水中花の涙 ―10―
潮風香る“港町”。
抜けるような青い空、白い入道雲、照りつける太陽、きらめく波面、港を行きかいする交易船、空を滑空するカモメたち。
うだるような暑さと商人の活気が、田舎でのんびりと過ごしていたラズには、身に堪える。
「熱いわね。ミチュは大丈夫?」
「あちゅいね~」
迷子にならないように、ラズと手を繋いだミチュが、涼やかな顔で笑った。その真珠のような美しい柔肌には、汗ひとつかいていない。
ラズ、ミチュ、アン、ユンユの4人は、交易で賑わう港町まで来ていた。昨晩遅くに到着して、港町の繊維工場の番頭、ソーパの屋敷に泊めてもらったのだった。
昨晩、日の落ちた頃に港町に入ったのは理由がある。アンだ。
彼の正体が、この港町の格闘場で、かの英雄クリシナだとばれてから、幾ばくも日にちがたっていない。
故に、混乱を防ぐため、人目を忍んで行動しなければならないのだった。
アンは今頃、ソーパの屋敷で身を隠している。
ユンユは、行きたい所があると言うので、ラズとは別行動をとる事にした。
ラズはミチュを連れ、王都までの長旅に必要となりそうな物資を買い揃えていた。
ラズたち一行は、“港町”から船で一気に“美と芸術の都”に行き、そこから陸路で“王都”へ行く予定だ。
船はソーパの好意に甘え、今日の昼ごろに出航する貨物船に乗せてもらえることになった。旅客船も定期的に出ているのだが、1週間も先なのだ。
さすがにアンが1週間も、隠れているのは無理がある上、旅客船のように、大勢の人間の乗る船より、船員だけが乗る船の方が、アンの正体がばれにくいだろうと考えたのだ。
「お昼には、船が出ちゃうから、早く買い物を済ませないとね。ほらミチュ、行くよ」
ラズがミチュの手を引く。ミチュは、焼き林檎を売っている屋台の前から動こうとしないのだ。ミチュにとって港町は、目新しい物ばかり。好奇心一杯のミチュは、目を爛々(らんらん)と輝かせている。
「みちゅ、これ、たべる」
「さっき、朝ごはん食べたでしょ」
「ぽんぽん、すいた」
「お腹、空いたの? 食べ過ぎると、また、ぽんぽん痛い、痛いになるわよ」
「ならない!」
そう言うとミチュは、おいしそうに焼き林檎を頬張った。幸せそうに、ホクホク食べる姿は、万民の目尻を下げる効果があるようだ。
「お嬢ちゃん、おいしそうに食べるね。おじちゃん惚れ惚したよ。だからお代は結構だ!」
「え? でも」
ラズは、それでは申し訳ない、とお金を差し出した。
「いいから、いいから」
そう言うと、商人はラズの手を押し返し、こそこそと耳打ちを始めた。
「こちらのお嬢ちゃん。さるご貴族様のご令嬢じゃないんですかい?」
「いえ、違いますよ。庶民です」
ラズは怪訝に思いながらも、丁寧に答えた。
「いやいや、これほどの美少女が、庶民とは思えません。きっとお忍びしょう」
「…………」
商人の想像力は、なんと逞しいのだろう、とラズは半ば呆れて、半ば感心していた。
「さしずめ貴方は、乳母かお女中さんでしょ。ぜひ、お宅のご主人様に、うちの事をご贔屓にとお伝え下さい」
ラズは唖然としてしまった。商人の何と計算高いこと。海老で鯛を釣るつもりだ。
商人はミチュに次から次に果物を与えている。限がないので、ラズはミチュを引きずるように歩き始めた。
(まったく、ミチュのお腹は底なしね。これからの船旅が心配だわ)
下手すりゃ、船の食料を、見た目は超絶美少女、正体は全身胃袋のミチュが食べつくしてしまいそうだ。ラズは先を思いやって、ため息が漏れた。
(どうして、私や、ミチュまで王都に行くはめになったのかしら)
そう、それを説明するには、少しばかり時間を遡らなければならない。
