水中花の涙 ―4―
『…………時は満ちたり』
真珠のように美しい肌。月の光を紡いだ如くまばゆい白金の髪。桜色の唇。
白い背中からは、小さな体には不釣合いな、大きな翼が生えていた。
――月の精霊。
そう思うほど、可憐で美しい少女が、体を丸めて繭の中で眠っていのだ。
(一体全体どうなっているの?)
ラズは呆然と、立ち尽くしいた。
(花守は、どこに消えちゃったの?)
巨大な繭の中から現れたのは、いとけない可憐な少女。人の3倍はある、勇猛な獣の姿は、どこにも見当たらない。
(この子は……何者なの? 人間? 違う、人間のはずがないわ)
人と決定的に違うのは、肩甲骨あたりに生える、雄大な翼。
そう、それは花守の翼。
「……花守、なの?」
少女の銀色に煌くまつ毛が、ピクッと動いた。ラズの声に答えるように、少女は双眸をゆっくりと開ける。
そこに現れた瞳は、花守の瞳と同じ色をしていた。
――吸い込まれそうな、青き輝き。
少女はおもむろに上半身を起こし、煌々(こうこう)と照る満月を見上げた。白金の髪が、サラサラと肩から零れ落ちる。
そして、羽化した蝶のように、厳かに翼を大きく広げはじめた。
水を打ったような静けさのなか、翼を広げる音が響く。
純白の翼が、大地を滑るように広がり、青葉に小波がたつ。月の光を反射させ、波立つ波紋は繭を中心に広がっていく。
少女は、キラキラと零れ落ちる月の雫を受け取るように、両手を広げた。長い白金の髪が、少女の体を絹糸のように覆う。
空に、大地に、おおきく広げられた翼。
澄んだ夜の空に、丸い月が冴え渡る。
――聖なる降誕。
動物たちが一斉に恍惚とした歓喜の咆哮をあげた。
歓喜と熱気が静かな大地を揺るがす。瞬く星々、やさしい風、全てが輝きだす。
それは人知を超えた、神秘的な光景。
美しき少女は、ラズを見つめ、お日様のように笑った。
* * *
「ラズ先生とアンさん、いつの間に、子作りしただべ?」
「――――――ッ」
ラズは村長の息子、ダトンの顔に、飲みかけのお茶を、勢いよく吹いてしまった。
「ラ、ラズ先生〜」
「ご、ごめんダトン。あんたがあんまり変な事を言うから」
ラズは慌てて服の袖で、ダトンの顔のお茶を拭いた。
(だいたい、一昼夜で5歳の子どもが産めるわけないじゃない。しかも、子作りなんて言うと、アンさんの目が煌くのは気のせいだろうか?)
ラズの背筋がぞわぞわした。今、アンを振り返るのは危険だ。
「オイラ、女の人のお腹からしか、子どもは生まれないと思っていただべ」
「たしかに、そうよね」
「それに、この子はラズ先生とアンさんに似てるだべ!」
「どこがっ!?」
ラズは驚いて、少女に目線を向けた。
花守だった可憐な美少女は、ラズの上着を着て、アンの膝の上で丸くなって寝ていた。
親指を口に咥えて寝ている姿は、どこをどう見てもて、人間の子供だ。あの後、大きく広げられた翼は、空に溶け込むように消えていってしまったのだ。
白金の長い髪は、あまりに長すぎるので、腰の辺りで切りそろえた。真珠のような肌に、薄紅色にほんのり色づく頬。桜色の唇。
まれに見る美少女だ。
「しっかし、長生きはするもんじゃのう。繭から女の子が孵るとは、なんと面白いことか!」
と長老。
長老とダトンは村を代表して、昨夜の珍事を聞きにラズの家に来たのだった。動物たちの大地を震わした歓喜の咆哮に、村人たちは大災害の予兆だべか!? とパニック寸前だった言う。
「本当にこの子が、あの花守だべか? 信じられないべ」
ダトンがしげしげと、少女を見つめる。少女は眠りながらも、アンの服をしっかり掴んで、離そうとしない。
刷り込み現象とでも言うのだろうか。少女はアンとラズの側を離れたがらないのだ。
アンは少女の頭を優しく撫でている。ブロンズ色の絶世の美貌を持つアンが、真珠のように白い肌を持つ、美少女を抱く姿は、恐ろしいまでに、似合いの親子だ。
「繭から孵ったのは、この子だから、この子が花守だと思うわ。私も断言は出来ないけど……」
獣が人の姿に変態したのだ。未だに信じられない。何度も頬っぺたをつねった。痛いので、夢じゃない。
孤高の獣として、花守の生態はまったくの謎に包まれているのだ。繭に包まれただけでも驚きだったのに、人の形に変るとは、度肝を抜かれる。
森の奥にひっそりと住む、他の花守たちも姿を変えることが出来るのだろうか? それを確かめる術はない。
ラズは美少女に視線を落とした。普通の人間のように育てればいいのかしら? また獣の姿に戻ったりするのかしら? 病気になったら人間と同じ治療でいいのかしら?
