恋の狩人 ―4―
日に焼けた滑らかなブロンズ色の肌、しなやかな筋肉、割れた腹筋、広い肩幅に細い腰、きらめく汗。
上半身裸で薪割りをして、むやみやたらにフェロモンを撒き散らす男――アンさん。
「……薪を、割りすぎよ」
診療所から帰宅したラズは、山積みになった薪を見て驚いた。
――確かに、薪割りをして欲しいとは言った。まさか、家より高く積み上げられた薪を見るとは思わなかったのである。
(……これだけの薪を何処に貯蔵しろっていうのよ。ご近所に配るしかないわね)
「世話になっているからな、少しでも礼がしたいんだ」
アンは、額にキラリと光る汗を手の甲で拭いた。
ラズはこそばゆい気分だ。嬉しい事を言ってくれる、それでも医者としては、ひと言いわなくては気が済まない。
「ありがとう。でもね、アンさんは病み上がりなのよ、無理は禁物よ!」
ラズの言葉に、一瞬だけきょとんとしたアンは、嬉しそうに笑った。モジャモジャの髭から、白い歯がこぼれ出る様は、新種の動物のようだ。
「心配してくれるのか?」
「当たり前じゃない、春になったとは言え、夜は冷えるわ。汗を拭いて家の中に入りましょう」
太陽は山にかかり、巣に帰る鳥が物寂しい声で鳴く。澄んだ風は肌寒く、紅い夕焼けが目に染みる。
ラズは家の扉を開けると、大声を張り上げた。
「ユンユ、ただいまー!」
――沈黙。
家の中には、人の気配がしない。窓から差し込む夕日が誰も居ない部屋を照らす。
「ユンユ?」
再び声をかけても、返ってくるのは沈黙ばかり。
どこに行ったのだろう? ふと心配になる。まさか誘拐! 否、この村でそれはありえない。しかしユンユは小さい頃、誘拐されて、もう少しでロリコン貴族に売られる寸前だった。昔のユンユは可愛い女の子にしか見えなかったのだ。
嫌な思い出を振り払い、ラズは静かな家を見渡した。いつもなら、暖かいスープを用意して待っていてくれるユンユ。
帰りなさい、と笑顔で出迎えてくれる。そんな当たり前の日常。静かな家はあまりにもわびしい。
「ユンユなら居ないぜ」
背後から声をかけらたラズは、ユンユはどこに行ったの? と質問しながら振り返った。
アンは服を着ながら、家に入ってくるところだ。
「ユンユは薪を近所に配るって、台車に薪を積んで出かけたぜ」
「……もう配ってるんだね、薪」
――どれだけ割ったんだろう。そう聞くのが恐ろしかった。
「なあ、何で診療所と自宅と別けてるんだ? ラズが居ない間、ダトンが来てぼやいてたぜ」
「ダトンが来たの?」
「ああ、俺の新しい服と、剃刀、石鹸、それと……櫛、を持って来た。俺ってそんなに汚いか?」
「確かに、ダトンがここに連れてきた時は、汚かったわ」
今は……、とラズはアンの頭の先から爪先まで眺めた。
「そうね、ひどい臭いはしないし、垢まみれでもない、髭や髪はボサボサだけど、それぐらいは村人に何人も居るわ」
擦り切れた服に髭面、流石に“清潔”とは言いきれない。
しかし、アンの物腰は優雅で洗練されている。鍛え上げられた美しい身体は、一介の農民には見えない。かといって貴族にしては野性的だ。商人は絶対ありえない。傷だらけの身体を持つ傲慢な男。
――彼は何者?
厄介事に巻き込まれなければいいが、と思いながら、ラズは暖炉に薪を焼べた。
「で、なんで診療所と自宅を別々にしているんだ?」
アンは答えを聞くまで諦めない様子だ。ラズは小さなため息を零すと、口を開いた。
「……私の父も医者でね、小さい街の医者だったの。その頃は自宅と診療所が一緒だったのよ。父は“良い医者”だけど“良い親”ではなかったわ。悪い人ではなかったんだけどね……公私混同しちゃって、自宅に次々と朝夜問わず患者が来るのよ。幼い私にとって大変だった。家庭というものがなかったの」
ラズは暖炉に掛けてあった鍋を掻き回しながら、懐かしむように微笑んだ。
師である父は、町医者にしとくには勿体ないほどの名医で、寝ても覚めても医学の事ばかり。ラズの住む家には患者が押し寄せて来て、寝床を患者に譲った事も1度や2度ではない。
医学以外には無頓着な父に褒められたくて、ラズは医学を始めたのだ。
戦が始まり、生き別れになったが、今もどこかでその腕を振るっているのだろう。そんな気がしてならない。いや、きっとそうだ。自分が医学を続けていれば、再び巡り会える。それは確信に近い。
「私は家庭に憧れていたんだわ。それに、ユンユには少しでも家庭を味わってもらいたいの。4年前にこの村に住み着いた時に、診療所と自宅は別けたのよ」
そう、家庭が欲しかった。ユンユにも家庭を与えたかたった。
――それは身勝手な罪滅ぼし。
戦のさなか、あんなに小さな子供を連れ回し、揚げ句の果て、誘拐されるなんて、保護者として失格だ。
この村に来て、村長に諭されるまで、ユンユが心に傷を負っていた事に気づかなかった。
ユンユは泣いた事がなかった。手のかからない、良い子だと思っていた。
ユンユが泣いた日、ラズはこの村でユンユを育てると決めたのだった。
