水中花の涙 ―9―
「…………は?」
ラズは唖然とした。
「ミチュが、居なくなったですって?」
「んだ。ごめんよ、ラズ先生。少し目を離した隙に……」
アルミスが、平謝りに、ラズに頭を下げる。
前日の嵐が嘘のように、晴れ渡った青い空。
小鳥がさえずり、朝日にキラキラと輝く、葉っぱの雫。
ラズたちは安全を期して、夜が明けてから、村に帰ってきたのだった。
ヌエの家の暖炉にかけられた鍋から、ミルクの甘い香りと、湯気が立ち上る。
爽やかな朝だ。
「そ、それで、ミチュはいつ頃、居なくなったのですか?」
「ついさっきだべ、ミルク粥を作っているときに、消えてしまって……」
ラズは、ユンユに視線を送った。ついさっきまでここに居たなら、遠くまで行っていないはずだ。ちなみにアンは、落雷のあった場所に行くと言って、帰りは別行動を取った。
「手分けして探しましょう。いや、それより甘い物で、おびき寄せる方がいいかもしれません」
「そんな、アリじゃあるまいし……」
いや、待てよ。ミチュは以前、鳥を捕らえるために、仕掛けてあった篭に、見事にはまった事を思い出した。篭の中には林檎が置いてあったのだ。
「…………ゆ、有効かも知れないわね」
ラズは、ユンユの提案に、賛成した。
「じゃあ、僕は家に帰って、何か簡単に作れる甘いものを作ります」
「うん、私はこの辺りを探してみるわ」
ラズたちは、ひと息つく間もなく、外に飛び出した。
「ミチュちゃん、無事だといいんじゃが……」
アルミスが、そわそわとしていると、ヌエの凛とした声が聞こえた。
「大丈夫ですよ。ミチュちゃんは少し、拗ねているだけ」
「ヌエ様!! もう、お加減はよろしいだべか?」
アルミスは、ヌエの元にすっ飛んで行き、うやうやしく手を取ると、椅子に座らせた。ヌエの顔色は良く、健康に見える。昨日、倒れたとは、到底思えない。
「ヌエ様……また、“視えた”だべか?」
「……ええ」
ヌエの盲目の瞳は、今を視ることは出来ずとも、未来を視ることが出来る。
生まれ持った能力。
故に、彼女は“聖女”と呼ばれた。
故に、彼女は“魔女”と呼ばれた。
ヌエは、悲しそうに、ため息を落とした。彼女の視た未来が、必ずしも良いモノとは限らない。
しかし、人々は“聖女”に救済を求め、恐ろしい未来を視た“魔女”を糾弾した。
ヌエの視た未来が、人々に、恐怖をもたらし、心の均衡を崩す。
誰しもが、自分の“死の瞬間”など、知りたくなどない。
“未来”を恐れて“今”を生きるのは、地獄といえよう。
若かりしヌエは、己の力を過信していた。自分には、他人の未来を変える力はないのだ、と気づいたときは、すでに魔女として、命を狙われ、追われる身だった。
大切なたったひとりの弟を、助けてやることは出来なかった。
結局は、自分の未来を変えることが出来るのは、自分自身だけなのだ。
(私は、たったひとりの弟を、助けるつもりが、蟻地獄に突き落としたようなものだった)
「……様、ヌエ様、どうしたべ? まだお加減が悪いようなら、横になられたほうが……」
回想に耽っていたヌエは、アルミスの声に、揺り起こされた。
「いえ、大丈夫です。それより、いい匂いがしますね」
「はい、ヌエ様の大好きな、ミルク粥だべ」
アルミスはにっこり笑った。その笑顔は、目が見えなくとも、ヌエには見える。アルミスは、ヌエの侍女として、幼い頃から仕えていた。
アルミスの陽気な性格が、何度、ヌエを助けたことだろう。
「それと、ヌエ様。さっきミチュちゃんは少し、拗ねているだけだと……」
「ふふ、あの子は今頃、診療所で拗ねているわ。怪我ひとつしてないわ、大丈夫よ」
「そうか、よかったべ」
アルミスが、ホッとため息を付くと、鼻歌交じりに鍋をかき回し始めた。
“過去”は決して、変えられない。
しかし、“未来”は変えることが可能だ。
――あの、冬の未来は、変えることが出来る。ラズの未来を……。
* * *
「大変だべ!」
「ミチュちゃんが!」
「診療所に、立てこもっているべ!」
3婆姉妹の掛け声に、噂好きの村人たちが、わらわらと集まり、診療所の周りは、お祭ムードになっていた。
「ミチュちゃん、君は包囲されているべ、今すぐ、出てくるだべ!」
「違うでしょ!」
ラズはダトンの頭を叩いた。
「まったく……」
ラズは頭を抱えたくなった。
数刻前、ラズが診療所の鍵を壊して、中に入ろうしたら、長老に止められた。
長老は、傷心のミチュちゃんが自分から出てくるのを待つほうか良い。というので、村人たちが、甘いものを持ち寄り、やんや、やんやと騒ぎ始めたのだ。
「こんなに、甘いものがあるのに、ミチュが出てこないなんて……」
ラズは、焦燥感に駆られた。中で倒れているんじゃないだろうか? 昨日、1人で置いていかれたのが、よほどショックだったのだろうか?
