水中花の涙 ―2―
のどかな小さな村にも、夏が訪れた。
放牧した牛や羊たちが、のんびりと草をついばみ、土の中から這い出してきた蛙が、ゲコゲコ、雨を呼んでいる。
しかし、青空には雲ひとつない、見事な晴天だ。
黄金の太陽は、初夏の日差しをサンサンと大地に降り注いでいる。
(天気が良すぎて、シミが出来そう……)
ラズはレンゲの花が一面に咲き誇る野原に腰を下ろし、軽い食事を取っていた。
薔薇のジャムをたっぷり塗った、焼きやたてのパン。スコーンには、手作りのバターを塗り、採りたての果実に、甘い蜂蜜をたっぷりかける。そして、バター茶。
「ん〜、美味しくて、頬っぺたが落ちちゃう!」
ラズは口の周りに付いた薔薇のジャムを舐めた。
薔薇の花びらと砂糖で煮詰めて作ったジャムは、ふんわりと香る薔薇の香りがたまらない。秋になれば薔薇の実で、お茶やジャムも出来る。見て良し、嗅いで良し、食べて良し、さらには美容にも良し、薔薇ってなんて素晴らしい花だろう。
「ラズ、これも食え」
アンがラズのために、次々とスコーンにバターやジャムを塗る。食べきれない量のスコーンが積み重なっていく。
「相変らず、尽くす男だべ、アンさんは」
「んだんだ」
「女冥利に尽きるべ、のう、ラズ先生」
村の元気な老人代表、3婆姉妹が、積み上げられたスコーンをもごもご食べながら、はやし立てた。
ラズとアン、3婆姉妹は花守の巨大な繭の前で、お茶会を開いていたのだ。
繭に詳しい大旦那が、この繭は近々羽化すると思う。と言うので、交代で見張りをしているのだ。
昨夜、寝ずの番をしてくれたユンユは、今は夢の中だろう。
ラズがユンユと交代して、見張りを続けていると、アンさんと3婆姉妹が、手作りの料理を持って来てくれたのだ。アンさんが焼いた美味しいスコーンは、村じゅうに配っても余るほどの量だった。
アンさんは相変らずね。とラズは苦笑いを漏らしてしまった。
アンの正体が実は、かの英雄クリシナと分かって、もう半月はたつ。
英雄クリシナは10年にも渡る戦に終止符を打った、美貌の豪傑だ。
現在、空の玉座に1番近い男。
格闘場で、全ての民衆がアンに対しておでこが土に付くほど平伏していた姿は、この、のどかな村では想像も出来ない。
軍神と称えられ、その美貌のため神格化された英雄クリシナは、小麦粉を鼻の頭に付けて、3婆姉妹と山盛りのスコーンを作っているのだから。しかも、コレがまた美味しい。
「ラズ」
「何?」
「これも美味しいぞ」
フェロモン駄々漏れの容姿端麗なアンは、金色の瞳を艶に輝かせながら、蜂蜜のかかった果実をラズの口元に差し出している。指に持った果実から、黄金の蜜が滴り落ちている。
こ、これは、3婆姉妹の入れ知恵だな! いや、悪知恵だ! ラズは横目で期待に胸を躍らせる、永遠の乙女、3婆姉妹を見た。
3婆姉妹は口を、あ~んと開けて、目をきらきら輝かせて、成り行きを見守っている。ロマンスという餌をせがむ雛鳥のようだ。
「……そ、そうね。美味しそうだわ~」
笑顔が引きつる。アンの手から直接、果実を食べるなんて。――出来るわけがない!!
ラズは、お皿に盛ってある果実を掴むと、自分の手で、パクッと食べた。甘い蜂蜜の香りが鼻からふんわり抜ける。
村人のククルが養蜂を始めたので、村は蜂蜜が大流行中。
蜂蜜を練り込んだ胡桃パンが、ユンユの自信作だ。美味しいものが食べられるって、本当に幸せ。
一方、アンは蜂蜜とハーブを練りこんだ石鹸を作った。切磋琢磨し合う2人のお陰で、ラズの生活はどんどん向上していく。
ラズもお返しに、蜂蜜を使った料理を作ろうと思ったのだが、真っ黒に焦がしてしまい、大失敗。男性2人より不器用な自分が、少々情けない。そんなことを思いつつ、果実を噛むと、甘ずっぱい果汁が、蜂蜜と混ざり合って、絶妙なハーモニーを生み出す。
ラズは口から零れ落ちた果汁を、手の甲で拭こうとすると、アンに止められた。アンは親指の腹で、ラズの口角から滴る果汁を拭い取った。
そして、何のためらいも無く、それを自分の口に運んだ。指に付いた果汁を舐めるしぐさが、とんでもなく妖艶だ。
アンはラズを見つめたまま、美味い、とにっこり笑った。
(真昼間から、何なの、この夜の帝王様な雰囲気は!?)
真っ赤に顔を染めたラズは、大慌てで、バター茶を飲んだ。
「熱っ!」
ラズは熱いバター茶で、舌を火傷してしまった。
「ラズ、大丈夫か?」
涙目になったラズは、口を手で押さえて、大丈夫、と頭を縦に降った。それでもアンは心配そうに、見せてみろ、とラズの手をどかそうとする。
(絶対に、手をどけないわよ!)
