水中花の涙 ―13―
「うっわ~、すごい行列ね」
ラズは神殿へと繋がる長蛇の列を見て、目を皿のようにして驚いた。
小高い丘に鎮座する神殿。そこへ繋がる長い、長い階段。その階段が人間で埋め尽くされていた。
今から最後部に並んでも、今日中に神殿には入れないだろう。
「ヒトが、いっぱい!」
甲高い声に、ラズは後ろを振り返った。そこに居たのはアンと、アンに肩車されたミチュだ。アンの肩はミチュの指定席になりつつある。
美貌の2人がそろって歩くと、自然と人々が道を開けた。振り返っては眺め、立ち止まっては眺め、自然と視線を集めた。まるで王者の行進だ。
大きな飴を頬張るお転婆なお姫様、ミチュに、ラズは優しく微笑みかけた。
「そうね、すごい沢山、人がいるわね。ユンユが潜入捜査している間、有名な花珠様を見ようかと思ったけど、これじゃ無理ね」
ラズは肩をすくめて、再び長蛇の列を見た。美と芸術、そして海の守り神である神殿に参拝するほとんどの人が、男性の参拝者だ。
海賊のような屈強の男も居れば、文学青年のような芸術肌の男性まで幅広く参拝している。その中に年寄りや、病人の姿も少し混じっているようだ。
女学院の理事長までが嫉妬する花珠様を見たかったのだが、コレでは諦めるしかなさそうだ。
「他の所に行きましょう。この町は全体が芸術品だし、アトリエとか、見るところは沢山有りそうだわ」
「あとりえ?」
「そうよ、お絵かきしたり、粘土細工したりするところよ」
「おえかき!」
ミチュが喜んでくれたので、ラズは早速、アトリエに向かおうとした。
その時。
「喧嘩だああー!」
長蛇の列の方から、叫び声が聞こえた。
すると、瞬くうちに列が乱れた。逃げ惑うもの、我先に神殿へ向かうものと、押し合いへし合いの大混乱だ。
その混乱の中央に居るのは、海賊風情の筋骨隆々の男たちだ。列に並んでいる最中に、喧嘩をおっぱじめたようだ。理由はどうあれ、迷惑この上ない。
怒声と拳が飛ぶ生々しい音が響く。男たちはよほど腹を立てているのだろう、抜き身の剣まで取り出してきた。喧嘩というレベルではない、すでに殺し合いだ。
剣がきらめき、風がうなる。参列者は恐慌状態に陥り、悲鳴をあげて逃げ惑う。ドミノ倒しが起きて、圧死しかねない非常に危険な状態だ。
アンが咄嗟にラズを胸に引き寄せ、逃げ惑う人々から守った。
しかしラズは、アンの腕を振りほどき、逃げ惑う人々に押し倒された老人の元へ駆けつけた。
「大丈夫ですか?」
ラズは老人の二の腕を掴んで引っ張り起こした。
「ああ、ご親切に、ありがたや、ありがたや」
ラズは感謝にむせび泣く老人を、安全な場所まで引っ張っていこうとした。
ラズが顔を起こした瞬間。
風を感じた。
一瞬、左頬に熱い痛みが走る。
と、思った時には皮膚がすっぱり裂け、血が滲み出してきた。ラズの頬をかすめていったモノ。それは折れた剣先だった。
ぞっとした。少しでもずれていたら、間違いなくお陀仏だっただろう。
「ラズ!」
アンが血相を変えて、ラズの頬に手を添えた。手の平にラズの血が付く。恐怖の戦慄がアンを襲い、目の前が怒りで赤く染まる。
「大した事無いわ、かすっただけだから」
ラズの声が遠くから聞こる。耳のかなで羽虫が飛び交うような音がする。
アンが血のついた手を握り締めると、ゆっくりとミチュを肩から下ろした。黄金の瞳が、氷のように冷たく光る。
「……アンさん?」
ラズが恐る恐るアンに声を掛けた。血を見てからのアンの雰囲気がまるで違う。冷酷な空気をまとい、ゾッとするような静けさだ。
底知れない恐怖を感じたラズは、アンの肩から下ろされたミチュを胸にぎゅっと抱きしめた。
それを合図に、アンが動いた。
それは、瞬く間の出来事だった。
アンのひと回しの蹴りで、筋骨隆々の男たちが、紙屑のように吹っ飛んだ。風圧が波紋のように広がる。
たったひと蹴りで飛ばされた男たちは、起き上がることが出来ず、呻きながらのた打ち回る。
アンは緩慢な動作で、男の手から離れた、刃先の折れた剣を拾う。そのゆっくりとしだ動作は、死刑執行人が、死刑囚をいたぶるかのようだ。
アンは剣を片手に妖艶に笑った。凄まじく美しく、恐ろしい、笑み。
