水中花の涙 ―1―
揺らめく瑠璃色の海に、満月が写りこむ。
ひとりの女性が身を乗り出して、水面を見つめている。
涙がひと雫、その目から零れ落ち、月光に輝きながら、海の中に落ちた。
涙は波紋を作り、水面に写る女性の姿を泡沫の如く消しさった。
* * *
公爵令嬢エンリルは涼風のそよぐ木陰のテラスに座り、庭師が丹精込めて手入れをしている、美しく壮麗な庭を見ながら、午後の紅茶を楽しんでいた。
足元では小型の愛玩犬が、短い尻尾をピコピコ振っている。優雅な午後。
そよ風が、薔薇の香りを運んできた。
貴族の庭園には定番の白い薔薇が咲き乱れ、豪華な噴水に小さな虹が架かり、良く茂った青葉の隙間から、初夏の日差しがキラキラと輝いている。左右対称の整然とした、格調高い庭園だ。
エンリルは騎士の服を身につけ、亜麻色の髪を無造作に束ねている。すらっと背が高く、鍛えられた体、それでいて、女性らしい柔らかさ。薔薇のように艶やかで美しく、誇り高い女性だ
エンリルが爽やかな風をなびかせて颯爽と歩けば、侍女たちが桃色の吐息を漏らすと、もっぱらの評判になっている。
「エンリル様、ご友人がいらっしゃいました」
「友人?」
執事の言葉にエンリルは首を捻った。異端の貴族であるエンリルに友人と呼べる相手は、ほぼ皆無なのだ。
「ヒャッホ~、お久しぶり、エンリルちゃん」
ひょうきんな声と共に現れたの、孔雀のような豪華絢爛なドレスを着て、白い薔薇の花束を抱えた、ごつい男。
エンリルの顔が引きつる。……なんて暑苦しい格好だろう。
彼の名前はオルマ子爵。
性別は男ではあるが、ごってり化粧を施し、女性のドレスを着ることを好み、女性以上に女性っぽい物腰。美と芸術を愛して止まない、変わり者だ。
彼もまた、貴族社会に馴染めない、馴染もうとしない、異端の貴族である。
体格のごつい30歳のオルマ子爵は、ドレスを着て、薔薇の花束を抱えて、レースのハンカチを軽やかに振っている。
「……………………帰れ」
「ひどっ! 酷いわ、エンリルちゃん! わざわざ遠くから駆けつけたのに!」
オルマ子爵は、ハンカチを噛み、よよよと、泣き伏せた。誇張しすぎる演戯に、エンリルは顔をしかめた。
オルマ子爵は、何故か公爵家の愛玩犬に前足で慰められている。ここで無碍に追い返せば、やかましくなりそうだ。エンリルは愛玩犬に免じて、オルマ子爵を招き入れることにした。
「……それで、何をしに来たんだ?」
オルマ子爵は嘘泣きを止めると、嬉しそうにエンリルの向かいの席に腰を下ろした。
「うふふ、今ね、私の領土で面白い物が流行っているのよ」
そう言いながら、オルマ子爵はエンリルの食べていたスコーンをひとつ口に放り込んだ。
「ワンちゃんにもスコーンをあげていい?」
愛玩犬は、オルマ子爵の膝に前足をかけて、目をらんらんと輝かせ、尻尾を振っている。その口元からはよだれが垂れていた。
「駄目だ。父上も母上も甘やかすものだから、コロコロ太ってきた。健康によくない」
オルマ子爵は、大量のスコーンを食べても太らないエンリルちゃんが羨ましいわ、と口をもごもごさせて愛玩犬に言う。
エンリルはそれを無視して、話を元に戻した。
「お前の領土?」
「そう、美と芸術の都。芸術家が集まり、真珠の養殖で潤う、活気があって、それは、それは奇麗な都よ。1度いらっしゃいよ」
「……考えておく」
「もうっ、つれないお返事ね」
オルマ子爵は再びスコーンを口に頬張った。本当、公爵家の料理人の腕は一流ね。と言いながらオルマ子爵は侍女にお茶を頼んでいる。その無遠慮な態度に、エンリルはだんだん腹が立ってきた。招いてもいないのに勝手にやって来て、私の大好きなスコーンを次々と食べおってからに、このおっさんは!
