抱く時だって、冷静そのものだったそうよ」
女性を抱く時、ですって。アンが見知らぬ女性を抱いている姿を思い描いたラズは、怒りを感じて、熱いホットミルクを一気に飲み干した。
ホットミルクは少し、お酒の味を感じる。
しかし、今のラズにとってそんな事は、どうでも良かった。
何故、こんなに腹が立つのだろう?
アンに今まで女性が居ないという方が不思議だ。
別に彼が今まで何人の女性を抱いたかなんて関係ない!
「私は、アンさんの何でもありません!」
「そんなわけないじゃない、あのクリシナ様が、貴女のことになると顔色を変えるよ。クリシナ様のあの目。貴女を欲しがっているわ」
「欲しがるって……」
「もう、やっちゃた?」
「――っな!」
ラズは顔が赤くなるのを感じた。
「まだなのね。焦らしているの? あのクリシナ様を!?」
「別に焦らしているわけじゃないわ」
「だったら、どうしてクリシナ様と寝ないの。クリシナ様は貴女を求めているわよ」
「私は、誰かとすぐ寝るような、軽い女じゃないわ! それに――」
「それに?」
オルマ子爵が、先を促す。
「わ、私は、彼に相応しくないわ。彼にはもっと身分が高くて、美しい人が似合う」
王者の風格をもつアンには、王妃のような女性が似合う。
「はっ、貴女何様! あのクリシナ様がちんけな貴女に惚れているのよ! 体ぐらい差し出しなさいよ。貴女より身分があって美しい女性が、クリシナ様に報われない想いを抱えているのを私は知っているわ。それなのに貴女ったら自分は相応しくない、とかぐだぐだ言っちゃってさ、何よ悲劇のヒロインぶって。どうしてクリシナ様はこんな小娘がいいのかしら」
オルマ子爵がラズの頬っぺたをつまむと、突然、ラズの瞳から涙が零れた。
「んまっ、涙は女の武器って言うけど。体は男でも心が女の私には、効果はないわよ! もっと華麗に泣きなさいよ。鼻水垂らしてんじゃないわよ」
「華麗に!? どうせ私はちんちくりんの栗鼠みたいな小娘よ! 目と鼻は繋がっているから、涙が出れば鼻水も出るのよ! ソレが自然なの!」
ラズはぼろぼろ泣きながら、オルマ子爵の胸倉を掴んだ。
鼻水をオルマ子爵の胸元でズビビビビとかむ。
「ヒイイ、ばっちい。いきなり何をするのよ! この小娘」
オルマ子爵はラズを押し返した。
ラズはオルマ子爵の髪を引っ張る。
「どうせ私は、ブスよ。ヒック。ちょっと、首絞めないでよ」
「私はそう言った女が嫌いだわ。自分をブスだって卑下するばかりで、美しくなるために、何の努力をしようとしない。女に生まれただけで胡坐をかいてんじゃないわよ。んま! よおくも私の髪の毛を抜いてくれたわね。禿げるじゃない!」
「うっさい! ヒック、私は美しくないわ。それなのに私の回りは美形が集まるのよ。父はナイスミドルだし、ユンユもミチュも天使みたいに可愛い。アンさんもすっごい奇麗。生れた時から美形に囲まれて、私だけが味噌っかすなのよ。ヒック!」
ラズの蓄積された不満が爆発した。
「ちょっと、もしかして貴女、酔っていない?」
オルマ子爵は、ラズの飲み終えたマグカップを見た。
隠し味に、少しだけお酒を使ったホットミルクは全部飲み干してあった。
「人の話を聞きなさい、ヒック」
ラズがオルマ子爵の胸倉を掴んで激しく揺さぶった。
泣いて潤んだ目が据わっている。顔も赤い。
完全に酔っ払いだ。
「泣き上戸。貴女、泣き上戸なのね! しかも暴力的!」
ラズがオルマ子爵のお腹に馬乗りになった。
寝間着がめくれ、太ももがあらわになる。
その時。
「――ラズ、起きているか?」
アンが部屋に入ってきた。
ベッドでもつれ合うラズとオルマ子爵が、同時にアンに顔を向けた。
泣いているラズ。
めくれた寝間着。
乱れたシーツ。
「…………」
空気が凍りついた。
鬼神と呼ばれたアンの怒りが一気にあふれ出す。
「ひい、誤解なのよおお――!!」
オルマ子爵の悲痛な叫び声が、星が瞬く夜空に吸い込まれていた。
* * *
(頭が痛い。がんがんする)
ラズは顔をしかめて、薄目を開けた。
朝日が眩しい。
眩しすぎて、目の奥が痛い。
まるで、二日酔いだ。
でも、お酒なんか飲んだ記憶がない。
(昨日の脱水症状が尾を引いているのかしら?)