* * *
数日前の、名もなき村。
「どうして? どうして、私も一緒に王都に行かなきゃならないの?」
ラズは、理解出来ないと、アンに怪訝な顔を向けた。
王都行きが決まったのは、ユンユだ。ユンユは宮廷医師になるため、王都に行く。アンがユンユに付き添ってくれるのは、道中安心だし、アンが王都に帰るのは彼の自由だ。
――それなのに。
「私が王都に行く必要はないのよ」
「いや、行くんだ」
アンがきっぱりと言い放った。ラズはアンの横柄な言い草に、ムッとした。空腹と寝不足も相まって、怒りの導火線に火がつきやすくなっていた。
(私が、彼の言いなりになる道理はないわ)
「私は、王都には、行かない!」
ラズは、語気を荒く、アンに食ってかかった。
「それは駄目だ」
アンの瞳が妖しく光り、ラズの手首を掴んで、自分の胸に引き寄せた。
「離して!」
ラズは、アンの胸の中でもがいた。
「約束しただろ」
ラズの耳たぶに触れるほど近くで、アンが囁いた。
「約束?」
「側にいると、ずっと側にいると、俺の前から居なくならないと」
「…………」
嵐の夜。降りしきる雨の中、ラズは確かに約束した。アンの前から居なくならないと。
アレは冗談だったの、とか言ったらどうなるだろう? ラズはそっと目を上げて、アンの顔を窺った。
「そうだろ、ラズ」
アンがラズを見下ろして、ニヤリと笑う。金の瞳が妖しく光り、美貌の顔に凄みを増す。アンはラズの腰に回した腕に力を込め、ラズをのけぞらした。
親指の腹でラズの唇をゆっくり撫で、アンの瞳が、スッと細められる。
アンは微笑を称えているはずなのに、その瞳には静かに怒りの炎を宿していた。
「……約束を、違えるつもりか?」
ラズは、その壮絶な笑顔に背筋が凍えた。ゴクッと生唾を飲み込むと、頭を左右に激しく振った。
「滅相もございません!」
* * *
そして、今に至る。
ラズは、買い物を終えると、ミチュの手を引いて、アンが待つソーパの屋敷に向かっていた。
(安易に、約束なんてするものじゃないわね)
後悔先に立たずと言うが、今後、約束する時は、きちんと考えなければならない、と肝に銘じたラズだった。
「みちゅ、あれ、たべる!」
思案にふけるラズの耳に、ミチュの声がこだました。ミチュは港町名物、イカの姿焼きを指差している。
「まだお腹に入るの!?」
ラズは、船の食料が尽きた時のために、釣竿が必要なんじゃないかと、真剣に考え始めた。
「ユンユにいとパパに、もってかえる!」
「あら、やだ。ミチュが食べるんじゃなくて、ユンユとアンさんにお土産にするのね。ごめんね早とちりしちゃったわ。ミチュは優しい子ね」
ラズはいい子、いい子とミチュの頭を撫でる。ミチュは喉を鳴らす猫のように、微笑み。
「みちゅも、たべる」
「…………ミチュも、食べるんだね。やっぱり」
釣竿を買おう。そう、決心した瞬間だった。
* * *
「おや、ユンユじゃないか、どうしたんだい?」
グローシアが珍客に驚きながらも、嬉しそうに出迎えてくれた。
「グローシア叔母さんに、報告したいことがあって」
グローシアは、花売宿の経営者で、ユンユの母親を良く知る人物だ。
ユンユの母は、身を売る商売の女性だったが、ユンユを産み、戦火の炎に倒れたのだった。
「報告したいこと?」
豪華で煌びやかな内装の店に対して、質素で地味な部屋に通されたユンユは、この部屋がグローシアの部屋だとすぐに分かった。
ユンユは、冷たいお茶で唇を湿らせると、決意を秘めた瞳でグローシアを見つめた。
「はい、僕は、宮廷医師になって、母やグローシア叔母さん、ここの女性たち。そして恵まれない人々が、医療を受けることが出来る。そんな制度を作りたい」
