水中花の涙 ―15―
リーザにとって、ロサは恩師であり、尊敬すべき女性だ。
幼い頃から、才女と誉れのリーザは、両親の期待を背に、意気揚々と女学院に入学した。
しかし、女学院は頭脳ではなく、容姿に重きを置き、リーザのような頭でっかちの平凡な顔の少女には、針のむしろのような学園生活が待っていた。
毎夜、枕を濡らして過ごしていた。そんなある日、寮母であるロサが優しくリーザを慰めてくれたのだ。
枕に突っ伏して嘆くリーザの頭を、ロサは無言で撫でてくれた。リーザは今でもロサの優しい手の感触を忘れていない。
それからリーザは悲しいことがあると、ロサに会いに行った。愚痴を言ったり、泣いたり出来るのはロサの前だけだった。
リーザは暗澹たる思いで、ロサの部屋の前まで来ていた。
この部屋の住人は、半年も前からどこへ消えてしまったのだろう。悲しくて涙がこみ上げる。
バサッと何かが落ちる音がした。部屋の中からだ。
――まさか、ロサ先生が帰ってこられた?
リーザははやる気持ちを抑え、ドアノブに手を置く。
「あら、鍵が開いているわ」
いつもは回らないドアノブが、あっさり回った。
リーザはゆっくりとドアを開ける。
心臓が高鳴る。このドアの向こうにロサが居るかもしれないという期待が、いやおうなしに高まっていく。
リーザはドアの隙間から、そっと顔を覗かせた。
「――」
誰も居ない。
埃っぽい部屋は、ロサが居たころと何ひとつ変わっていない。ロサがいないだけ。
リーザはがっくりと肩を落とした。
そのまま、ドアを閉めようと思った時、勉強机の抽斗が、ほんの少し開いているのが見えた。
リーザは、部屋の中に入ると、抽斗をきちんと閉めた。
(でも、どうして、ロサ先生の部屋の鍵が開いていたのかしら?)
リーザは疑問に思いながらも、部屋から出るため、ドアに向かって振り返えった。
そこは、ドアが大きく開き、誰かが逃げ出す瞬間だった。
「――っ!?」
リーザは咄嗟に手で口元を押さえ、悲鳴を押し殺した。
誰かがロサの部屋に侵入していたのだ。リーザが部屋に入った時、ドアの視角に隠れ、リーザが部屋に入ると、入れ替わるように、侵入者は部屋を出て行ったのだ。
なんとも大胆不敵な行動だ。
一瞬だけ見えた、女学院の制服のスカート。侵入していたのは、ここの生徒? でも、どうしてロサの部屋に?
リーザは、ふと、ベッドの上に視線を向けた。
そこにあったのは、金髪の鬘。
* * *
「焦った~」
ユンユは緑生い茂る木陰に逃げ込み、額の汗を拭いた。
リーザがドアを開けた時、ユンユは咄嗟に、ドアの視角に隠れた。開いたドアと壁の隙間だ。
リーザが部屋に入った時点で、ドアを閉めていたら、ユンユは壁にへばりついた間抜けな姿で見つかっていただろう。
一か八かの賭けだった。
ユンユはホッと息を付くと、手に握った本を見て、ニヤリと笑った。
ロサの日記。
部屋から抜け出す時、コレだけ持ち出すことが出来たのだ。
人様の日記を盗み見る事は、良心が咎める。ユンユは、ごめんなさいと呟くと、日記を開いた。とても奇麗な字が並んでいる。
『某月 某日 晴れ
今日は、悲しい日だった。
生徒がまたひとり学院を去っていく。自分の顔が醜いと嘆き悲しみ、心を病んだのだ。
その生徒は可愛らしいお嬢さんだったのに、私は理事長に憤りを感じずにはいられない』
『某月 某日 曇り
今日は生徒を数人連れて、工房に行った。
生徒たちの肖像画を描いて貰う為だ。お嬢様方の肖像画は、結婚相手を見つけるための大切な小道具だ。
肖像画を見て、美しい女性を結婚相手に選ぶ男性も男性だ! まるで妻は顔だけで選んでいるみたいではないか』
『某月 某日 晴れ
今日も夜中に泣き声が聞こえる。
きっとリーザだわ。あの子は頭が良いだけあって、人よりプライドが高い。だから決して人前で泣かない。入学したてのリーザの目は、キラキラと輝いていた。あの頃の彼女に戻って欲しい』
『某月 某日 雨
今日は工房から肖像画が届いた。
どの肖像画も、本人より美しく描いてある。彼女たちがそう頼んだのだ。
