花の繭 ―11―
「ここも駄目か」
ユンユは薬屋から出てくると、小さくため息をついた。どこの薬屋も似たり寄ったりの値段をつけている。合間を縫って、高額な薬が買えなくて、苦しむ患者も診た。
(悔しいが、お金も薬も持っていない自分には、どうすることも出来ない)
半日歩づめで喉が乾いたユンユは、食堂に入り、水を1杯もらうことにした。水を1杯で良い、と言ったにも関わらず、可愛らしい給女が頬を染めて、余ったものだからと、まかない食を出してくれた。育ち盛りのユンユにとってはありがたい。
おいしく頂いていると、どやどやと賑やかな貴族の集団が食堂の中に雪崩込んできた。あまりにも傍若無人ぶりに、客だけでなく店員さえも、眉をひそめている。
先ほどユンユにまかない食をくれた給女が、無理やり酌を注がされているのを見て、権力の壁に煮えたぎらない思いを募らせていたユンユの堪忍袋の緒が切れた。
「いい加減にしてください。彼女、嫌がっているじゃないですか」
ユンユは貴族の集団の前に立ちはだかった。容貌は貴族っぽい金髪碧眼のユンユだが。貧相な服装を見れば、庶民だとすぐにわかる。
「あん、なんだ、お前」
どんちゃん騒ぎに水を差された貴族たちは、雰囲気を豹変させ、蔑むようにユンユを見る。
「彼女を放してあげて下さい」
ユンユは怯むことなく言った。周りの客は、ユンユに対して冷ややかな視線を向けている。
「この女は、お前のか?」
「違います。しかし、あなた方はあまりにも見苦しい」
「んだと、てめえ」
貴族の男たちが怒気をみなぎらせて、立ち上がる中、リーダー格の男だけが深く椅子に座り、足を組み替えて、せせら笑っている。
「お前、俺を誰だと思っているんだ?」
不健康そうな男だ。それがユンユの、その男に対しての第一印象だった。痩せた男は、よく見ればまだ若そうだが、自棄を起こしているように、お酒を煽っている。
ユンユが黙って見ていると、男は呆れたように、あざ笑った。
「俺様は宮廷医師、マーシャル様だ」
マーシャルは高らかに名乗ると、懐から取り出した金塊をテーブルにばら撒いた。
「亭主、あるだけの酒を持って来い。それとこのガキを叩き出せ。胸糞悪い」
マーシャルはユンユの真っ直ぐな視線から目を伏せて、酒杯を空けた。亭主は、ユンユの服を掴むと、強引に外へ連れ出そうとする。
「ちょ、あの子が今にも泣きそうじゃなないですか!」
ユンユは亭主の肩越しに、給女の泣き出しそうな顔を見た。
「揉め事は困るんだ。少し我慢すればいいんだ。貴族様に逆らったら、俺はもうここで商売が出来なくなっちまう」
亭主はユンユの耳元で囁くと、強引に引っ張る。
――とその時。
「ゴホ、グッ!!」
老人の客が、喉を抱えて苦しみだした。
――食べ物が喉に詰まったんだ!
ユンユがとっさに動こうとするが、亭主がユンユの服を握りしめて、離してくれない。老人の顔がみるみる赤くなり、血管が浮き出してきている。早く処置しないと窒息死してしまう。
「おい、あんたら! 医者だろ。その人を早く助けろよ!」
亭主に押さえつけられたまま、ユンユが叫んだ。
宮廷医師たちはうろたえるばかりで、行動に出ようとはしない。マーシャルが蒼白な顔で、震える唇を開いた。
「金を払え、金を払ったら、助けてやる!」
「なっ」
ユンユは驚愕に目を見開いた。目の前に窒息しそうな人が居るのに、この期に及んで金銭の話などするなんて。
「金が払えなきゃ、俺たちは治療しない決まりだ」
青ざめたマーシャルは、すばやく立ち上がると、興ざめだ。と仲間を引き連れて、店をそそくさと立ち去ってしまった。宮廷医師たちは、目の前の死にそうな老人に、目も触れなかった。ユンユは怒りを通り越して愕然とした。
「グッ!」
老人顔が紫色に変っている。ユンユは急いで亭主の手から逃れると、老人を後ろから抱えこみ、老人のみぞおち辺りを強く抑えた。
「グホッ! ゴッホ、ゴッホ」
老人の口から魚の頭が、ゴロンと転がり出た。ユンユは老人の背中を摩っていると、給女が水を差し出してくれた。
「おじいさん、水をゆっくり飲んでください」
おじいさんは、ぽっちゃりとした手で、水を受け取るとちびちびと飲んだ。
ユンユは老人の吐き出した魚の頭を見てから、老人のせり出したお腹に視線を向けた。
「おじいさんは、食べることが好きなんですね」
「ん、うん、そうじゃ」
老人は、まだ息が荒い。しかし顔色は元に戻っている。垂れ目の優しそうなおじいさんだ。
「今度から食べるときは、もっと小さく刻んでから口に入れて、よく噛んで食べてください」
「おやおや、坊ちゃんはお医者さんかい?」
「まだまだ未熟者の弟子ですけど」
最近は、焦ってばかりで空回りしている。自分に出来ることは、まだまだ少ない、とユンユは己を諌めた。
「坊ちゃんの師匠は、いい医者のようだな」
「はい、世界一の師匠です」
ラズのことを褒められると、自分の事を褒められるより何倍も嬉しい。
