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水中花の涙 ―5―


「――ラズ先生!!」


平静さを失ったユンユが、大慌てで家に飛び込んできた。

そして、部屋のありさまを見て、愕然(がくぜん)とした。


「ど、どうしたんですか、これは!?」


黄金色に輝く蜂蜜が、床に、壁に、あらゆる所に飛び散り、天井からも滴り落ちている。まるで、蜂蜜爆弾でも炸裂したかのようだ。


ものの見事に、部屋中が蜂蜜まみれだ。


「あら、ユンユ、お帰り」


ラズが、割れた蜂蜜の壷を拾い上げていた。先ほどの何かが割れた音は、蜂蜜の壷だったのだ。

アン、ダトン、長老までが、被害を(こうむ)っている。


元凶の美少女は、顔中を蜂蜜まみれにして、ご満悦に笑い声を立てていた。


「何があったんですか!?」


――これは掃除が大変だ。ユンユは、部屋の掃除の事を思うだけで、げんなりと疲れてきた。


「あちゃー、コレは悲惨じゃのう」


ユンユの少し後にやって来た大旦那が、戸口に立ち、ニヤニヤ笑いながら部屋を見渡した。

他人事だと思って、楽しんでいる。


「お、その子が噂の美少女じゃな。なんじゃ、蜂蜜まみれで、ベトベトじゃないか」


聞きなれない声に、少女は笑うのを止めて、“誰?”という視線を大旦那に向けた。


「お主、何で蜂蜜まみれなんじゃ?」


大旦那は、少女に問いかけた。


「……?」


少女は、子犬のように小首を傾げる。


「蜂蜜じゃ。ハーチーミーツ」


再度、問う大旦那を、ラズが止めに入った。


「この子、(しゃべ)ることが――」


その時。



「みちゅー!!」



少女が大声で叫んだ。

その声は、子ども独特の甲高い声で、部屋中に響き渡った。


――喋れるの! 5歳児に見えても、昨日産まれた、いや、産まれ変わったばかりなのだ。喋れるとは思っていなかった。


ラズは、驚きながらも、少女の前に膝を着くと、目線の高さを合わせた。


「みちゅ? 蜂蜜って言いたいのかしら?」


ラズは、少女の顔にべったりと付いている蜂蜜を、人差し指でふき取ってから聞いた。


「みちゅー、みちゅー!」


そう言うと、少女はラズの指をパクッと咥え、蜂蜜を舐めた。そして再び“みちゅー”と叫んだ。


「はじめて覚えた言葉は、蜂蜜の“みちゅ”か。舌足らずのところがまた、めんこいのう」


「んだんだ」


蜂蜜の被害に遭った長老とダトンは、少女が飛ばした蜂蜜を顔からふき取りながら、デレデレ笑っている。

さらには、戸口に立っている大旦那も、蜂蜜より甘い顔で笑っていた。




少女は、ラズから貰った蜂蜜があまりに美味しかったため、壷を奪い取り、ぐい飲みしたのだった。勢い良く仰向けになった少女の顔に、蜂蜜がぶちまかれ、驚いたラズが壷を取ろうとすると、少女はそれを拒み、ぶんぶんと壷を振った。結果、蜂蜜が部屋中に飛散したのだ。


「――そんなわけなのよ」


ラズが、事の次第を説明しながら、テーブルの上に立つユンユに、濡れ雑巾を渡した。

ダトンや長老、大旦那には帰ってもらい、ラズたちは部屋の大掃除に取り掛かっていたのだ。


「あの子の手から滑り落ちた、壷が割れて、ユンユが絶妙の間で帰ってきたの」


少女はアンの膝の上に、行儀よくお座りして、“みちゅ”と何度も繰り返していた。


「ラズ先生、あの子に名前が無いのは面倒なので、 この際だから名前を“ミチュ”にしませんか? 覚え易いし」


ユンユが、濡れ雑巾で天井を拭きながら言った。


「そんな、安直な――」

「ミチュ!」


笑い飛ばそうとしたラズの言葉に、少女の声が重なった。

少女はアンの膝の上で、手足をばたばたさせて、大喜びだ。


「気に入ったみたいだぞ」


アンが、少女の頭に付いた蜂蜜を丁寧に取りながら言う。


「………………」


3対1の多数決で可決。



――こうして、少女の名前は“ミチュ”に決定した。



(この(くだり)、アンさんの名前を決めた時と同じ様な気が……)