「長老! どうにかなりませんか?」
「んだ、昔、とある神さんが、お冠でお隠れになった時、人々は、楽しく歌って踊っただべ。好奇心をそそられた神様は、何事かと外に出てこられたそうだ」
「分かりました。私、歌います!」
「いや、それはちょっと……」
ラズは、究極の音痴なのだ。出てくるどころか、逆に引っ込む。
「なら、ワシらが歌うべ」
「んだんだ」
「踊るべ」
止める間もなく3婆姉妹が、歌い踊りだした。
手拍子を誘う軽やかで、華やかな曲。
3婆姉妹は、調子に乗って、スカートを持ち上げ、足を高く上げて踊りだす。
しわしわの足が、宙を舞う。
「おえ~」
「…………まさか、ダトンが吐くとは」
ラズが、真っ青なダトンの背中をさすっていた。
「失礼にも程があるべ」
「んだんだ」
「ワシらの美脚を、拝めただけでも、極楽浄土だべ」
3婆姉妹はプリプリ怒っている。
(ダトンはもう少しで、本当の極楽浄土行きでしたよ)
ラズが、遠い目で笑った。
「ラズ先生!」
ユンユの慌てた声に、一瞬でラズは身が引き締まった。
「ミチュが出てきたの!?」
「いえ、違います。大旦那がギックリ腰です」
「…………」
大旦那は繭で作ったというお手玉を、器用に操っていたはずだ。
今や、村人のかくし芸大会と化した、診療所の前は、おおいな賑わいを見せていた。
それでも、ミチュは出てこない。
「ねえ、ユンユ。ミチュはどうやったら出てきてくれるかしら?」
「……たぶん」
――たぶん、ミチュも僕と一緒なんだ。
そう思うと、ユンユは微笑を浮かべていた。自分の事として考えると、深く考えすぎて、出口が見えなかったけど、ミチュの事として考えると、たいした事のない悩みに思えてきた。
悩みを客観的に見る事が出来た今、ユンユの心は軽くなっていた。
「僕らは、血の繋がりのない家族です」
「血の繋がりなんて関係ないわよ。ミチュもユンユも、私にとって大切な家族よ」
「そう、それをミチュに言ってあげれば良いんですよ」
ユンユは微笑んで、唖然と口を開いたラズを見た。ラズは自分の危険を顧みず、ユンユを探し出してくれた。それは、ラズにとってユンユがそれほど、大きな存在だと自負しても良いのだ。
雨降って地固まる。まさに、それだ。
「僕は、ケプラに預けているモノを取りに行きます」
ユンユは、そう言うと、久しぶりに心からの笑顔をラズに見せた。
ケプラは、自分に向かってくる、ユンユの晴れやかな顔に、勘が働いた。
「行くのね、王都に」
「ああ」
ユンユはきっぱりと頷き、ケプラは寂しそうに笑った。
「はい、コレ」
ケプラは服から手紙を取り出した。手紙の端っこは少し焦げている。
「私も、考えたんだ……」
「考えた?」
「……うん、ユンユの夢を応援するわ」
「ありがとう」
「でもね、自分の夢も諦めない」
「ケプラの夢?」
ケプラは、頷くと、鼻からスーと空気を吸い込んだ。
「皆さん! 私は絶対、ユンユのお嫁さんになってみせます!」
ケプラの大声が響き渡った。一泊置いて、村人の拍手喝采が起こる。いいぞーケプラちゃん、と野次も飛ぶ。
「ユンユは、とっても偉いお医者さんになるため、王都に勉強しに行きます!」
「ちょっ、ケプラ!」
さすがに、ユンユも顔を赤らめて、慌てふためいている。
「皆で、応援してあげましょう!」
ケプラの宣言に度肝を抜かれたのは、ユンユだけではない。ラズもその1人だ。
「ユンユ、王都って、勉強ってどういう事?」
寝耳に水のラズは、慌ててユンユの元へ駆け寄った。
「あの、それは……」
ユンユは手紙をラズの前に差し出した。
「僕は、王都に行って、宮廷医師になり、貧しい人でも医療を請けることの出来る、そんな体制を作り上げたいんです」
ユンユはきっぱり、ラズに宣言した。
「……ユンユ」
「その手紙はカオ老子という人が、推薦状を書いてくれたんです」
「……推薦状」
「すいません、ラズ先生の期待を裏切って」
「裏切る? バカを言わないで!! 私は鼻が高いわよ」
「鼻が高い?」
「その、カオ老子って人は、ユンユを認めてくれたのよ! すごいことじゃない」
嬉しさのあまり、ラズはユンユをギュッと抱きしめた。
「よく言った坊主!」
「ユンユ、故郷に錦を飾るだべ!」
「ユンユなら、素晴らしいお医者さんになるべ」
「んだ、ユンユは田舎に居る玉じゃないべ」
「原石は、磨いてこそ宝石になるだべ!」
「頑張るだべ、ユンユ!」
「ユンユ、頑張れ!!」
ユンユとラズを囲むように、村人たちが集まり、激励を送った。
すると、診療所の扉が勢いよく開いて、頬っぺたを膨らませ、拗ねたミチュが姿を現した。
「ユンユにい、ずるい。ミチュも、おうと、いくー!!」