花の繭 ―16―
ラズは貴賓席で瞬きもせずに、アンを見守っていた。
高鳴る鼓動に、浅い呼吸、高まる高揚感。
きつく締め上げられた、拷問具のようなコルセットと、張り詰めた緊張で気を失いそうだ。汗ばむ手には猛毒の入った小瓶。
ラズの目には、アンが銀の甲冑の人物に攻めて込まれているように見える。
繰り出される剣は、恐ろしい早さだ。
それは、一瞬だった。
空高く宙を飛んだ、輝く銀の兜。眼下で繰り広げられた、激動の一幕にラズは目を見張った。
(――銀の甲冑の人は、女性だったの!?)
美しい亜麻色の長い髪を持つ、男装の麗人が膝を折り、アンにひれ伏した。負けを認めたのだ。アンは堕天使のような冷酷な笑みを浮べ、男装の麗人、エンリルを悠然と見下ろしている。
たった1回の蹴りで、勝敗が決してしまったのだ。
一旦、静まり返った格闘場は、一挙に割れんばかりの歓喜が爆発する。
観客席の人間が総立ちになり、地響きのような拍手喝采が沸き起こり、猛者たちは、甲冑と剣を打ち鳴らし、勝者を称え鼓舞する。例えようのない、狂騒の渦が巻き起こる。
(アンさんが……勝ったの?)
大音響のなかを、優勝したアンは獲物を狙うような飢えた瞳で、ラズを捕らえたまま離さない。一心にラズだけを見つめている。
ラズも、アンの魅惑的な金の瞳から目を放せなかった。歓声が遠のいて聞こえ、心臓の音だけがけたたましく聞こえる。
(私は、もう、アンさんから、逃れられない)
捕らわれたラズは、アンに見えない糸で引っ張れるように動いていた。2人は手の触れ合う位置まで近づいた。観客席から見下ろすラズと、格闘場から見上げるアン。
「祝福を! 祝福を!」
大衆の歓喜の声が、格闘場を揺れ動かす。
ラズは観客席からアンを見下ろしたまま、朗々たる声で祝福を述べる。
「月の影に咲く花の如く、花の守人は繭で眠る、口付けにて魂を揺り起こさん」
ラズはアンの唇に、蝶の羽のように優しい口づけを落とし、すばやく小瓶をアンに渡した。
祝福の言葉に月影花の意味を持たせたのだ。“猛毒”という意味を伝えたかったのだ。こんなに人が居る前で、猛毒だから気をつけて、とは言えない。
あの日、月の差さない闇夜に一緒に散歩したアンなら、きっとわかってくれる。
「花の繭は、魂の揺り篭。眉月に舞う蝶の如く、共に舞い上がらん」
そう言うとアンはラズの後頭部を掴むと、熱い口付けを返してきた。ラズはその巧みな口付けに、腰がくだけた。
観客席から絹を裂いたような悲鳴が飛んでくる。ショックのあまり失神者が続出。ラズは嫉妬に燃え上がる女性たちの視線を、背中にひしひしと感じたのだった。怖くて、後ろを振り向けない。
アンは舌で唇を舐めると、満足したように、艶麗に笑った。
眉月は三日月の別称で、古くから月の女神は処女を意味する。
“共に舞い上がらん”その意味に、ラズは顔を赤くした。なんて事を言ってくれるのだろう!
* * *
「どういう事、私が祝福の女神のはずなのに、あの女、何者よ」
若奥様が怒りを宮廷医師、もとい詐欺師の蟲毒師にぶつけた。計画では祝福の女神に選ばれていた若奥様が、祝福のキスを送る時に優勝者を誘惑して、地下に招きいれる予定だったのだ。
それを、どこの誰だか分からない、十人並み女が、美貌の優勝者と勝手にキスをしてしまったのだ。屈辱だった。
「とんだ番狂わせだな」
蟲毒師が苦虫を潰した様な顔で呟いき、貴賓席に深く座りなおした。どうやってあの男を、地下室に連れ込むかを思案する。
あの勝者の男を、逃したくない。美しく健全な身体。有り余る生気。まさしく最高の生贄だ。
呪術師は首から下げてある蟲笛を手に持った。傀儡たちに拉致させるか? いや、あの男はとんでもなく強い。ここは毒を盛るしかなかろう。
(待っていろよ、金蚕蟲。最高の生贄を与えてやるからな)
呪術師は悦に入り、口角を上げて不敵な笑みを浮かべた。
格闘場は、勝者を称え、武器と鎧のぶつかり合う音、舞い散る紙吹雪、割れんばかりの拍手、人々が酔いしれている。興奮の熱風が吹き荒れて、収集がつかない。
その時、恐怖におののく戦慄の悲鳴が、空気を切り裂いた。
ひとつの悲鳴は、あっと今に観衆を恐慌状態に陥れた。
「ひっ! 何なの、アレは?!!」
格闘場に重い動きで、じわじわと姿を現したのは、見たこともない大きさの巨大な蚕もどき。
気味の悪いぬるりと光る体に、蠢きながら、腐敗臭の瘴気を放つ、毒々しい化け物。
格闘場に居る猛者たちを、簡単になぎ倒し、瘴気に当たった者たちが、次々倒れていく。
「ば、化け物だ!!」
得体の知れない恐怖が、観衆の背筋を這い上がる。
観客席は悲鳴をあげながら逃げ惑う人々で、地獄絵図と化した。