私も彼女たちの気持ちが少しは分かる。私も自分が美しい母に似なかった事に、思春期の頃は悩んだものだ。どうして、私は父に似たんだと、父を泣いて困らせた事もある。ごめんね、父さん』
『某月 某日 曇り
今日は、つまらない1日だった』
『某月 某日 曇り
私は恋をした! 片想いだ。彼はとてもハンサム! 私は彼を眺めているだけで満足だわ』
『某月 某日 晴れ
今日は理事長と口論した。
人の価値は、顔の美醜ではない。私はそう思う。そうじゃなくって? この学院にいると、それが時々分からなくなる。でも私はリーザや他の生徒のためにも理事長に立ち向かうわ!』
ユンユはざっと目を通してから、パタンと音をたてて日記を閉じた。
ひとりの平凡な女性像が浮かび上がる。本当にどこにでも居そうな女性だ。
恋をして、楽しい日もあって、つまらない日もあって、生徒のために心を痛めて、大きなトラブルもない。
強いて言えば、理事長との確執。
もうひとつ気になったのは、片想いの相手。名前が書いてなかったのが残念だ。
日記で読み取れるのはここまでだった。
ユンユは、ロサの日記の表紙をさっと撫でた。
「ロサ、君はどこに行ったんだ?」
日記が答えてくれるわけもない。ユンユは大きなため息を落とてから、気合を入れなおすように、両頬をパンパンと叩いた。
「僕はまだ諦めないぞ!」
ユンユは辺りを見渡すと、木陰から抜け出した。服や頭に付く葉っぱを取る。
「……ん?」
ユンユは違和感を覚え、頭をぺたぺた触る。
あっ!
「――ヅラ忘れた!」
* * *
ユンユは危険を承知の上で、ロサの部屋に戻った。
鬘がなければ、下校時に堂々と校門から脱出できない。高い塀で囲まれた女学院の唯一の出入り口は、校門しかないのだ。校門には、門番が張り付いている。
緊張で汗ばんだ手を、スカートで拭い、ゆっくりと部屋のドアを押す。
誰も居ない。
ベッドの上に放り投げたはずの、鬘がなくなっている。
「くそっ」
つい、悪態をついてしまった。
「どうしたらいいんだ!?」
ユンユの金髪はうしろ襟に付くほどの長さだ。男子としたら別段気になる髪型ではない。しかし、ここは令嬢たちが通う、お嬢様学校だ。高貴な身分の女子が、短い髪をしているのは“じゃじゃ馬”と後ろ指を指されるだろう。
この髪型で校内を歩けば、目立つ事この上ない。教師に捕まり、理事長室に呼ばれて、なぜ髪を短く切ったんだと尋問されて、挙句の果てには、生徒でないのがばれて、男だとばれる……。
「最悪だ」
ユンユは頭を抱えて呻いき、ベッドにどさっと腰を下ろした。
「……ん?」
お尻に何か硬いものが当たっている。ユンユはベッドから下りると、カバーを乱暴にはいだ。
ころん、とベッドから転がり落ちてきたのは、指輪だった。
女性が装飾品として、指輪を持つ事は珍しくない。しかし、指輪がベッドから出て来た事に違和感を覚える。
「コレは、指輪。でもどうして指輪がベッドの中から?」
ユンユは指輪を拾うと、しげしげと眺めた。
貴族の紋章が入った、男性用の指輪だ。
貴族の紋章はその家々で受け継がれ、爵位や地位を表す大切な物だ。
「どうして、庶民のロサが、貴族の持ち物を……」
盗んだとあれば、死罪だ。
ロサの行方は、ますます迷宮入りして来た。
理事長の確執。
片想いの男性。
謎の貴族の指輪。
指輪の紋章を本で調べれば、どこの貴族のモノか分かるはずだ。
ユンユは掘り込まれた紋章を指で確認するように、人差し指でなぞった。
「冠に剣、それに薔薇……」
「それは、“オルマ子爵家の紋章”よ」
ドアの閉まる音と少女の声に、不意を付かれたユンユは、命が縮むほど驚いた。
ユンユは咄嗟に身構えて、戸口の少女に視線を向ける。
ユンユが指輪に気を取られている隙に、少女、リーザは、ロサの部屋に音もなく滑り込み、ドアを閉めたのだ。
その手には、金髪の鬘。
「コレ貴女の忘れ物でしょ?」
リーザがユンユに向かって鬘を投げた。
「貴女は何者なの? どうして、ロサ先生の部屋を嗅ぎまわるの?」
