水中花の涙 ―3―
アンは木の枝に足を掛けて、宙ぶらりんにぶら下がると、上半身を起こして、腹筋を鍛えていた。
夜な夜な、こうやって身体を動かし、有り余る体力を消耗させてからでないと眠れない。そうしなければ、ラズの部屋に夜這いに行ってしまいそうだ。
ラズの無防備さには時々呆れることがある。疲れてテーブルで寝てしまったラズを、軽々と抱き上げて、ベッドに運んだことが何度もある。その時、アンがどれほどの自制心を働かせていたかラズは知らない。彼女の寝顔を見ていると、生殺しにあっているような気分だ。
また、医者という職業柄、仕方のない事なのだが、ラズが他の男の体に触るのが腹ただしい。アンが診療所に来た村の男たちを、無言のまま威嚇するので、村人が萎縮してしまい。結果、ラズはアンを診療所から締め出してしまったのだ。
やることなすこと、全てが裏目に出ている気がする。
どうやったら、女性の心を手に入れることが出来る? 3婆姉妹の恋愛攻略法では、ラズは落とせそうもない。
ラズだって一時は気持ちが傾いていたはずだ。もうひと押し。そこが難しい。
あの時、アンが英雄クリシナだと分からなかったら、今頃ラズは、自分の腕の中にいたかもしれないのだ。
小柄な体を抱きしめて、その命が終るまで放さないのに……。
――ラズは俺の“魂の伴侶”。
顔にそばかすの散る、赤茶色の髪をした幼い少女は、父親の腕に抱かれて、花のように笑っていた。
屈託のない笑顔でアンに笑いかけてくれた。父にも母にも愛されず、孤独な生活をしていたアンの心が、はじめて温まった瞬間だった。
少女とその父親だけが、自分の味方だった。
――あの笑顔が欲しい。自分だけの物にしたい。
アンの荒涼とした心に灯火を点けてくれた、少女の暖かい笑顔が欲しかった。砂漠でオアシスを求める旅人のように、アンはその少女を必要とした。
しかし、無情にも運命は幼い2人を引き裂いたのだった。
――運命の糸は……。
* * *
足を木の枝に掛けたまま腹筋を繰り返すアンは、月の光を浴びて神々しいまでに輝いている。
神が作り上げた、究極の美を、月の女神が鑑賞するかのように、美しいブロンズ色の肢体が月光を浴びて艶めいている。
ラズはあんぐりと口を開けて、その芸術的な光景を見ていた。
(またっく、なんて美しいのだろう)
ラズは満月の夜に採れる、珊瑚花の種を採取に行く途中で、アンが体を鍛えているところに出くわしたのだ。
(何度見ても、バランスの取れたすごく奇麗な体だわ。あのしなやかな筋肉は、硬いのかしら?)
「触りたくなったら、いつでも触ってくれてもかまわないぞ」
まるで、ラズの心の声を読んだかのように、アンが振り返り、白い歯をこぼして笑った。
「アンさん!? 私が居るって、き、気づいていたの?」
ラズは、文字通り飛び上がって驚いた。それと同時に、恥ずかしくもあった。男性の体を盗み見していたのだから。
「ど、ど、どうして、アンさんがこんなところに?」
アンは、木から飛び降りると、少し首を捻った。素直に、欲望を紛らわすために、体を動かしていた、と言ったら、ラズはどうするだろう?
「……体を鍛えていた」
アンは無難な答えを返した。そうなの、とラズはアンのしなやかな筋肉が付く腕から、引き締まったお腹に、視線を泳がせた。ため息が漏れそうな美しい体だ。
(これ以上鍛える必要なんてないのに。というか、私こそ腹筋を鍛えなくては!)
ラズは、ユンユとアンに美味しいご馳走を振舞われた結果、お腹に肉が付き始めたのを気にしていた。
「ラズこそ、どうした? 夜に森に入ってくるなんて、危険だぞ」
「今日は満月だから、珊瑚花の種を取りに行くのよ、良かったら一緒に行く?」
「珊瑚花の種?」
「そうよ、女性特有の病に効果がある薬草よ。今夜しか採れない貴重な種なの」
「夜の森は危険だから、俺が付いていこう」
満月の移ったアンの眼がキラリと光る。アンさんの方が危険かもしれない……。
「……ありがとう、でも、その前に服を着てちょうだい!」
ここがラズの不思議なところだ。とアンは思った。アンが今まで出会った女性は、競い合って、服を脱がせたがる女性たちばかりだったからだ。
「体を触りたかったんじゃないのか?」
アンはラズをからかいたくなった。顔を赤く染めるラズは可愛らしい。
「なっ!!」
案の定、顔を真っ赤に染めて、口をパクパクさせるラズを見て、アンはいたずらっぽく笑う。
「か、からかったのね! まったく! 私はひとりで行くわ」
ふんっ、と怒ったラズは、あっさり踵を返した。アンはクスクス笑いながら服を着ると、ラズを追いかける。
「夜道は危険だから」
アンは、ラズに手を差し出した。
そばかすの散る、赤茶色の髪をした女性、ラズは困ったように笑ってから、その手におずおずと自分の手を重ねた。
――運命の糸は……。
