水中花の涙 ―7―
ラズは、大急ぎでヌエの家に向かっていた。
どこか遠くで、轟く雷の音が聞こえる。どんよりとした雨雲が太陽を覆い隠し、ラズの頬に、ぽつりと雨粒が当たった。
必死で走るラズの脳裏に、蒼白な顔のアルミスが浮ぶ。
アルミスは“盲目の老初、ヌエ”の身の回りの世話をする老女だ。2人は姉妹でもなく、親類でもない。アルミスはヌエのことを“ヌエ様”と呼び、敬い慕っている。
ヌエがどういった人物か、ラズは知らない。
ヌエは、凛とした優雅な物腰に、ろうたけた美貌。厳かな雰囲気と、樹齢を重ねた神木のような安らぎを兼ね備えた、謎に包まれた老女だ。
そのヌエが、倒れた、と診療所の戸口に立ったアルミスは告げた。
ラズは取るもの取り敢えず、ヌエの元に急いだのだった。
「ヌエさん!」
ラズは走ってきた勢いのまま、ヌエの家に飛び込んだ。
そして、目の前に飛び込んできたのは、“白”雪の白。
そう、そこは、雪が降り積もる、極寒の大地だった。
――え?
ラズは驚いて、目元をこすり、辺りを見渡した。
何度瞬きしても、目に写るのは、どこまでも続く雪景色。吐く息さえ白い。
「……なんで? 私、ヌエさんの家に飛び込んだはずよ。どうして、家の中に冬景色が広がっているの?」
ヌエの家に飛び込んだら、何故か、雪が吹き荒ぶ、雪景色の広がる大地に立っているのだ。ラズは狐につままれた気分だ。
――コレは夢?
「そ、それにしても、さ、寒いわ」
ラズは、ガチガチと歯の根が合わぬほど震えている。このままでは、凍え死んでしまう。そう思った時、微かに子どもの声が聞こえた。
――子どもの泣き声?
吹雪の間を縫って、子どもの泣き声が聞こえる。ラズは目を細めて、辺りを凝視すると、人影のような物が、目に飛び込んできた。
――子どもだわ、まだ小さな子どもがいる。
子どもはむせび泣いていた。ひどく悲しそうに。
その悲痛な鳴き声に、ラズの胸が詰まる。
子どもは、何かを揺さぶっていた。更に良く見ると、子どもの前に人が倒れている。
――子どもの親だろうか?
倒れているのは大人だ。ラズは、近くまで歩み寄った。
そして、倒れている人物の顔を見て、ラズは血の気を失った。
――そんな、まさか……、アレは……私?
雪の中に倒れている人物は、紛れもなくラズ自身だった。
倒れているラズの体から流れる鮮血が、真っ白な雪を赤く染めていく。
ラズが視ている“モノ”。
――死にゆく自分の姿だった。
* * *
「ラズ!」
腕を痛いほど掴まれ、ラズはハッと目覚めた。
夏の暑さが肌にまとわり付き、汗がドッと噴出す。ゲコゲコ鳴く蛙の声を、うるさく感じる。
ラズは、見覚えのあるヌエの家の中で、呆然と立ち尽くしていた。
(……白昼夢? 私は、立ったまま夢を見ていたの?)
ラズは額に流れる、嫌な汗を拭った。なんて気味の悪い夢だろう。そう思っていると、ラズは力強い手で、後ろに引っ張られ、男らしい体に抱き寄せられていた。
引き締まった体。慣れ親しんだ匂い。
「アンさん!」
何故、彼がヌエの家に居るのだろう? そう問いただす前に、アンはラズを痛いほど抱きしめた。
アンはラズの首筋に顔を埋めて、ラズの体が自分の体に溶け込んでしまえばいい、と強く抱きしめた。
腕の中では、痛がるラズが離れようともがいているが、そんな事は構わず、一層、力を込めた。
アンは恐ろしかったのだ。
ミチュと一緒に出歩いていた時、ラズが大急ぎで、ヌエの家に向かっているのが見えた。
そのただ事ならぬ様子に、アンもラズの後を追いかけ、ヌエの家に踏み込んだ。
そこは、夏とは思えぬ冷気に包まれ、ラズが青白い顔で白い息を吐き、部屋の中央に佇んでいた。
その瞳は虚ろで、何も映し出していない。ラズの異様な様子を前にして、アンの背筋が凍りついた。
ラズが遠くに行ってしまう。そんな焦燥感に胸がざわつき。
「ラズ!」
咄嗟に呼びかけ、ラズを己の腕の中に抱きしめていた。痛いほど、きつく。
(ラズは、どこにも行かせない)
残響のように、不安が胸の中に巣食った。
――ラズを失ったら、俺は、どうなってしまうのだろう?