疑問は山ほどある。それでもラズはこの子を、自分の子どもとして育てよう、と心に誓った。
ラズは自分の子どもを持つ事を、すでに諦めていた。スーリャにはアンとの間に子どもを作れば良い、と言われたが、そんなことあり得ない。アンは国王となるべき人なのだから。
(私はこの村で、この子を立派に育ててみせるわ)
少女は幸せそうに、親指をしゃぶりながら眠っている。
「よう、寝とるわい、本当にめんこい子じゃの」
「んだんだ」
長老とダトンは目尻を下げて、少女を見ていた。
誰もが愛さずにいられない、不思議な少女だ。
繭の周りに居た動物たちは、朝日が登るころには姿を消していたが、今も小鳥が窓のふちに止まり、少女を見守っている。
「それで、ユンユはどこに行ったんじゃ?」
長老はきょろきょろと部屋を見渡した。
「ユンユは、大旦那様と一緒に繭の抜け殻を見てもらっています」
「なんじゃ、朝ごはんにあやかろうと思っとったんじゃが、残念じゃ」
「よかったら、私が何か作りましょうか?」
「ありがたいが、わしゃまだまだ、長生きしたいんじゃ。遠慮しとくわい」
それは、どういう意味でしょう? ラズは笑顔を引きつらせながら、その言葉を飲み込んだ。悲しいかな、家事音痴の自覚はあるのだ。
仕方ないのう、と長老が、テーブルの中央に置かれた壷から、蜂蜜をすくって舐めた。
「ん~、蜂蜜は旨いのう。ククルが養蜂を始めてくれたおかげじゃわい。娘のスーが蜂に刺された時は大騒動だったがのう」
長老はヒャッヒャヒャと笑った。
ククルの1人娘、スーが蜂に刺された時。ククルの怒りにさらされた蜂は、全滅の危機に瀕した。
蜂の巣箱を焼こうとしたククルを、村人がすがり付いて止めようとしても、ククルはそれをものともせず、あっさり払いのけた。哀れな村人たちは、軽々と吹っ飛ばされたのだ。
筋骨隆々のククルに対抗できるのは、ほっそりとした妻のオリスだけ。2人の夫婦喧嘩は超一流の武術家の格闘を見ている様だ。
――まったく、この夫婦もいったい何者なんだろう?
「ラズ」
「え?」
アンの呼びかけに、ラズは回想から現実に引き戻された。
いつの間にか目を覚ました少女が、アンの膝の上にちょこんとお座りして、お腹をキュルルルルと鳴らしているではないか。
「あら、お腹空いたのね。……って何を食べるのかしら?」
「うちの息子だったら、スーリャのお乳だべ」
アン、ダトン、長老の視線が、ラズの胸元に集中した。ラズは咄嗟に胸元を両手で隠した。
「ちょっ、何を考えてんのよ!!」
ラズは顔を赤くして叫ぶ。
「んだ、ラズ先生のお乳、もがっ!」
いつも、ひょうひょうとした態度の長老が、珍しく大慌てでダトンの口を塞いだ。そんな2人を、アンが氷点下の視線で睨んでいた。
金色に妖しく煌いた瞳が、俺の女の胸を見るな。と警告している。
「ゴホン。と、とりあえず、この蜂蜜をあげてみたらどうじゃ?」
アンの無言の殺気をいち早く感じた長老が、ラズに蜂蜜の壷を渡した。
「蜂蜜ね。食べてみる?」
ラズが少女に声を掛けると、少女は目を輝かせて、小さな手で机をバンバン叩いて催促してきた。ラズはスプーンで蜂蜜をすくうと、少女の口に運んでやった。
「はい、あ~ん」
少女は桜色の口でスプーンをパクッと咥えると、幸せそうに微笑んだ。
やっぱり甘いものが大好きな、食いしん坊の花守だわ。ラズは少女につられるように一緒に微笑んでいた。
* * *
「という事は、花守は“メス”だったのか?」
「そうみたいです」
「ふむ」
ユンユの答えに大旦那は、しばし考えるしぐさを見せた。
「5歳くらいの“美少女”と言ったな」
「ええ」
「この馬鹿でかい繭から、普通サイズの美少女が産まれたのか?」
大旦那は、ユンユの腕の中の、繭の抜け殻を指した。
ユンユは朝になると、繭に詳しい大旦那を連れて、繭の抜け殻をどうしたらいいのか聞いていたのだ。生糸にすることになった繭の抜け殻は、驚くほど軽かった。
「ええ、僕も信じられませんが、本当です。今から我が家に寄りますか?」
「ふむ、本当に美少女だったら、うちのひ孫の嫁にいいかもしれんのう。しかし、5歳差は年上過ぎるかのう? ひとつ年上の嫁は金の草鞋を履いてでも探せ、6つ上は睦まじいとも言うしのう。う~む。やっぱり嫁は歳上に限るのか?」
「…………」
ユンユは呆れたように、碧の目をぐるりと回した。
親馬鹿ならず、爺馬鹿。ここに在りけり。
獣が人に変るという、人知を超えた変事を目の前に、零歳児のひ孫の嫁選びに真剣な大旦那は、嫁は年下がいいかのう、う~むと唸りながら、ラズの家に向かったのだった。
家の近くまで行くと、ユンユの足がピタッと止まった。
「ん? どうした坊主」
「……今、何か聞こえませんでしたか?」
ユンユが耳をすました。それにならって大旦那も、耳に神経を集中させた。
小鳥やカエルの鳴く声、水の流れる音、風の音。特に変った音はしない。
「……鳥が鳴いとるのう」
「そうじゃなくて――」
ガチャーン
ユンユの言葉にかぶさる様に、何かが割れる音がした。
それと同時に、ラズの悲鳴が微かに聞こえた。
――ラズ先生の悲鳴!?
瞬く間に血の気の引いたユンユは、間髪いれず走り出していた。
――ラズ先生の身に何が!?