――運命の糸は、再び2人を廻り合わせた。
* * *
満月に導かれ、珊瑚花の種が、恋焦がれる蛍のように無数に飛んでいる。
“珊瑚花”は海の宝石と称される、紅色の珊瑚に良く似た花。不思議なことに、初夏の満月の日に一斉に種を飛ばす。
青い硝子を溶かしたような紺碧の宵闇に、ふわふわと飛ぶ珊瑚花の種を見上げていると、あたかも自分が、海の底から月を見上げているようだ。
1年に1度しか見ることが出来ない、命の賛歌。
「飛んでる、飛んでる」
ラズは、大はしゃぎで袋を振り回している。アンはその光景を、嬉しそうに眺めていた。
「たくさん採れたわ」
「もういいのか? まだ、たくさん飛んでいるぞ」
「来年のために、種を全部取っちゃ駄目なのよ」
「来年……」
「そう、毎年この季節の満月の夜には種が飛ぶのよ。……あ、そっか、アンさんは来年、この村に居ないのね」
「……ラズ」
「……私はいつでもこの村にいるから、疲れた時、骨休みに来てね」
ラズが少し寂しそうに笑った。
風が吹く。
ラズとアンの間に珊瑚花の種が、風にあおられて舞い上がる。それは2人を隔てる、星の川のように。
今ここでラズを手放したら、一生、手に入れられない。アンはそう感じた。
「ラズ、俺と王都に行かないか?」
「…………アンさん」
「ラズが俺を愛せなくても、俺が、ラズの分まで愛するから……側に居て欲しい」
「…………」
側にいるだけなの? 私を側室か何かにするつもり? 飽きたら捨てるの? そんな思いをする位だったら、友だちのままがいい。
彼は美男子過ぎる。身分が高すぎる。
平凡な顔でそばかすがある、ただの村医者の私は不釣合いだ。
ラズはアンに見つめられるのに耐えられなくて、目を伏せて俯いた。
すると、足元で何かが動いた。
――何?
緑色の雨蛙が、ラズの靴に乗っかろうとしていたのだ。
「ゲコ」
ラズの顔が引きつる。
「ゲコゲコ」
「ギ、ギ、ギャアアアア」
ラズはけたたましい悲鳴をあげると、アンの胸に飛び込んだ。
「蛙はダメ、ダメなの! 苦手なのよ!」
「ラズ、コレが答えなんだな!」
アンは、胸に飛び込んできたラズを、ギュッと抱きしめた。聞いちゃいねえ、この男!
「ち、違う! か、蛙が!」
「一生大切にするから」
「違うわよ、このバカチンが! 私はもう帰ります!」
とんだ勘違いだ。ラズはアンの腕を振り払うと、袋を肩に担ぎ、家路に着いた。その後ろをアンがニコニコ笑いながら着いてくる。
アンには分かっていた、ラズが出そうとした答えが。だからこそ、その答えを聞かなくて良かったと心から思っていた。
蛙に感謝せねば。
* * *
「あ、ラズ先生、ちょうど良かった。今、呼びに行こうと思っていたんです!」
ラズとアンは家に帰る前に、花守の繭の所に寄る事にしたのだ。
ラズの姿が見えるなり、珍しく取り乱したユンユが駆け寄ってきた。
「花守の繭がっ、何て言うか、変なんです!」
「変!?」
ラズは、頭から水を浴びせられたような恐怖に駆られた。不安で胃がせり上がる。
(変とはどういう事? 羽化するんじゃないの)
百聞は一見にしかず、ラズは大急ぎで花守の繭のところに駆けつけた。その後をアンとユンユが追いかける。
(花守に、もしものことがあったらどうしよう)
ラズはひたすら、花守の無事を祈った。
* * *
花守の繭の周りは、甘い香りが充満していた。
息を整えたラズは、やさしく繭を撫でた。
(暖かい)
そして、ドクン、ドクン、と鼓動が感じられた。
アンもラズにならって、優しく繭を撫でた。
すると突然、アンの持つ魔法の指輪が、白い小鳥に変化した。
白い小鳥は、繭の周りを旋回すると、アンの肩に止まり、満月を見上げた。
「……………………魔法の指輪が共鳴している」
アンの呟きに、ラズは更に不安を掻きたてられた。
(何が起こっているの?)
ラズは後ろを振り向いて、驚愕に目を見開いた。
どこからともなく動物たちが現れたのだ。熊、鹿、狐、鳥、さまざまな動物が繭の周りを囲む。
動物たちは争うことなく『王』を待つかのように、静かに頭を垂れた。
その光景は、自然界では決して有り得ない。人類では計り知れない“何か”が起こっているのだ。
月が静かに繭を照らす。
――今、花守の繭が孵ろうとしている。
* * *
盲目の老女、ヌエの所の白い猫が、ゆるやかに顔を起こした。
この白い猫は、普通の猫ではない。魔法の指輪の仮の姿だ。
魔法は、はるか遠い昔に滅んだエルフ族の残した遺物。栄華を誇ったエルフ族が何故姿を消したのか、誰もわからない。
白い猫は、盲目の老女の膝からゆっくり立ち上がると、窓辺に飛び乗り、金と銀のオッドアイに丸い月を写している。
ヌエが見えぬ目を、空に向けた。
同時刻、ナアダの奥さんの白い蛇も、月を見上げていた。
「…………時は満ちたり」




