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花の繭 ―9―

港町のほぼ中央に位置する格闘場は、ゆうに数万人を収容できる巨大な建築物だ。

普段は騎士団の模擬練習場などに使われるのだか、年に数回、格闘試合を行うため、民間に解放される。各国から腕自慢が集まりその力量を競い合うのだ。勝者には大金と、祝福の女神からキスを送られる。



「ここに名前を書けばいいのか?」


「はい」


アンは、格闘試合参加者の長蛇の列に並び、やっと受付までたどり着いたところだった。

命の保証は無い、という契約書に “アン”と書いてから、受付の男に参加料を渡した。


「この度は、格闘試合へ、ようこそおいで下さいました。それでは名前が呼ばれるまで、あちらの待合室でお待ち下さい」



アンが何故、格闘試合に参加することになったかを説明するには、少し時間をさかのぼらなければならない。




――それは昨晩のことだった。



「アンさんが、格闘試合に参加するのよ」


それがナアダの奥さんが提案した“手っ取り早く稼ぐ”方法だった。


「格闘試合?」


ラズが聞き返す隣で、ユンユが手の平をポン、と叩いた


「だからこんなに人が多いのですか」


ユンユが納得したように酒屋を見渡した。筋骨隆々の男たちが、ビールの泡立つジョッキを持って、意気揚々に飲んだり、食べたりしている。


「でも、格闘試合って、今の時期でしたか?」


続けて質問したユンユに、ナアダが、それはですね~、と説明を挟んだ。


「戦が終って2年になりますが、傭兵やならず者といった力を持て余した人たちが、力自慢にと次々と参加するようになったんですよ~。するとお金が集まり、優勝賞金が多額になるにつれ、更に、参加者が増えて、ついには開催回数を増やしたんです」


「なるほど」


ナアダの話は小学校の講義のように聴きやすい。ラズとユンユはうんうんと相槌を打った。


「それにね~、最近では貴族達も身分を隠して参加するようになってきたんですよ。庶民もこの時ばかりはと賭け事に散財しますからね。経済効果も、もたらされているんですよ~」


賭け事に夢中になるのは、なにも庶民ばかりではない。貴族も大いに楽しむ。この時は普段お目にかかる事の出来ない貴族の目に泊まろうと、庶民の娘たちの中には、大いに着飾って、闘技場に来る者までいるほどだ。


「と、言うことは、私に賭け事をしろ、ということですか」


自慢じゃないが、ラズは生まれてこのかた、賭け事をしたことがない。誰にどうやって賭ければいいのか、まったくわからない。


「大丈夫ですよ~。そこで、アンさんが参加してくれれば、私たちのような賭け事初心者でも、少しは儲けることが出来ると思いますよ~」


「でも……」


ラズは酒屋を見渡した。猛牛のような厳つい男たちが、ひしめいているではないか。お金は欲しいが、アンが怪我でもしたら大変だ。


ラズが渋っている時、奥さんの言葉が場の流れを変えた。


「優勝者には、祝福のキスが贈られるわ。ラズ先生からのキス。欲しくない?」


その言葉に、アンの瞳が輝く。真っ直ぐラズを見つめるアンの目は、周りの筋骨隆々の男たちより数倍飢えた獣じみている、とラズは恐怖すら感じた。

狼に見つかった、ウサギの気分だ。


「ラズ、俺は参加する」


即決である。

奥さんは“してやったり顔”で満足そうに頷いた。

単純すぎるわ、アンさん! ラズは心の中で突っ込んだ。第一、勝利のキスを贈る祝福の女神に選ばれるのは貴族の婦人に決まっている。ラズのような庶民には縁のない話だ。それを指摘しようと口を開きかけた時、奥さんが人差し指を唇の前まで持っていき、内緒よ、とジェスチャーを送ってきた。


(もしかして、ナアダ先生の奥さんって、賭け事が好きなのかしら?)