ラズは再び目を瞑り、枕に顔を埋めた。
「……気持ち悪い」
「大丈夫か?」
アンの声が、すぐ近くから聞こえ、ラズは何気なく横を向いた。
そこに居たのは、ブロンズ色の引き締まった美しい上半身をさらした、神々しいまでのアンだった。
ラズとアンはキングサイズの豪華なベッドの上で、寄り添うように寝ていたのだ。
「――っな!?」
飛び起きたと同時に、ラズの頭が割れるように痛んだ。
「うう、頭ががんがんする」
ラズが頭を抱えていると、アンが手を差し伸べて、やさしくこめかみを揉んでくれた。
少し落ち着くと、ようやく周りが見えてきた。
とりあえず、自分は服を着ていることに安心した。
よく見ればアンもズボンをはいている。
「どうしてアンさんがここに?」
「覚えていないのか?」
アンがさも驚いたように聞いた。
「ええ、全然覚えてないわ」
ラズの言葉にアンは大きなため息を付いた。
「本当に覚えていないんだな?」
「……私、何か変なことしたの?」
アンの奇妙な顔に、ラズは不安を覚え始めていた。
「……昨夜はとても情熱的で、俺を世界で一番幸せな男にしてくれた夜だった」
「ど、どういうこと?」
ラズは顔を引きつらせて、聞いたが、アンは口角を上げて笑っただけだった。
ラズは自分の着ている服を確認した。
何もなかったはずだ。
しかし、ベッドのシーツが異様に乱れている。
普通に寝ていたら、こうはならない。
(もしかして、私がアンさんを襲ったの!? そんな馬鹿な!)
ラズは頭を抱えて、悶々と苦悩した。
アンは釈然としない想いを抱えていた。
昨夜、ラズはアンに抱きついてきて。
「どこにも行かないで、私の側に居て!」
と言われたとき言われたとき、どれほど心躍ったか。
2人の間には肉体的な事は何もなかった。
ただ、ラズは初めて、アンを求めたのだ。
――側に居て欲しいと。
アンはラズを抱きしめて、一緒にシーツに包まった。
アンの胸に顔を埋めて泣きじゃくるラズの頭を、優しく撫でているうちに、ラズは安心したように眠りに付いた。
涙と鼻水でぐしょぐしょになった服を脱いだ時も、ラズの手はアンのズボンをしっかり握り締めしめていた。
天にも昇るほど嬉しかったのに……。
それなのに、ラズは何も覚えていない? どれほど落胆した事だろう。
今、ラズは昨夜の記憶がないことで焦っている。
ラズが心配しているような、事は一切なかった。
しかし、ソレを教える気にはならない。
ソレぐらいの意地悪はしてもいいだろう。
ラズのことだ。何もなかった事ぐらい、すぐに分かるはず。
ラズは、そっとシーツを持ち上げた。
何の痕跡もない。
よく考えてみれば、体に痛みを感じない。
「アンさん、私を担いだわね」
ラズはアンを睨んだ。アンがニヤリと笑う。
「アンさん!」
大きな声を出した途端、頭が大きく疼いた。
「うう~」
ラズはこめかみを押さえて、頭痛の大きな波が去るのを待った。
やっぱり昨日、脱水症状になったからかしら? と考えていると、ベッドが軋んだ。
横を向くと、アンは静かに寝台から降り、上着を着込んでいる。
「アンさん、どこ行くの?」
「少し待っていてくれ、二日酔いの薬を貰ってくるよ」
アンはそう言うと、部屋を出て行った。
「二日酔い? 私、お酒なんて飲んでないわよ」
* * *
「退屈だ……」
ラズは大事をとって、未だにベッドに寝かされていた。
足の腫れもたいした事ないし、二日酔いも随分良くなった。
何時までも、グズグズ寝ていたくない。
起き上がって、ユンユやアンと一緒にロサを探しに行きたい。
ユンユもアンも朝食を食べると、ロサを探すため、町に繰り出してしまったのだ。
ラズはミチュと、子爵邸でお留守番。
ミチュは子爵未亡人と一緒に居る。
可愛い服で着飾り、お菓子を一杯食べさせてもらっているはずだ。
子爵未亡人は、ミチュの事を孫のように可愛がって、早くこんな可愛い孫が欲しいわと、現オルマ子爵の顔を見るたびに言っていた。
現オルマ子爵と、子爵未亡人は血の繋がらない親子だ。
子爵未亡人には子供が出来なかったのだ。
現オルマ子爵は、側室が産んだ子供。
そして、前オルマ子爵には大勢の妾が居たにも関わらず、子供は1人しか産まれなかったのが不思議だ。
しかし、前オルマ子爵はやっと出来た息子に大喜び。
疑惑に聞き耳を持たなかったのだ。
こうして、今のオルマ子爵が、爵位を継いだのだった。
「暇だわ」
「あら、お暇なの?」
ラズがため息を付いていると、巨大な襟巻きを巻いた、派手な格好をしたオルマ子爵がメイドを引き連れ、部屋に入ってきた。
「んもう、昨日はえらい目に遭ったわ。もう二度と貴女にお酒は飲ませないわ。一滴たりともよ!」
「……ごめんなさい」
昨夜はどうやら、アンとオルマ子爵に迷惑を掛けたみたいだ。
朝食の席でオルマ子爵に、何があったか聞いてみたのだが、オルマ子爵は蒼白になり、思い出したくない、と冷や汗をたらしながら言ったのだった。
いったい、何があったのか、想像するのが怖くなったラズは、それ以上聞かないことにした。
「足の調子はどうなの?」
「もう、随分良くなりました」
「そう、なら大丈夫ね」
「何が大丈夫なんですか?」
ラズが聞くと、オルマ子爵が良からぬ事でも考えているように、笑った。
「決まっているじゃない。レディーのたしなみよ」
「たしなみ?」
「お前たち、やっておしまい!」
オルマ子爵が、パンパンと高々に両手を打ったかと思うと、メイドたちが一気にラズを囲んで寝間着を脱がせ始めた。
「ちょ、ちょっと待って、何?」
焦るラズは必死に、抵抗する。
「ふふふ、見てらっしゃい。貴女を磨き上げて見せるわ!」