ユンユのネーミングセンスに、一抹の不安を抱いた、ラズであった。



* * *



ミチュは、それは、それは、おてんばで、食いしん坊な少女だった。

生傷が絶えることなく、何時も何かを食べていた。村人もミチュの可愛さに抗えず、ついついお菓子をあげてしまう。高齢化の進む村は、子どもたちが大変可愛がられるのだ。


「まったく、村のおじいちゃんや、おばあちゃんたちには困ったものだわ」


ラズは、薬棚から腹痛の薬を取り出しながら、ぼやいた。

ミチュが食べ過ぎで、お腹を壊してしまったのだ。


「でも、ラズ先生は、ミチュがお腹が痛いて、よく分かりましたね」


「まあね」


ラズは嬉しそうにフフフ、と笑った。



先ほど、ユンユが薬草をすり潰している所に、ミチュが1人でやって来て。


「ポンポンタイタイ」


と、言ったのである。


「ポンポンタイタイ? それは何かの呪文ですか?」


ユンユは、はて? と首を傾げた。ミチュは驚くほどのスピードで言葉を覚え始めた。しかし、未だ難解な言葉もある。


「ポンポンタイタッ!」


ミチュは怒ったように地団太を踏んだ。

ユンユは困り果てた。何が言いたいんだろう? ポンポン(たぬき)かな? ミチュはよく動物たちと遊んでいるし……。


「あらあら、どうしたの?」


ちょうどその時、ラズが盲目の老人ヌエの往診から帰って来た。


「あ、ラズ先生。ミチュが――」

「ポンポンタイタイ」


ユンユの声に、ミチュの意味不明の言葉が重なる。


「あら、大変。お腹が痛いの?」


ラズはすぐさま、ミチュが言いたかった事を言い当てた。

ミチュはコクッと頷く。


「熱は、ないわね」


ラズは、ミチュのおでこに手を添えて熱を診ると、ベッドに運んでやった。どうやら、ミチュは、村の彼方此方(あちこち)から、お菓子を貰って食べたようだ。いわゆる食べすぎ……。