今だって、ユンユを1人にしてしまう時間が多い。しっかり者で大人びたあの子を見ると、誇らしく思う気持ちと申し訳ない気持ちが交錯する。
「……アンさんにも、待っている家族が居るかもしれないのよね。早く記憶、取り戻せたらいいね」
「記憶は戻らなくてもいいさ」
アンがあっけらかんに言う。
「はあ? 何言ってんの」
「俺はここが気に入った」
苦しゅうない。そんな態度で簡素な椅子に座るアン。自宅の椅子が玉座に見える。
座るのは髭モジャの野生味溢れた王様。
「馬鹿言わないでよ」
「何故」
「何故って、記憶が無いのは不便でしょ」
「別に」
「別にって……」
「俺はここが気に入った。ラズが気に入った。それだけだ」
あまりにも簡単に言ってくれる。
「……頭痛くなってきた。あなたの帰りを待っている人が居るかもしれないのよ」
「それは自分を投影しているのか?」
「投影?」
「忘れられない男が居るんだろ」
アンの言葉に、ラズの顔色が変わった。心臓をわしづかみされ、一瞬で血の気が引いた。
「いつまで、そいつの帰りを待っている気だ?」
いつの間にか真後ろに立ったアンが、ラズの耳元で囁いた。
「……アンさんには関係無いわ」
「関係あるさ」
アンはラズの細い肩に手を置き、自分の方を向かせた。
「ラズ……」
アンは指の背でラズの頬を優しくなで、その指にひと房の髪を絡めた。
ラズは、アンの優しい愛撫に呆然とした。
「俺は待つのが嫌いだ」
低い美声がラズの心臓を打つ。アンが指に絡めた赤茶色の髪を軽く引っ張る。
「現実はこうやって触れることができる。曖昧な記憶の中に何を夢見る必要がある?」
2人の間に漂う緊張感は、素っ頓狂な声に掻き消された。
「あら〜まあ〜! ラブシーンじゃ〜!!」
3組のキラキラ光る好奇心いっぱいの瞳。3姥姉妹が満面の笑みで窓から顔を出していた。
* * *
「この“ほうれん草とベーコンのパイ”美味しい! 頬っぺたが落ちちゃう」
ラズは、美味しいパイに感激した。甘味のあるほうれん草とベーコンチーズに絡めて、さくさくのパイ生地で包んである。サクッと食べたパイ生地から熱々のチーズが糸をひく。いくらでも食べれる。
「だべ! 春の祭に村の皆に食べて貰おうと思っちょるだべ。さあさあアンさん、たんとお食べ」
好奇心の固まりである3姥姉妹は、作りたての夕飯を片手に、いそいそと記憶喪失という男、アンを見に来たのだ。
パイにかぶりつくアンを、3姥姉妹は頬杖をついて見守っている。その姿は、まるで恋する乙女だ。
「食いっぷりに惚れ惚れするだべ」
「旦那を思い出すべ」
「ほらほら、髭にパイくずが付いとるべ」
ほうっと、桃色のため息をつくオバーチャン達。
まったくこの髭面は、不思議な魅力がある。人を引き付ける何かが。
「そう言えば、表の薪の山積みは何だべか?」
ふと思い出したように、トッコ婆がラズに聞いた。
「アンさんが割ってくれたのよ」
「それは、また、大量に割っただべな」
んだ、んだ、と相槌を打つおばあちゃん達。
「ラズのために、何かをしたかったんだ」
とアンが言えば、オバーチャン達は目を輝かせ、キャーと叫んだ。
「愛だべ! 愛!」
「先生にもやっと春が来たたべな!」
「あんたら、2人の邪魔をしたらいかんべ」
「んだ! お邪魔虫は退散だべ」
「おばあちゃん達、誤解よ」
ラズは急いでおばあちゃん達の誤解を解こうとした。
「5階も6階もないべ、アンさんの目は愛する男の目だべ」
ボサボサの髪に隠れて、目なんか見えないじゃん! とラズは思ったが、どうせ口の達者なおばあちゃん達だ、必ず言い返してくるだろう。ここはぐっと我慢した。
「あのね、おばあちゃん達、アンさんの言った意味は、感謝の気持ちを表したいって事なのよ」
「違う」
アンが真っ向から否定した。
「俺はラズに惚れている」
爆弾発言、投下。
おばあちゃん達がキャーと黄色い悲鳴をあげた。血圧が上って、倒れなければいいが。
「な、な、何を」
ラズは真っ赤な顔で否定の言葉を探した。何か言わなければ、明日には村中に噂が広まってしまう。
「先生、愛されとるべ!」
「女は愛されて何ぼだべ」
「ラズ先生、ラストチャンスだべ」
「んだ、がっちり捕まるだべよ」
「老後のひとり暮らしは寂しいだべよ」
おばあちゃん達はラズの手を握り締めて、まくし立てた。
「さて、お邪魔虫は退散だべ」
おばあちゃん達はいそいそと扉に向かった。
と、その時。大きな音をたてて、扉が開いた。
そこには疲れ果てたユンユがたっている。
「……あの薪の山積みは何なんですか?」
「アンさんがラズ先生に捧げた贈り物だべ」
「僕は、これ以上は割らなくていいと言いましたよね」
ユンユは青筋をたてて、怒りのため身体を震わせている。不穏な雰囲気を感じ取ったラズと3姥姉妹は部屋の隅へ、こっそり移動。
「遠慮するな。俺の感謝の気持ちはあれぐらいじゃないぞ」
アンの空気を読めていない発言に、ユンユの怒りが爆発した。
「ありがた迷惑なんだよ!!!!」
ユンユの咆哮が、平和な村に響き渡ったのは言うまでもない。