* * *
暖炉の前に立つケプラは、震える手で、手紙を火にくべようとしていた。
好奇心に負けたケプラは、ユンユの持っていた、ラズ宛の手紙を読んでしまったのだ。
――王都。
それは遠い、遠い所。ユンユは王都へ行くかどうか、悩んでいたのだ。
この手紙をラズに渡したら、ユンユはこの村からいなくなってしまう。ユンユがケプラの前から居なくなってしまう。
「そんなの、絶対に、嫌だっ」
ケプラは震える手で、手紙をゆっくりと火に近づける。
「この手紙がなかったら、ユンユはずっと、この村に居てくれる」
(行かせなくない、側に居て欲しい。でも、それで、ユンユは幸せ? 私はユンユの足枷になりたくない)
ユンユの願い。ケプラの想い。
好きな人に幸せになって欲しい。好きな人に側に居て欲しい。
揺れ動く、恋心。
手紙の端が、燃え盛る火に触る。罪悪感が頭をもたげ、手がじっとりと汗ばむ。
――ドクン、ドクン、ドクン。
ケプラは、自分の心臓の音が異様に大きく聞こえてきた。おでこから汗が滴り落ちる。
赤く燃揺る火が、手紙に――。
「ただいまー」
「――っ!!」
突如、緊迫を破った父親の大声に、ケプラは心臓が飛び出すかと思うほど驚いた。
「と、と、父さん!! どうしたの、早いじゃない?」
まだ、夕餉の準備にも取り掛かっていない。こんなに早く父親が畑仕事を終えて帰ってくるなんて、思ってもいなかった。
「雨が降り始めた。コレは嵐が来るぞ」
父親が、肩から雨の雫を振り払いながら言った。この村で生まれ育った父親は、とりわけ天候に詳しい。
「嵐が来るですって。大変、ユンユが!?」
ユンユは、今もあの木陰に居るのだろうか? あの時、怒って体調不良のユンユを1人ぼっちにした事が悔やまれる。
「おい、ケプラ。どこに行くんだ、外は嵐になるぞ! 危険だから、家に居なさい」
そう言う父親を振り切って、ケプラは降りしきる雨の中を駆け出していた。
しかし、木陰にユンユは居なかった。
ラズの家、診療所にも行った。どこにもユンユの姿が見えない。
――ユンユ、どこに行ったの?
雨脚は激しくなり、空には雷雲が轟く。ケプラは泣き出しそうになりながらも、雨の中を必死でユンユを探した。
* * *
「アンさん、痛い、放してっ」
ラズは、アンの腕の中でもがいていた。一向に緩むことのないアンの力に、ラズの背骨がきしる。
(一体、どうしたのよ!?)
こんなに強く抱きしめられたのは、初めてだ。ラズは渾身の力を込めて、アンを引き剥がそうと、両手を彼の胸に置いた。
(……震えているの?)