夢物語のようだ。辛酸を嘗め尽くしてきたグローシアはそう思った。しかし、それを口にするほどグローシアは愚かではない。
「大変な事だよ」
「わかっています」
「新しい時代を切り開くのは、命を懸けなくては、出来ない事だよ」
「承知の上です」
「平凡に、生きたほうが幸せだよ」
「そうかも知れません、でもおじいちゃんになった時、僕はきっと後悔するでしょう。何もしなかったことに」
「もう、決めたんだね」
「はい」
ユンユは、しっかりと頷いた。その瞳に宿る意志は、簡単に消すことは出来ない。
グローシアはその瞳を見つめ、懐かしい気持ちになった。
「あの子も、こうと決めたら、梃子でも動かない頑固な娘だった。あんたは母親に似たんだね。コレを持っておいき」
グローシアがユンユに絹の包みを渡した。
「開けてごらん」
ユンユが、絹の包みをめくると、翡翠の指輪が現れた。質素だが、美しい指輪だ。
「コレは?」
「お前の母さんが大切にしていた指輪だよ。お前が持っているのが相応しい」
ユンユは、翡翠の指輪を手の平に載せると、じっくりと見つめた。母親の思い出がほとんどないユンユは、指輪を見ても、何の感慨も覚えない。それが、悲しかった。
「母は、どんな人でしたか?」
グローシア懐かしそうに微笑んで、そうさね~、とユンユの母親の話をし始めたのだった。
「大変だっ、船に乗り遅れてしまう!」
ユンユは、大急ぎで、港に向かっていた。
グローシアとの話が盛り上がってしまったユンユは、時を忘れて話し込んでしまい、気がついた時には、太陽がずいぶん上まで昇っているではないか。
「間に合ってくれ!」
あの角を曲がれば、港に着く。もう少しだ。
「――っ!」
角を曲がった時、ユンユはおもいっきり、“誰か”にぶつかってしまった。お互い倒れるのは何とか踏みとどまったものの、ぶつかった衝撃は、一瞬、火花が散るかと思うほどだ。
ぶつかった相手は貴族だ。服装を見ればすぐに分かる。金髪に碧の瞳。精悍な顔立ち。
(しまった、貴族だなんて、難癖をつけられるに決まっている。急いでいる時だというのに)
ユンユは舌打ちしたい気持ちを、押さえてすいません、と頭を下げた。
「貴様、何者だ!」
難癖をつけてきたのは、ぶつかった本人ではない、彼の後ろに控えていた従者だった。
「申し訳ありません! 急いでいたのもで」
(くそ、やっぱり何だかんだと言ってきた。船に間に合わないじゃないか)
ユンユは憤りを隠して、再び頭を下げた。
「貴様、謝ってすむ問題ではない。こちらの方は――」
「よい、急いでいるのだろう。もう行くが良い」
従者の言葉を遮ったのは、貴族の男だった。ユンユは肩透かしを食らって、え? と間抜けな答えを返してしまった。
「こちらも、考え事をして歩いていたゆえ、すまなかった。時間がないのだろう、早く行きなさい」
「えっ、あ、ありがとうございます」
ユンユは、貴族に謝られたことに面食らいながらも、お辞儀をすると、急いでその場を後にした。
「ユーア様、よろしいのですか?」
「かまわん、目くじらを立てることではない。我々は隠密に動いているのだ、目立った行動は控えろ」
「はっ、申し訳ありません」
ユーアは数歩進むと、何かを思い出したように振り返って、ぶつかって来た少年の後姿を見つめた。金髪碧眼の、聡明そうな少年だった。
「…………」
「ユーア様、どうかされましたか?」
「いや、あの子ども、どこかで見たような……まさか、気のせいだな」
ユーアは、少年がぶつかって来た肩を撫でた。
その薬指には、質素な翡翠の指輪が光っている。
――彼の瞳の色と同じ、碧の指輪。