「さっさと用件を言え」
「せっかちさんね。もうちょっとお喋りを楽しみたかったのに。仕方ないわ」
オルマ子爵は、テーブルの上にコトン、と小瓶を置いた。ちょっと見には、可愛い香水瓶ように見える。
小瓶の中には真珠色の小さな薔薇が浮いている。水中花だ。
「何だ、コレは? 薔薇の香水か?」
「うふふ、ほ・れ・ぐ・す・り」
「惚れ薬!?」
「そうなの、私の領地で大流行。しかも絶大な効果があるのよ。でも、その惚れ薬は、男女が一緒に飲まなきゃ意味が無いのよ。エンリルちゃんがクリシナ様と一緒に飲めることを祈っているわ」
オルマ子爵は、上品に紅茶をすすりながら、薄目を開けて、エンリルが惚れ薬を手にとって興味を示しているのを、盗み見ていた。
あらあら、まあまあ、恋する女の子は可愛いわね、からかいたくなっちゃうわ。とオルマ子爵は、意地の悪い笑みを浮かべた。
「うふ、聞いたわよ。港町での格闘試合のこと」
その言葉に、エンリルはこめかみに青筋を立てた。ゆっくりと惚れ薬をテーブルに戻す。初夏の気温が一瞬で冷めた。
エンリルの目がすわり。殺気に敏感な愛玩犬が尻尾を丸めてきゅ~ん、とオルマ子爵の足元に逃げ隠れた。
「……何故、お前がその事を知っている?」
「アレだけの大衆がいたのよ、噂はあっと言う間に私のところまで届くわよ。やっと見つけたクリシナ様を逃がしてしまうなんて、お馬鹿な子。うふふ」
エンリルは苛立ちを隠しきれずに、紅茶を一気にあおった。飲み終わると、手の甲で口元を乱暴に拭う。ビールでも飲んでいるように見える。貴婦人にはあるまじき仕草だ。
格闘試合が終った後、クリシナはてんやわんやの騒ぎの中で、姿を隠してしまったのだ。
騎士たちを総動員して懸命に探しても、見つけ出すことが出来なかった。
後ろ髪を引かれる思いで帰還した王都。
報告書を提出した執務室の遣り取りを、思い出すだけでも腹ただしい。
王宮の執務室は緊張で張り詰めていた。城下町の賑やかな声は、ここまで届いてこない。
エンリルはじくじたる思いで、目の前の男が報告書を読むのを待っていた。
「報告書は読んだ」
金髪碧眼の男が、報告書を無造作に執務机に放った。なんとも、ぞんざいな態度だ。
矜持の高いエンリルは、唇を噛んで屈辱に耐えた。
「他の報告書によれば、クリシナ様は仲間と思われる女性を大切に抱えて、消えたそうだな」
エンリルは思い出したくもないことを、あえて報告書には書かなかったのだ。噛み締めた唇から、鉄の味がする。
「お前の報告書には、その事が抜け落ちている。事実を伝えなくてどうする。色恋に気を取られている場合か?」
その言葉にエンリルはカッと頭に血が上った。自分の横を、風の如くすり抜けていった、愛しい人。
彼は他の女性の元に駆けつけたのだ。一瞬、頭が真っ白になった。彼の残り香が、哀愁となってエンリルにまとわり付く。
「……お前に、お前に何が分かる!! 恋焦がれる気持ちなど、お前に!」
エンリルは目の前の金髪碧眼の男、ユーアに吠え掛かった。
下級貴族であったユーアは、隣国との戦の中で、その非凡な才知を生かし“クリシナの金の盾”と呼ばれる軍師として成長した。今や政務の最高責任者だ。
見目麗しく、男盛りの年齢。戦の功労者であり、地位もある。そんなユーアは女性にもてないわけがない。
しかし、ユーアには一切、浮いた話がないのだ。
冷淡で、氷のようにさえわたる頭脳を持つ男は、心も凍り付いているに違いない。
そう、そんな冷酷非道な男に人様の恋路の話など、けなされてたまるか! エンリルはユーアをキッと睨んだ。