ラズは恐ろしさのあまり声が出なかった。足がすくみミチュをきつく抱きしめる。
アンの黄金の瞳が煌く。振り上げた剣に太陽の光が反射して、仰向けに倒れた男の瞳が恐怖に見開かれる。
――剣が振り下ろされた。
「――っ!」
静まり返った広場に、剣が突き刺さった音の余韻が微かに響く。
海賊風の男は、恐怖に目を丸めて、顔をかすめて地面に突き刺さる剣を見た。剣は男の顔の直ぐ横に突き刺さっていたのだ。
アンは剣を引き抜くと、男の腰にかかる鞘に剣を戻した。それを合図に周りから歓声が湧き上がった。
ラズは、つめていた息を吐き出し、腰が抜けたようにその場にへたり込んだ。
「ラズ、痛むのか? どうした?」
雰囲気が一転したアンが、おろおろとラズの頬に手を添えた。ラズは恐怖で痛みなど吹っ飛んでいた。
「腰が抜けた」
「こしぬけた?」
ミチュがラズの腕の中で、手足をバタつかせている。アンはミチュ諸共、ラズを抱え上げた。
「ちょ、アンさん!」
好奇の注目を集めたラズは、あまりにも恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。
「腰が抜けたんだろ、早く傷の治療をしよう。とりあえず清潔な水のある所に行かないと」
「でしたら、神殿にいらしてください」
鈴を鳴らしたような、凛とした声が響いた。
アンが振り向くと、そこには絶世の美女が堂々と立っていた。
――美しい。
美形に囲まれるラズでも、思わず、その美女の美貌には息を飲んだ。
長い黒髪は、漆黒の絹のような艶やかな光沢をおび、珠ような白い肌。黒曜石の瞳。慈愛に満ちた微笑。真珠色の薄い衣は、女性の豊満な体のラインを優しく覆う。官能的であり、神秘的な神々しい美女。
官能的な聖女。それがその美女を表す言葉に1番適切だろう。
「花珠様!」
周りの男たちが、陶酔したように平伏していた。
歴代で1番美しいと言われる“花珠様”に、ラズは非常に納得した。
* * *
「痛みますか?」
喧騒から離れた厳かな神殿の中で、花珠様がラズの頬に水で濡らした清潔な布を当てて聞いた。ひんやりとした布は、鈍い痛みを和らげてくれた。
神殿の中には、人工的な池が作ってあり、埋め尽くさんばかりの睡蓮が育てられている。その光景は圧巻するほど美しく、心を落ち着かせてくれる不思議な効果もあった。
ラズの高ぶった気持ちも随分落ち着いた。アンの事をあんなに恐ろしく感じたのは、初めてだった。思い出すだけども、寒いモノを感じる。
屈強な男たちの喧嘩を止めた、鬼神のようなアンは、一転して子煩悩な母親のように、ラズに甲斐甲斐しく接した。神殿の中でも、傷ついた小鳥を、羽の下で守る猛禽類の親のように、周りを威嚇しつつ、ラズの側を離れようとしなかった。
それが煩わしく感じたラズは、治療が終るまで、別間でミチュと待っていて欲しいとアンに頼んだ。アンもしぶしぶながら頷いた。
やっと周りが静まり、花珠様の心のこもった治療を受けながら、ラズは心の整理をしていたのだった。
「アン様は、とてもお強い方なのですね」
ラズは花珠様の言葉に、どう返事を返していいのか困った。実はアンは、あの英雄クリシナなんです。とはさすがに言えない。
とりあえず、ラズは曖昧に笑った。顔の筋肉を動かした瞬間、頬に痛みが走る。
「痛っ」
「まあ、痛みますか? この度は本当に申し訳ありませんでした。わたくしの不手際ですわ」
ラズの治療にあたる花珠様が、心から謝っているのがラズに伝わり、逆にラズのほうが動揺してしまった。
「滅相もありません! 花珠様は何も悪くありません。私の運が悪かっただけなんですから。それに、本当にかすっただけですから、気になさらないで下さい」
ラズは心配そうに顔を曇らせる花珠様に、安心させるように、痛みを堪えてにっこり笑った。
すると、花珠様もラズに微笑み返してくれた。なんて奇麗な笑みだろう。
「ラズ様は優しい方なのですね。それにしても、怖かったでしょう。折れた剣が直ぐ側を飛んでいったのですから」
「ええ、あの時はぞっとしました。でも助かったうえ、花珠様にもお会いできたのですから、怪我の功名です」
「まあ、ふふふ」
花珠様が優しく笑った。慈愛に満ちた、包み込むような微笑だ。