「……」
「私、記憶力がいいのよ。この学校の人間は全員顔を思えているの。あなたここの生徒じゃないわね」
「――っ!」
ユンユは絶体絶命の危機に陥ったのだった。
* * *
ミチュはどこを探してもいなかった。
「私が悪いんだ、私が手を離したから」
ラズは自責の念に駆られていた。あの時、占いの老婆に促されるまま、ミチュと手を離すべきではなかった。
ミチュがいない事に気づいたラズは、すぐに辺りを探し回った。
白金の髪の美少女、ミチュは人目を引いて、目立つはずだ。大声を出して辺りを懸命に探した。
しかし、幾ら探してもミチュの姿を見つけることが出来なった。
『…………ここ数ヶ月、この町では、うら若き女性が数名。姿を消す事件が起こっているのです』
数時間前に聞いた、花珠様の言葉が胸に突き刺さる。
まるで、あの時と同じだ。
ラズの脳裏に忌まわしい記憶が蘇る。
ユンユが誘拐された時、ラズは戦場で負傷者に付きっきりになり、幼かったユンユから目を離してしまったのだ。
天使のような女の子にしか見えない可愛いユンユを、好色なロリコン貴族が、将来自分の妻にするために、攫ったのだった。
そう、たしか、名前はオルマ子爵。
初老の子爵には既に何十人も、側室が居ると聞き及んでいた。
あの時は幸運だったのだ。子爵の正妻が、ラズの話を聞いて、ユンユを返してくれたのだから。
もしかしたら、この町で行方不明になったという、うら若き女性たちは、どこかの好色な男に奴隷として売られているかも知れない。
――ロサも、ミチュも?
そう思うと、ラズは背筋が凍りついた。
ラズは懸命に辺りを見渡す。
――探さなきゃ。探さなきゃ。
焦るばかりで、闇雲に走り回った結果、脱水症状を起こして、目眩がしてきた。
夏の日差しと、人ごみに酔って、吐き気を催す。
「ラズ、どうした?」
ざわめきあう町中で、聞きなれた声がラズを呼んだ。ラズは背中に逞しい身体を感じた。そう思った瞬間。ラズはアンに腕の中に抱き抱えられていた。
「アンさん!?」
「今にも倒れそうな顔をしているぞ」
アンは真っ青な顔をしたラズを軽々と抱き上げると、木陰に運んだ。
「アンさん、ミチュが、ミチュが居なくなったの!!」
アンは人のいない静かな木陰のベンチにラズを下ろして、水を取りに行こうとした。しかし、ラズはアンを必死で引きとめた。
「ミチュ?」
アンは辺りを見渡して、初めてミチュがいない事に気がついた。
「私がうっかり目を離したから、早くミチュを探さなきゃ」
ラズはよろめきながら立ち上がった。
「ラズ、駄目だ、倒れるぞ」
傾いたラズの体をアンが受け止める。
「ミチュを探さなきゃ」
「落ち着け!」
アンはラズの両頬を大きな手で包んで、鼻がくっ付きそうなほど顔を近づけた。金の瞳が、ラズの目を覗き込む。
「闇雲に探しても、見つかりはしない」
「そうだけど、じっとしていられないわ!」
ラズはアンの腕を放そうともがいた。
「今度、無茶な行動に出たら押し倒すと言ったはずだ」
「出来るものならやってみなさいよ!」
売り言葉に買い言葉、ラズは苛立ちまぎれに、とんでもない事を言ってしまった。後悔する暇もなく、アンの唇がラズの唇を襲う。
「ん~!」
巧みな口付けが、ラズの膝から力を奪っていく。立っていられない。アンの手が腰に回されていなかったら、その場に崩れ落ちていただろう。
アンは角度を変えて、ラズの口を味わう。
長い口付けが終った頃、ラズには自力で立って事が出来なくなっていた。アンの腕の中でぐったりとアンの逞しい胸によりかかり、肩で荒い息を付く。唇が腫れて痛い。
アンは名残惜しそうに、ラズをベンチに座らせると、指にはめていた魔法の指輪を外した。
「ミチュはすぐに見つかる」
アンがそう言うと、魔法の指輪が白い小鳥に変化した。
小鳥がアンの手の中から飛び立つ。
ラズは青い空を飛んでいく白い小鳥を、眩しそうに目で追いかけた。
白い小鳥が飛んで行く方向。その方角には、豪華絢爛な城のオルマ子爵邸がそびえ立っていた。