ラズは口元を両手でしっかり覆うと、首を横にぶんぶん振った。
怪我をしたところを舐めて治そうとするアンに、火傷した舌を見せるわけにはいかない。どうなるか考えるだけでも、顔から火が出る。
ラズには最近のアンが、犬に見えてしまうときがある。しかも、飼い主に忠実な獰猛な猛犬だ。ラズに近づく者を威嚇して、ラズに甘えたがり、守りたがる。
村人の男さえ牽制するのは、少し度を越している。
そんなラズとアンの遣り取りを3婆姉妹が、照れるの〜、んだんだ、と目をランランに輝かせて見つめていた。
「後は2人を水入らずにするべ」
「んだんだ」
「ムッフッフだべ」
3婆姉妹は大量のスコーンを風呂敷に包み、背中にしょうと、泥棒のように抜き足差し足で、その場を去ろうとした。
その時、ひとりの男が土埃を蹴立てて、猛然と駆けてきた。
「ラズ先生〜!!」
ククルがまっすぐこっちに向かって来る。
3婆姉妹が、そろってチッと舌打ちをする音が聞こえた。
* * *
ユンユは木の幹にもたれかかり、若葉の間から差し込む、やわらかな木漏れ日のなか、静かにまどろんでいた。
読みかけの医学書を顔の上に被せ、そよ風が優しく金髪を撫でている。
昨夜は花守の繭の寝ずの番で、一睡もしていない。
しかし、明るい昼間から、完全な眠りには誘われず、身体がだるい。
今晩のためにも、身体を休めておいたほうがいいのに、まどろみながらユンユは、港町であった事を思い出していた。
まさか、あの記憶喪失のアンさんが、英雄クリシナだったとは、意外と言うか、これまた、これ以上ないと言うほど、納得してしまうというか……。英雄クリシナだと分かっても、アンさんは相変らず、ラズ先生を追いかけまわしている。
英雄クリシナは、もっと高潔で叡智にあふれた神のような存在だと思っていた。アンさんは、ラズ先生が拾った、野良犬みたいだ。
アンは格闘場で、ちゃかり貰った優勝賞金を、花売宿や、貧困して薬の買えなかった人たちに、治療費として渡したのだった。
おかげで、多くの人が助かった。
アンは必要なところに必要なものを渡しただけ、と簡単に言ったが、ユンユはその簡単な事が、自分には出来ない事を重々承知していた。それが腹立たしい。
――王都へ来い。
カオ老子の手紙を思い出す。カオ老子、港町で出会った不思議な老人。何者なんだろう?
飄々とした太目の老人は、ひと騒動起こすと、あっという間に姿を消してしまった。手紙を信用していいのだろうか?
手紙には王都へ来て、宮廷医師になるため学院に通わせてやる。と事が書かれていた。本来は貴族やお金持ちが通う学院に、庶民が入学するのは難しいことだ。
相当の権力を働かせるか、ユンユが貴族の養子にならなければ、学院には通うことは許可されない。
それを、あの謎の老人、カオ老子は出来ると言うのだろうか?
――宮廷医師。
宮廷医師になれば、多くの人を助けられる。出来ない事が、出来るようになる。権力は人を助けるために必要なのだろうか?
権力を持ったからといえ、不治の病を治すことは出来ない。でも、権力があれば、治療を受けられなくて、散っていく命を助けられるかもしれないのだ。
村医者でも、出来ることはある。でも――。
「――僕は宮廷医師になる!」
そう宣言すると、俄然やる気が沸いて出てきた。
キラキラ輝く青い風が、空に高く舞い上がる。
* * *
「疲れた〜」
ラズは家の椅子に、ドサッと座った。
あの時、ククルは蜂に刺された7歳になる娘、スーを抱えてやって来たのだった。
手の甲を1カ所刺されたスーは、可哀相に泣き腫らして、目を真っ赤にしていた。
父親のククルが報復に、蜂を全て焼いてしまおとするので、村人がなだめすかし、妻のオリスにぶん殴られ、村長に諭され、最後には、スーの父ちゃんの蜂蜜が好き、という言葉でやっと収拾がついた。
ひと息入れていると、スコーンを食べ過ぎた3婆姉妹が、腹が痛いんじゃ〜、とやって来た。3婆姉妹の治療を終える頃には、すでに辺りが真っ暗だった。
「……奇麗」
窓から外を眺めたラズの口から、小さな呟きが漏れる。欠けては満ち、満ちては欠ける、月。今日は欠けることのない満月だ。
ずいぶん小さい頃、父親に月を取って欲しいと、駄々をこねた事がある。
――あの時の父さんの困った顔。
生真面目な父は、小さい子どもに、月はとっても遠い所にあるから取れない。と説明した。そんな説明で幼子は納得しなかった。だから父は面白い手に打って出たのだった――。
「懐かしいな。父さん今頃どうしているんだろう?」
ラズは、窓から離れて、家の中を見渡した。
――誰も居ない。
ユンユは花守の繭のところに行ってしまったし、アンは、最近夜になると、どこかへ出かけている。
――いったい、どこへ出かけるのだろう?
誰も居ない家に、月の光が差し込み、ラズの影が部屋の中に真っ直ぐ伸びる。
ぽつんと置いていかれたような、頼りない自分自身の孤影が、ラズに孤独を感じさせた。
――みんなが私を置いていく。
ラズは置いていかれるのを、何より恐れている。待っていて欲しいと言った婚約者は、帰ってこなかった。もう待つのは嫌だ。
――違う。
置いて行くんじゃない。それぞれの道に進むんだ。ラズは頭をぶんぶん振った。
「さて、私も出かけなくちゃ!」
気を取り直したラズは、両頬をパンッと叩いて気合を入れた。
夜にしか取れない薬草を採りに行くため、大きな袋を持つと、熊避けの鈴を腰につけ、ランプを片手に、月夜を歩き出した。
満月に照らされた夜は、ランプの光がいらないほど明るい。
新緑が月の優しい光を反射してキラキラ輝いている。
瑠璃色の空に、真珠のような月が浮び、幽玄の彼方へ誘われそうだった。