「さあ、軟膏を塗っておきましょう。傷が残らなければいいのですが」
「大丈夫ですよ。これくらい」
本当に少しかすっただけだというのに、アンも花珠様も大げさだ。ラズは内心、困惑していた。
花珠様は、迷惑を掛けてしまったから、とラズの治療だけではなく、豪華な昼餉にも招いてくれたのだ。
絨毯の上に並べられた豪華で美味しそうな食べ物。ミチュは遠慮することなく、たらふく食べている。アンはクッションにもたれかかり、傲慢な王者の風格で、憮然とラズを待っていた。
「さあ、これで大丈夫です。よく効く軟膏なんです」
花珠様が、ハマグリ貝の中に詰めている、白い軟膏を見せてくれた。
よく効く軟膏、と聞いて、医者としてラズの好奇心をそそられる。
「この軟膏は、何で出来ているんですか?」
ラズの質問に花珠様は、艶冶に笑った。
「それはお教えできません。企業秘密ですわ。でも、本当によく効くんです。明日には奇麗に治っていると思います。さあ、ラズ様もお腹が空いたでしょう」
そう言うと、花珠様はラズの手を、優しく包むと昼餉の間に導いた。ふんわりと薔薇の香りがする。
慈愛に満ちて、機知に富み、ずば抜けて奇麗で、優雅な物腰で、いい匂いがして。こんな女性が本当にいるとは信じられない。同性のラズでもついつい魅入られてしまう。
ラズが昼餉の間に着くと、アンが颯爽と立ち上がり、ラズの元へ駆けつけた。
アンはラズの手を花珠様から奪うように取ると、ラズをクッションに座らせ、じっと傷跡を見た。
「ラズ、痛むか?」
「ちょっと、アンさん。花珠様に失礼でしょ」
「かまいませんよ。アン様は、ラズ様の事をとても心配されていたのですから」
花珠様はクスクス笑っている。
「みちゅもね、しんぱい、してたよ」
口の周りに食べカスをつけ、お腹一杯でご満悦のミチュが言った。
なんて説得力のない言葉だろう。とラズは思ったものの、ラズはミチュの口の周りを拭いてやり、頬っぺたに感謝のキスを落とした。ミチュはキャッキャッと飛び跳ねて喜んだ。
その微笑ましい光景を、眩しそうに眺めていた花珠様が、厳かな雰囲気でラズたちの前に、ゆっくりひざまずいた。
「ラズ様、アン様、それにミチュ様。この度は多大な迷惑をかけて、誠に申し訳ありませんでした」
花珠様は深く頭を下げた。これに驚いたのはラズだ。
「そ、そ、そんな。頭を上げてください! 花珠様は全然悪くないんですから」
「いいえ、わたくしに非があります」
「非があるだなんて、とんでもない。喧嘩はたまたま起こったんですから」
「いいえ、今日は普段より警備が薄くなっていたのです。本来なら、衛兵たちがあの場に居たはずなのです。それなのに、わたくしの我が侭で衛兵たちを使ってしまったから」
花珠様の声がか細く震えている。
「我が侭? どうしてそんな事を?」
「…………ここ数ヶ月、この町では、うら若き女性が数名。姿を消す事件が起こっているのです」
「――っ!」
姿を消したのはロサだけじゃないんだわ。花珠様の告白にラズは鋭く息を吸った。
「それでっ、姿を消した娘たちは見つかったのですか?」
ラズは息巻いて聞いた。
「いいえ、残念ながら……」
花珠様は、悲しそうに首を左右に振った。絹のような黒髪が肩からサラサラと零れ落ちる。
「姿を消した女性の中には、わたくしの知り合いもいました。だから、わたくしは、衛兵たちを女性たちの捜索に回してしまったのです。すべてわたくしの独断。衛兵たちがいつものように列を監視していたら、今回のことも起きなかったでしょう。本当に申し訳ございません!」
「そんな、花珠様が悪いわけではありません。どうか顔を上げてください」
ラズは花珠様の横に膝を着くと、その顔を上げさせた。黒曜石の瞳が潤み、今にも涙が零れ落ちそうだ。
(なんて、可憐なのかしら)
花珠様には、守りたいと思ってしまう、可憐さがあった。
「花珠様、実は我々も人を探しているのです。“ロサ”という女性を知りませんか?」
ラズが尋ねた瞬間、花珠様の顔色が変った。
「ええ、わたくしの知り合いの女性というのが、その方です」
今度はラズが驚く番だった。まさに、棚から牡丹餅の話じゃないか。ラズは花珠様の手をしっかり握った。
「私たちも是非、その捜索に加えて下さい!」