そして、ラズは薬棚のところで、腹痛の薬を探していたのだった。


「“ポンポンタイタイ”何のことだか、まったく解りませんでしたよ。何かの呪文かと思ったほどです」


「“ポンポ”が“イタい”って意味だと、ピンっと閃いたのよ」


ラズは、フフと笑った。


「お腹が痛いなら、もう少し、痛そうな顔をしてくれればいいのに……」


「表情も、これから覚えていくでしょう」


ミチュは表情が豊かとは言いがたい。獣の花守だった頃、顔の筋肉を動かす機会は、あまりなかったのだろう。


「あったわ、腹痛の薬」


ラズは、濃い緑色の小瓶を手に取った。


「ラズ先生、それは“腹下し”です」


「え!?」


ラズはギョッとして、濃い緑色の小瓶を凝視した。確かにそこには“腹下し”と書かれている。


「…………本当だわ」


「育児疲れですか?」


ラズは、肩をゴキゴキ鳴らした。かなり凝っている。


「寝相の悪いミチュと一緒に寝ると、寝た気がしないのよね」


ミチュは本当に、おてんば娘で大変だ。寝ている時もじっとしていない。それでも、ラズの顔には笑顔が浮ぶ。


「今晩、肩を揉みましょうか?」


「まあ、嬉しい。ユンユが居てくれて助かったわ」


ラズはにっこり笑うと、ミチュのところに薬を持って行った。




「…………」


ラズが視界から消えると、ユンユは笑顔を引っ込め、ポケットから1通の手紙を取り出した。



――王都へ来い。



ユンユは、カオ老子の手紙を握り締めると、ポケットの奥にしまい込んだ。



* * *



「……ラズ」


アンがそっとラズの、耳元で彼女の名前を囁いた。


「んっ……」


ラズは眠たそうに、返事を返した。


アンがラズを尋ねに診療所に寄ったところ、お腹を壊したミチュを寝かしつけていたラズは、ついつい、うたた寝をしてしまったのである。


アンは、ラズの頬にかかる髪の毛を、そっと耳に掛けてやり、頬をそっと撫でる。

ラズが眠りながら、ゆっくり微笑んだ。昔と変らない、笑顔。




 『――呪われし者』


アンの脳裏に、暗澹(あんたん)たる記憶が蘇る。


 『あの娘が好きなのか? あの娘を欲するというのか?』


その男は、醜くい歪んだ笑みを見せた。


 『お前が、あの娘を幸せ出来るわけがない。なぜなら――』


男はそこで一旦言葉を切り、いびつな笑い声でこう告げた。


 『――お前は、呪われし者なのだから』




アンは記憶を締め出すように、目を強くつぶった。


(呪われていたのは、俺じゃない。呪われていたのは、貴方だったんだよ、父上)


その事に気づいたのは、大切だった少女、ラズを手放してから、随分(ずいぶん)経ってからだった。



父親に殺されそうになり、家を飛び出し、全てのしがらみから解放されたアンは、ラズの事は忘れよう。そう、心に誓った。

それからのアンは、(なか)ばやけくそで、放蕩の限りを尽くした。力を持て余し、遊び半分で傭兵として、戦に参戦した。

そこで出会ったのは、ラズの婚約者、ブラフだった。

とてもいい奴だった。自分とは正反対の真面目で、柔和な男だった。彼なら、ラズを幸せに出来る、そう思った。それこそ、自分の願った事だと、自分自身に言い聞かせた。


――ブラフの死が、全てを変えた。





「っん……」


ラズが寝返りをうち、仰向けに転がった。子どものような無邪気な寝顔。


アンはその寝顔を堪能すると、親指の腹でラズの唇を撫でた。その唇から、満足そうな吐息が漏れる。


「……ラズ」


そっと自分の唇を、その瑞々しい唇に重ねようと、ラズに覆いかぶさる。


熱い吐息が唇にかかる――。


「ちゃい!」


「……ちゃい?」


おや? とアンが体を離すと、ラズとアンの間から、ごそごそごミチュが這い出してきた。


「だっこ!」


ミチュはアンに向かって、両手を広げた。抱っこをせがむ格好だ。

アンは、残念そうに微笑んでから、ミチュを抱き上げた。


「だっこ、ちゅき!」


ミチュはギュッとアンの服にしがみ付いた。


「抱っこが好きなんだな。でも今はラズが寝ているから、静かに」


ミチュはアンの言葉を聞くと、小さな人差し指を、口の前に持っていき。


「ちー」


と言った。おそらく、シー、と言いたいのだろう。


「ママ、ねんね。ちー」


「ママ? ラズの事を“ママ”と言うようになったのか?」


ミチュは昨日までは、ママという言葉さえ知らなかった。食事の“マンマ”は良く耳にしたが、ママは初耳だ。村の誰かに教わったのだろう。


「ミチュ、“パパ”って言ってごらん」


「パパ!」


「そう、俺がパパ」


アンは自分を指差してから、ラズを指差した。


「ラズがママ」


ミチュもアンの真似をして、アンを指差して“パパ”、ラズを指差して“ママ”と言った。


「よし、良く出来たぞ!」


アンはミチュの頭を撫で回し、ミチュは嬉しそうにキャッキャッ、と笑った。


何も知らないラズは、むにゃむにゃと、夢の中。



窓の外では、3婆姉妹が“けな気だべ、アンさん!!”と目尻の涙を拭っていた。




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