水中花の涙 ―8―
目の眩む閃光と、鼓膜が破けるかと思うほどの轟音。
――っ!!
雷が脳天に直撃したような衝撃が、ラズを襲った。
「………………」
降りしきる冷たい雨が、仰向けに横たわるラズの顔に、容赦なく打ちつける。麻痺した感覚が、次第に戻ってきた。
(……気を、失っていたのかしら? 体のあちこちが痛い。それに、すごく重い、息をするのも辛い)
ラズは、重たい瞼を気だるく開けた。
「なっ!」
息が止まった。
落雷が直撃したのは樹齢100年を超える巨木だった。空にそびえ立つ巨木はものの見事に真っ二つに裂かれ、地獄の業火の如く、火柱をたて、燃え盛っていた。
その凄まじい光景に、ラズは背筋が凍りついた。
次に、目に入ったのは、自分に覆いかぶさるように倒れている、アンの姿だった。どうりで体が重いと感じるはずだ。
「アンさん!」
ラズはアンの肩を揺さぶった。ぴくりとも動かないアンに、ラズは不安を掻きたてられた。
(どうしよう、彼は私を守ってくれたんだわ。あの時、アンさんの言う事を聞いて、帰路についていたら……)
ラズがアンの首筋に手を当てると、力強い脈が返ってきてきた。ひとまず安心だ。
とりあえず、自分の上からアンを退かさなければ、何も出来ない。ラズはアンの体を、力いっぱい押した。
「重い~」
2人の体格差はかなりある。
「…………ラズ?」
アンのかすれた声が、耳のすぐ近くで聞こえた。
「アンさん、気が付いたのね。良かった」
ラズは安堵のため息を漏らした。
アンは腕を立てて、ラズと自分の体の間に空間を作った。
ラズは、アンの体重がフッと消えると、もの寂しいように感じたが、アンはラズの上からすぐにはどかなかった。土砂降りの雨の中、黄金色に煌く眼は、飢えた獣じみている。
「アンさん?」
異様な空気を感じたラズは、アンの体の下から抜け出そうと、頭を浮かせた。
すると、アンに激しく口づけをされ、ぬかるんだ地面に押し戻された。泥水がラズの顔に跳ね返る。
「――!!」
手首をきつく捕まれ、頭の上で交差するように固定され、脚の間にアンの体が割り込んできた。
アンは己の体重で、ラズを冷たい地面に押し付け、口づけを深めていった。熱い口付けは、首筋に、鎖骨に、さらに下に降りていく。アンの手がラズの服の下に滑り込んできた。冷たい雨と、熱いアンの手が、ラズのお腹を愛撫する。
ラズは必死に抵抗を試みるも、羽交い絞めにされた体は、一向に動かない。
「アンさん、ちょ、どこ触ってんのよ!?」
ラズが叫べども、もがけども、アンには虫が止まったくらいにしか感じない。アンは自分のモノだという印をつけるかのように、ラズの首筋に噛み付いて、紅い華を咲かせた。
「痛っ!!」
(噛んだ。今、噛んだの!? コレって、貞操の危機ってやつよね!)
ラズは基本的に、男女の睦み事には疎い。医学的な知識はあるものの、経験もなく、事詳しくは知らないのだ。
しかし、家畜のオス馬が、繁殖期にメス馬の首を噛むのを見たことがある。
(これは、マジでやばい!)
ラズはやっと危機感を覚えた。冷たい雨と、アンの熱い口付けが、ラズを翻弄する。渾身の力をこめても、アンはラズを放そうとしない。
「アンなんて大嫌いよ! 今畜生、放しなさいよ」
その言葉に、やっとアンが反応した。アンはラズの手首を放すと、両手でラズの顔を包んだ。真っ直ぐ見つめ合う2人。
「……嫌わないでくれ」
「嫌いよ! 放してちょうだい。今すぐ!」
怒り心頭のラズは、アンを許す気になれなかった。鼻息も荒く、アンを睨みつける。
「放さない、放したらラズはどこかへ、飛んでいってしまう」
「鳥じゃないんだから、飛ぶわけないでしょ!」
「なら、約束して欲しい」
「約束?」
「俺の前から、居なくならないで欲しい」
――この村から出て行って、私の前から居なくなるのは、貴方のほうじゃない! ラズはそう思ったが、あえて口に出すことはしなかった。今は、この縛めを解いてもらうのが先決だ。
「……わかったわ、約束する」
ラズは、この時の安請け合いを、後々後悔する事になるのだが、それはまた、別のお話。
アンはラズに、怒りを覚えていた。
こちらがどんなに心配しようが、ラズは自ら危険に足を踏み入れる。真綿に包んで、守りたいと切実に思っていても、彼女はそれを許さない。
怒りと、ラズを失うかと思った恐怖が、アンを乱暴的な行動に駆り立てた。もう少しで、この泥にまみれる最悪な場所で、ラズの体を奪うところだった。
アンは緩慢な動きで、ラズの上から退いた。ラズに手を伸ばし、優しく抱き起こすと、その手首に視線を落とした。
赤くあざのようになっている、ラズの細い手首。
「すまなかった。痛いか?」
「……あんまり、痛くないわ」
ラズは、腹立ちまぎれに、すっごく痛い、とでも言ってやろうかと思ったが、それではあまりに子どもっぽいし、アンの心配そうな顔を見ていると、腹の虫も収まってきた。
土砂降りの雨が、いくばくか優しく感じられるようになり、雷鳴が遠のく。
いつまでも此処に居るわけにはいかない、とラズが顔を上げると、目に映ったモノに驚愕した。
落雷の衝撃で猛火に包まれた巨木が、豪炎を撒き散らしながら、2人に向かって倒れてきたのだ。ラズは恐怖で足がすくんだ。
目の前に迫る、地獄の業火。
――もう駄目だ。
ラズは咄嗟に目をつぶった。
次の瞬間、立っていられないほどの地響きと、腹に響く轟音がラズを襲う。感覚が吹き飛ばされ、自分が上を向いているの、下を向いているのかさえ分からない。頭の中がグチャグチャだ。
(……私、生きてる?)