アンの胸に置いた手の平から感じる、アンの鼓動と震え。
「アンさん、どうしたの?」
ラズは両手を伸ばして、おずおずと、アンの後頭部に手を這わすと、ぎこちなく撫で始めた。絹糸のように心地よい黒髪は、しっとりと冷たかった。
「ミチュもだっこー!!」
その甲高い声にラズは、え? と下を向いた。元気なミチュが、アンの長い足にしがみ付き、ラズにいたずら好きの天使のように笑いかけていた。ラズは、何だか気恥ずかしさをおぼえた。
「ミチュも居たの?」
ラズはアンの力が緩んだ隙に、その腕から逃れた。
「どうして、アンさんとミチュがここに?」
アンは、足にしがみ付いているミチュを腕に抱えた。ミチュは抱っこされてご満悦だ。
「ねえ、どうして2人がここに居るの?」
再度、問うラズに、アンは静かに答えを返した。
「慌しく走るラズを見かけて、追いかけてきたんだ」
「そうだ、ヌエさん!」
ラズは、今までヌエの事を忘れていた自分が信じられない! とヌエの寝所に駆け込んだ。
床に伏すヌエは、静かに寝息をたてていた。
その顔は疲労が濃く、憔悴しきっているようだった。普段は健康なヌエも、いつ何があってもおかしくない年齢に差し掛かっているのだ。
「ヌエさん?」
「…………ラズ先生?」
「はい。気分はいかがですか?」
「………アルミスは、そこに居ますか?」
ヌエはラズの質問に答えず、アルミスを探すように、手を宙にさ迷わせた。目が見えないヌエにとってアルミスは欠かせない存在なのだ。
「アルミスさんは――」
いません。そう言おうとした瞬間。雨風と共に、アルミスが家の中に飛び込んできた。その横にはケプラまで居る。
2人とも、雨で全身濡れそぼっていた。
「ラズ先生!」
ケプラがラズを見るなり、ラズにすがりついた。
どれだけ雨の中をさ迷い歩いたのだろう、蒼白なケプラの体はとても冷たかったが、その琥珀色の瞳は、熱い涙で濡れている。
「ラズ先生、どうしよう。ユンユが、ユンユがどこにも居ないの!」
雨が降りすさぶ空に、閃光が走り、雷鳴が轟いた。
* * *
「ユンユー!」
ラズの声は、叩きつけるような雨にかき消された。
自分が飛ばされそうな強風に、ラズは木に捕まって耐えた。
(こんな天気の荒れた日に、ユンユが居なくなるなんて……ケプラが言うには、日射病で寝ていたって言うじゃない。そんな体で、どこに行ってしまったのよ)
ラズはアンが止めるのを振り切って、ユンユの捜索に加わったのだ。
アンは、ラズを守りながら、ユンユを探している。
本来なら、ミチュやケプラと一緒にヌエの家で、待機していたほうがいいのだろう。それが分かっていても、ラズは居ても立ってもいられなくなり、外に飛び出したのだ。
――もし、ユンユの身に何かあったら……。
そう、考えるだけで、胸が締め付けられる。
「ユンユー!」
横殴りの雨が、ラズの柔肌を容赦なく叩きつける。
空に轟く雷が、いつ落ちてきてもおかしくない。ラズとアンの周りは高い木に囲まれ、危険極まりない。
「ラズ、これ以上は危険だ」
アンはラズの前に立ちはだかった。滝のような雨に打たれ、服は体に張り付き、その美しい肢体を顕著に表している、前髪の間から見える金の瞳はラズだけを見据えている。
まさに、水も滴るいい男だ。
ラズは、自分が濡れ鼠のようにみすぼらしく感じた。
「私は、もう少し、ユンユを、探すわ!」
ラズは豪雨に負けないように、大声で叫んだ。
アンの言っている事は、正論だ。それは分かっていても、ユンユを探さずにいられない。
「ラズ! 帰るんだ!」
「私は、1人でも、探すわ!」
ラズは踵を返すと、ぬかるんだ土を跳ね上げながら走った。雨で、まともに目さえ開けていられない。閃光が走り、轟音が響く。
――雷が近くに落ちたかしら?
肌にピリピリと静電気のようなものを感じた。そう思った瞬間には、ラズに向かって稲妻が走った。
「――ラズっ!!」
ラズの目が、真っ白な閃光に眩んだ。