ユーアはエンリルの殺人光線とも思えるような視線を、軽く受け流し、執務室の大きな両開きの窓を開けた。
ライラックの甘い匂いが、爽やかな風に乗って香る。風は優しくユーアの金髪を撫でた。
――思い出す、彼女の薫り。
「……私はすでに一生分、たったひとりの女性を愛した」
ユーアの消え入りそうな呟きは、エンリルには届かなかった。届いたとしても、猪突猛進のエンリルは、他人からの助言を聞くタイプではない。
ユーアは記憶を振り払うかのように頭を振り、エンリルを正面から見据えて、姿勢を正した。
「今、こんな事を議論しても意味はない。私が直接、クリシナ様の捜索に赴くことにした」
ユーアが捜索の指揮を自ら執るとなれば、エンリルは、捜索から外される。
「……それは……私では、頼りないからなのか?」
「いや、お前が頼りないのではない。この報告書を読んで、興味がわいたのさ」
「興味?」
「青く染まった剣。不死といわれた金蚕蟲を消し去る力。おもしろいと思わないか?目に見えぬ大きな力が、水面下で動いている。そして、クリシナ様の連れ去った女性。その女性にぜひ会いたい。あのクリシナ様と、どういった関係なのか興味がわく。王妃となられるお方かも知れないのだから」
「……ユーア」
エンリルは剣の柄に手を当てた。……斬り捨ててやろうか、この男。
「エンリル。ひとつ、忠告しておく。嫉妬に駆られる、般若の女になるなよ。受け入れろ、クリシナ様の選んだ女性を。それがクリシナ様のためだ」
私は嫉妬に駆られた般若の女に、大切な女性を奪われた……。ユーアは毅然と執務室を後にした。
「ユーアめ!!」
エンリルは自らティーカップに熱い紅茶を勢い良く注ぐと、火傷しそうなそれを一気に飲み込んだ。
熱い液体が喉を通るのを、はっきりと感じる。
「まあ、まあ、エンリルちゃん。お行儀が悪いわよ」
「うっさい、オカマ!」
エンリルは、飲み終わったティーカップを、テーブルに勢い良く下ろした。するとティーカップは耳につんざく音を立てて、いとも簡単にまっぷたつに割れてしまったのだ。
可愛そうな愛玩犬は、ガクガク、ぶるぶる震えている。
「私はオカマじゃなくて、オルマよ! 絶対、わざと間違えているでしょ!」
オルマ子爵は、膝に抱えていた薔薇の花束をエンリルに渡し、足元の愛玩犬を優しく抱き上げた。
愛玩犬が脅えているのを見て、エンリルは少しばかり、激昂してしまった自分を恥じ、白い薔薇の花束を大切そうに抱えた。
「ねえ、エンリルちゃん、どうして薔薇は人々に愛されていると思う?」
「そんなこと、どうだっていい」
エンリルは薔薇の花束をオルマ子爵に返した。
「愛される理由。それはね、美しいからよ」
オルマ子爵は薔薇の花束から1本だけ抜いて、エンリルに差し出した。
エンリルはその薔薇を受け取ると、しげしげと見つめた。
――美しいから、愛される。そんなこと当たり前じゃないか。
白い薔薇は、幾重にも重なった花びらの中央が、ほんのりピンクがかり、いい香りがする。
「痛っ!」
エンリルの白い指に、薔薇の棘が刺さり、赤い血がにじみ出た。エンリルはゴミを捨てるように、白い薔薇をテーブルに放った。
「ねえ、エンリルちゃん。薔薇は、棘があるからこそ、美しいのよ」
決め台詞を言うと、オルマ子爵は颯爽と去っていった。いや、去って行こうとしたが、エンリルに止められた。
「オルマ……うちの犬は置いていけ」
公爵家の愛玩犬は、オルマ子爵の腕の中で、ク~ンと首をかしげ、ピコピコと短い尻尾を振っていた。