地響きが鳴り止み、ラズがそっと目を開けると、いつの間にか、巨木から離れたところに移動していた。俊敏なアンが、咄嗟にラズを庇い、2人は事なきを得たのだった。
しかし、アンは背中に火の粉が降りかかり、軽い火傷を負っていた。
「大変、この近くに薬草を貯蔵している洞窟があるの、すぐに行きましょう」
「たいしたことはない」
「バカ言わないの、泥だらけの場所で怪我をするのは危険なのよ」
そう言うと、ラズはアンを引っ張るように、洞窟に向かったが、アンは倒れた木の中に光る“何か”を見つめていた。
* * *
「あれ、ラズ先生」
「――ユンユ!」
洞窟には、焚き火をして、雨宿りしているユンユの姿があったのだ。
「どうしてユンユが此処に?」
「それはこっちの台詞ですよ」
「私たちは、ユンユが居ないって、ケプラから聞いて、探していたのよ」
「探していたって、この、嵐の中をですか!?」
「ええ、ユンユが日射病だって聞いて、居ても立ってもいられなくなって」
「……ラズ先生、僕はもう愚かな子どもじゃないんですよ。この嵐の中を動き回るのが、どれくらい危険か承知しています。嵐が止めばすぐに帰るつもりでした。もう少し僕を信用してください」
「うっ」
ユンユの正論に、ラズは太刀打ちできなかった。さらには、自分の短慮が己ばかりか、アンさえも危険にさらしてしまったことに、罪悪感が募る。
「ごめんなさい。でもユンユは、どうしてこの洞窟に……」
この洞窟は、村に置くには危険な薬草や、たくさん採れた薬草を貯蔵する場所だ。今は診療所に薬草は充実しているため、この洞窟に来る必要はないのだが。
「ラズ先生の肩こりに効く薬草を取りに……確かに僕も軽率でした。いくら体調が回復したからって、嵐の来そうな時に、洞窟に来るべきではなかった……」
雨が降り出す前に洞窟に着いたものの、薬草を探しているうちに雨が降り出し、足止めを食らっていのだ。
「私の肩こりに効く薬草を……」
なんていじらしい子なのかしら。ラズが感動のあまり両手を広げ、ユンユを抱きしめようとした。
「――うわっ!」
珍妙な悲鳴をあげたユンユは、頬を赤らめると、電光石火の素早さで自分の服を脱いで、ラズに差し出した。
「ラズ先生、服が透けています!」
「へ?」
ラズが下を向くと、雨と泥でずぶ濡れの服は、見事に体の線を細部まで浮かび上がらせ、小さいとはいえ、胸が丸見えだ。
「きゃああ」
ラズは両手で胸を隠すと、ありがたくユンユの服を借りた。
「私は奥で着替えてくるから、ユンユはアンさんの背中の火傷を診てあげて」
そう叫びながら、ラズは洞窟の奥に消えていった。
ラズは濡れた服を脱ぐと、すばやくユンユの服を着た。
ユンユの服は、太ももまで隠してくれたので、ラズはズボンも脱ぐことにした。濡れた服をそのまま着ていると、体温を奪われ、風邪を引きやすくなる。
ラズが焚き火の所に戻った時は、ユンユがアンの背中に軟膏を塗っていた。2人とも上半身裸だ。
ブロンズ色の肌と、白い肌、どちらも良く鍛えてあり、炎の明かりが裸身を照らしている。さらに2人とも超絶な美形ときたもんだ。なんとも、耽美的な光景だ。
(なんだか、見てはいけない世界を、垣間見ている気がするわ)
などと、ユンユが激怒しそうな事を考えていると、アンの低い声が洞窟に響いた。
「ラズ、そんな所に立っていないで、こっちに来て、火にあたれ」
アンが振り向かずに言った。
どうして私が見ているのが、いつも分かるのかしら、と訝しりながら、ラズは焚き火の側に座った。
「ユンユ、アンさんの火傷は大丈夫?」
「軽度の火傷です。すぐ直ります」
「そっか、良かった」
ラズは安堵のため息を漏らした。
「ラズ先生も、首のところ赤くなっていますよ。軟膏を塗っておきましょうか?」
首? ラズは、咄嗟に首を押さえると、顔を真っ赤に染め上げた。
――コレは火傷じゃない。
そう、アンが付けた印だ。
願わくば、ユンユが気づきませんように。赤く染まった顔も、火のせいだと思ってくれますように。
「ありがとう、でも、自分で塗るわ」
ラズはひったくるように、軟膏を受け取ると、すばやく塗って、服で首筋を隠した。その横でにんまり笑うアンに、鋭い視線を投げたのは、言うまでもない。