ユンユは、老人はもう大丈夫だと判断すると、お大事にと言葉をかけて、去ろうとした。が、老人はユンユの服を掴んで離さない。
「しがない老人を見捨てんでくれ」
ユンユはこの時、老人が狸に見えた、と後に語った。
* * *
「ユンユ君もラズ先生も遅いですね~」
薄い髪をそよがせて、ナアダが人ごみの中で独り言のように言った。美貌の妻はナアダの腕に自分の腕を絡ませている。
闘技場にはすでに、宴もたけなわに盛り上がりを見せ、天が割れそうな声援が送られている。
「ラズ先生たちの分も、買っておきましょうよ」
いつもと変らない柔らかい笑みを浮かべる妻は、心の底から嬉々としている。そのことは、夫であるナアダにしかわからないだろう。
凛とした気品に満ちた妻は、意外とゴシップが好きだ。村ではアンさんとラズ先生の恋の進展を、3婆姉妹から聞くのを、何より楽しみにしている。
「そうですね~、ラズ先生たちの賭け券も買いましょう」
ナアダは、砂埃の舞い上がる闘技場に目をやった。筋骨隆々の猛者たちは、手にはそれぞれ恐ろしい武器を持ち、厚い鎧で身を包んでいる。
その中で異彩を放つのがアンだ。彼は腰にククルの剣を挿しているものの、普段着の町人が紛れ込んだようだ。
優雅な物腰と、飄々とした風情、更には乙女の心を鷲づかみにして離さない美貌。周りの男たちは、おちょくられている様で、戦闘前からアンに敵意をむき出しだ。誰もがアンは瞬時に負けると思っていたため、倍率は低い。まさに穴馬狙いだ。
「今日は少し贅沢が出来るかも知れませんね~」
アンが優勝すれば、少しの贅沢どころではないのだが、田舎でのんびり暮らしているナアダには、大金は不必要なのだ。
学校の備品を買うのもいいかもしれませんね~、後は少し自分を甘やかして、美味しいものが食べたいですね。鯛の塩釜焼きとか、鯛茶漬けもいいな~、などナアダがよだれを垂らしながら考えていると、観客から噂話が聞こえてきた。
「英雄クリシナも、身分を隠して格闘大会に参加しているんだってさ」
「うっそ、それってすごい事じゃない!」
「誰だろう、わかる?」
「身分を隠しているんだぜ。あの鶏冠のついたヘルムをかぶって、豪華な鎧を着ている人じゃない? あ、それともあの金の甲冑の人かも知れない」
「あの人見掛け倒しじゃん。でも身分隠してるんだから、顔を隠すために兜を着けているだろうぜ」
「顔を守るため、兜をかぶっている人は、結構いるわよ」
「私、クリシナ様がここにいるだけで、失神しそう」
こういった噂話はどこでもある。特に貴族など高い身分人間が集まるところには、どこかに憧れの英雄クリシナがいるのではないかと、憧憬の思いで、噂話が囁かれるのだ。ナアダは噂話を聞きながら、のんびりと笑った。
熱気が空まで舞い上がり、格闘場の活気は最高潮を迎えていた。
* * *
アンは闘技場に立ち、観客席を見渡した。
(ラズはまだ来ないのか?)
ラズと離れて半日以上はたつ、大勢の人間に囲まれているのに、何故だかひどく孤独を感じる。
アンは何時までも、のどかで平和な村で過ごすわけにはいかない事を、わかっていた。しかし、今、村を離れれば、ラズの心も離れてしまうだろう。村を無理やり連れ出せば、彼女に嫌われる。ラズに嫌われるくらいなら、世界など滅んでしまってもかまわない。己の執着心には自分でも驚いている。
ラズの身も心も、両方欲しいのだ。
ラズは覚えていないが、アンとラズは遠い昔に出会っている。戦友だったブラフから婚約者の話を聞いて、アンは驚いた。ブラフの話を聞いていると、懐かしい彼女が変らないことを知った。そして、どこか心がざわついた。その時は、その気持ちが嫉妬だと気づかなかった。しかし、ブラフほどの男なら彼女を任せられると思ったのも本心だった。
今、再び廻りあったラズを、アンは決して離さない、諦めない。そう心に誓ったのだ。
「――誰だ?」
アンの背後に人影が忍び寄ってきた。銀の甲冑で全身を包んだ人影は、アンの背後に隙のない動きで近づき、鋭く囁いた。
「なぜ、貴方様がこんな所にいるのですか!?」
聞き覚えのある声にアンは、おやっと振りかえった。全身を銀の甲冑で身を包み、顔全体を銀のヘルムで、すっぽり隠している。一部の隙も見えない。
「久しぶりだな。元気にしていたか?」
「のん気なこと言わないで下さい。王宮で皆がどれほど心配しているか!」
「それを言うお前も、身分を隠して、こんなところで何をしている?」
「…………」
「腕試しか?」
「いえ、隠密です。この闘技場から何人もの行方不明者が出ていると、報告を受けたので」
「お前が来るまでもないだろう」
「そうですが……」
銀の鎧の人物は、歯切れの悪い返事を返してきた。
戦う事が好きな、こいつの事だ。隠密にかっこうをつけて、格闘試合に参加したいため、御自ら出向いたのだろう。
アンはめんどくさい事になりそうだ、と足下の人ならざる、怪しい気配を感じていた。蠢くような、怪しい気配を。