逃げ惑う観客を尻目に、呪術師と若奥様は愕然と、その化け物を、金蚕蟲を見つめている。
「どうして、こんなところに金蚕蟲が居るのよ、マーシャルはどうしたの?」
若奥様の顔が恐怖に引きつる。
まさか、食べられた? 蟲毒師が呆然と呟いた。蒼白だった顔が見る見るうちに怒りの形相に取って代わる。
「……金蚕蟲め! よくも私の弟子を、マーシャルを殺したな!! 許さん! 許してなるものかっ!!」
般若の形相で立ち上った呪術師は、首から下げていた蟲笛を吹いた。すると、虚ろな眼の傀儡たちが、金蚕蟲の周りに集まる。
「かかれ!」
蟲毒師の号令と共に傀儡の男たちは、金蚕蟲に飛び掛った。
しかし、金蚕蟲は不死の生き物。剣で刺した切り口から、ドロドロの気味の悪い液体が出てきたと思ったら、すぐに閉じてしまった。傀儡たちは瘴気にやられて、倒れている。
まったく歯が立たない。
金蚕蟲から流れ出した毒々しい液体は、しばらく蠢いていると、人の子供ぐらいはあろかという大きさの、鋭い毒針を持った羽蟲になった。羽蟲はすばやく飛び回り、人々に襲い掛かってきたのだ。
――殺される。絶望と恐怖が、人々を支配した。
「エンリル!」
逃げ惑う人々で、戦慄の恐慌状態に陥った闘技場に、アンの声が力強く響いた。エンリルはアンの傍らで、はっ、と片膝をついた。
「雑魚を片付けろ」
「御意!」
エンリルは亜麻色の髪をなびかせると、羽蟲たちに向かっていった。
繰り出される剣さばきは、驚異的な速さだ。蝶のように舞う剣技は、見ほれるほど美しい。
エンリルの剣舞と共に、隠密として隠れていた数人の精鋭部隊が加勢し、次々と羽蟲を落としていく。
騒然とする観客席をよそに、アンは格闘場に静かにたたずむと、金蚕蟲を見定めた。器用な手先で、猛毒の小瓶をクルクル、手の中で、まわしている。
狙うのは、急所、1点のみ。与えられたチャンスは、たったの1回。失敗は許されない。
アンは折れた剣を鞘から、ゆっくり抜いた。鞘と剣の擦れ合う玲瓏たる音が響く。
折れた刀身が、金蚕蟲の歪んだ姿を映し出した。アンは小瓶を逆さまにすると、刀身に猛毒を1滴落とす。
瑠璃色の毒液は刀身に落ちると、一瞬だけ雫の王冠を作った。
――驚いたことに、剣は瞬く間に青く染まった。
間髪入れず、アンは走り出し、天高く跳躍し、空中で回転すると、金蚕蟲の背中に剣を突き刺した。
青い剣が金蚕蟲の背中に、深々と刺さっている。
格闘場は、時を止めた深海のように、耳が痛いまでに静まりかえっていた。
ラズは観客席から息をつめて、アンを見守っている。握り締めた手に、爪が食い込み、血がにじみ出ている事にも気づいていない。アンが着地した地面から、ゆっくり立ち上がる。
(――アンさん!)
一陣の風が舞い上がる。
風に煽られた金蚕蟲が、年月を重ねて風化するように、ぼろぼろと崩れ始めた。
崩れた塊は蜘蛛や蠍などの虫に変わり、ごそごそと逃げていく。
最後に残ったのは、何の変哲も無い、小さな蚕の繭。
静寂のなか、真っ白な繭が割れる。
繭から、金色の4枚の翅を静々と広げた、優美な蝶が羽化した。
それは、金粉のような鱗粉を振り撒いて、静かに青い空に羽ばたいて、余韻を残し、消えていった。
アンは、金色に輝く蝶を何時までも見上げていた。
たまゆらの黒髪をなびかせて、格闘場の大地にたたずむアンの雄姿は、覇者のようで、獅子のように優美である。
アンの周りにはエンリルをはじめ、多く者が片膝をつき、頭を垂れてひれ伏している。
それは、王者への敬礼。
格闘場を埋め尽くす人々の頭に、吟遊詩人の詩が想起する。
『美しき黒獅子が戦慄の大地に舞い降りた』
――まさか。そうなのか?
人々の恐怖に戦いた顔は、希望の色に染まっていく。
――そうだ、間違いない。
人々の顔に、輝くばかりの笑顔と興奮が浮ぶ。
「彼こそ、英雄クリシナだ!!」
生神と称えられる英雄クリシナが目の前に! 歓喜に打ち震える人々が、一斉に膝を付き、頭を垂れ、ひれ伏した。
立っているのはただひとり、ラズだ。風にあおられた花冠の花弁が、はらりと舞い落ちる。
格闘場が興奮のるつぼに包まれる最中、ラズは目を見開き、アンを見つめていた。
(英雄クリシナ……彼が? アンさんが?)
頭を打ち、記憶喪失で村に運ばれてきたアン。ブラフと戦友だった言うアン。野性味あふれるなか優雅な気品を持つアン。人々を惹きつける美貌と圧倒的な存在感を持ち、尋常ならざる強さを持つアン。
――全てが符合する。
ラズは大きく息を吸いたくても、きつく閉められたコルセットが邪魔をして、思うように息が吸えない。感極まる興奮を肌で感じながら、意識が遠のくのを感じる。
ラズの意識は暗闇に引き込まれた。