* * *
どれくらい時間がたったのだろう。随分雨脚が遅くなった気がする。耳を澄ますと、パチパチと火の燃える音が洞窟に反響している。
「みんな、心配しているだろうな……」
ラズがポツリと呟いた。
「……そうですね。早く雨が止めばいいのですが」
「少し、外の様子を見てくる」
アンが立ちあがり、洞窟の出入り口に向かう。その背中に散る火傷に、ラズは顔をしかめた。
「背中、痛む?」
「いや、少しひりひりするが、たいしたことはない」
「ごめんなさい、私の短慮に付き添わせてしまって、そのうえ怪我まで……」
「ああ、その通りだ。もし、今度、無茶な行動に出たら、容赦なく押し倒すからな、覚悟しとけよ」
そう言うと、アンは笑いながら、洞窟の外に消えていった。
「お、押し……なんて事を言うのよ!」
「まあ、押し倒すどうのは置いといて、ラズ先生は少し行動を改めるべきですよ。昔から無茶ばかりしてきましたからね」
「ユンユは、私が押し倒されちゃってもいいの!?」
いつも味方でいてくれたユンユの言葉に、ラズは少なからずショックを感じた。
「ラズ先生は、それぐらいの罰則が無いと、駄目だって気づいたんです」
おそらく、英雄クリシナに押し倒されたい、と思う女性は後を絶たないだろう。それを“罰則”と言い切るのは、この2人くらいだ。
「ねえ、私はもう28歳の自立した女なの、 誰かに守られる歳じゃないわ」
ユンユは、分かってないなあ、とため息を付いた。ユンユは陰ながら、ずっとラズを守ってきた。それは今も昔も変らない。
なぜ、いままでラズに言い寄る男性がいなかったか。ラズは、自分に言い寄るような男性などいないと、鼻で笑って言うが、そんな事はない。戦地で負傷者を治療して、優しい笑顔を振りまくラズは、観音様のようだ、と男だらけの戦場では大層人気があったのだ。それでも1人も言い寄るものがいなかったのは、ユンユが影で潰してきたからだ。
それも、アンが現れるまでだったが……。
「ねえ、ユンユは今も騎士になりたい?」
「え?」
唐突なラズの問いに、ユンユは何の事か分からず、聞き返してしまった。
「ユンユは自分を助けてくれたような騎士になるのが夢だったでしょ。ユンユの体、よく鍛えてあるから、そうなのかなって思ったの」
「ああ、そのことですか。アレは方便ですよ」
「方便?」
「昔、僕が“大きくなったら、騎士様なってラズ先生を守ってあげる”って言ったらラズ先生すごく嬉しそうだったから」
ユンユは、懐かしいな、と微笑んだ。あの戦にまみれた混沌とした日々、ラズの笑顔がどれだけの人を救っただろう。
ユンユも、その1人だった。ユンユには命の恩人が2人いる。1人はラズだが、もう1人は、ユンユを戦火に飲まれた町から救い出してくれた、名前も知らない騎士。
あの時は、混乱していたし、ユンユを助けると、騎士はどこかへ消えてしまった。
ただ、騎士の瞳は、鮮麗に覚えている。今にも泣き出しそうな、悲しい瞳。
その瞳は、宝石のような、鮮やかな翡翠色をしていた。
* * *
クリシナの“金の盾”と呼ばれ、国の中枢を担うユーアは、翡翠色の瞳に、好奇心を浮かべて、ソーパの話を聞いていた。
ソーパは港町の巨大な繊維工場の番頭で、格闘場で起こった、金蚕蟲事件を良く知る人物だ。
「それでは、クリシナ様はその“ラズ”という女性に“片思い中”なのですか?」
事件の話を聞くつもりが、もっと面白い話に辿り着いた。世界中の美女さえ傅かせる事ができる美貌のクリシナが、平凡な女性に振り回されているなんて。
自由奔放なクリシナのせいで、胃炎に悩まされる真面目なユーアは、ざまーみろ、とほくそ笑んだ。
(しかし、そのラズという女性。使えるな)
クリシナが、すんなり王都に帰るとは思えない。最悪の場合、ラズという女性を人質にとってでも、王都に連れ帰せばいい。
ユーアは、外に視線を投げた。
(……雨が止んだようだな)
雲の隙間から、月の光がひと筋、零れ出でる。この港町から、クリシナが居るという、名もなき小さな村は、目と鼻の先だ。
――必ず王都へ連れ戻しますよ。クリシナ様