俗世など関係ない、と思わせる、凛とした牡丹の花のような、艶やかな奥さんに、意外な一面を発見したと思った瞬間だった。

ナアダを見ると、申し訳なさそうに微笑んでいる。ラズはお互い大変ですね、とナアダに微笑みを返した。すると、どこか苛立ちを含んだアンの声がラズを呼んだ。

何かしら? と聞こうとすると、アンがラズを軽々と抱き上げた。


「!?」


いきなりの浮遊感にバランスを崩したラズは、アンの首に手を回した。目の端でユンユが、奥さんに口元を抑えられているのが見えた。助けは期待できそうにない。

酒屋の客がもたはやす中、アンは野蛮人よろしく、ラズを抱えて宿部屋に連れ帰った。


「ちょっ!」


ベッドに放り出されたラズは、ひと言文句を言おうと、起き上がろうとしたが、アンの男らしい引き締まった体が、覆いかぶさってきた。


首筋に感じるアンの熱い吐息、ラズはアンの鋼のような体の下から抜け出そうにも、抑え込まれて、ビクともしない。ラズの血管が張り裂けそうに脈打つ。


――怖い、いつものアンさんじゃない。


「離して!」


ラズは渾身(こんしん)の力を込めて、アンを引き剥がそうとした。すると彼の体から力が抜け、動かなくなった。静かな部屋にラズの息遣いだけが異様に大きく響く。


「――俺からの好意は迷惑か?」


ラズの首筋に顔を埋めたまま、アンは震える声で言った。


「…………」


ラズは何と言っていいかわからず、天井を見上げたまま、優しくアンの頭を撫でた。ごめん、と言うべきか、迷惑じゃない、というべきか。

ごめんと言ったら、アンは消えてしまうのではないだろうか? ラズは正直、アンの好意を心地よく受け取っていた自分に驚いた。彼の好意をわかっていて、わからないふりをしていた。その方が自分に都合がいいから。


――怖いの。また誰かを愛して、失うのが……


アンのような人物が、ちっぽけな自分に飽きて、捨てられんじゃないかと、心配なのだ。


「――アンさんは、どうして私がいいの?」


その言葉に、アンは顔を上げて、金色の瞳でラズを見た。


「ラズは、本当に何も覚えていないんだな」


「どういう事?」


ラズが聞き返すと、アンは上半身を起こして、大きなため息をつきながら、頭を乱暴に掻いた。呆れて物が言えない、と言わんばかりの態度にラズはむっとした。


「教えてくれないの?」


「……いつか教えるよ」


――思い出して欲しい。


アンは心からそう願っている。もしかしたら、何時か何処かで、不意に思い出すかも知れない。記憶なんて、そんなものだ。


「ユンユが心配しているぞ、下に降りて安心させてやれよ」


アンはぶっきらぼうに言うと、窓から月を見上げた。


もとはアンさんが野蛮人みたいな行動取るからじゃない。釈然としない思いを抱えたまま、ラズは衣服を整え、扉に向かった。


「それから、あんまりナアダと喋るなよ」


アンは真剣な目つきで釘を刺した。ラズは理解しがたいアンの行動や言動に振り回されながらも、一応頷いた。アンの言う事を守る必要などないのだが、彼があまりにも真剣なので、聞いておくことにした。


ラズが部屋から出ると、アンは再び窓の外に視線を移した。


耳に心地よい、小波(さざなみ)の子守歌。、深淵の海を照らしだしているのは、眉の様な美しい弧を描いた三日月。


ラズとナアダが微笑みを交わしているのを見て、アンは嫉妬に狂ったのだ。


傷つけたくない、大切に、大切にしたい。それなのに、自分の狂ったような嫉妬をぶつけて、ラズを傷つけようとした。どうやったらラズの心を手に入れられる? どうやったら自分だけのモノにできる? 


アンは幼い頃から、苦もなくすべての女性に好意を示されてきた。傲慢なアンは、それが当然のように振舞ってきた。星の数ほどの女性を相手にしてきた。それは心の伴わない、戯れのようなものだった。

そのつけが今、アンにのしかかっているのだ。


打ち寄せては、引いて行く波の音を聞きながら、愁いを含んだ金の瞳に、夜空に浮ぶ月が映りこんでいる。





アンは、土埃の舞う格闘場に立ち、よく晴れた青空に浮ぶ、白くはかなげな月を見上げていた。


女性の心を掴む方法を一夜考えてみたが、未だにわからない。考えれば考えるほど、わからなくなってきた。


――とりあえず今は。


アンは目の前の敵を見据えた。


――優勝して、ラズからのキスを貰おう。


不敵な笑いがアンの顔に浮んだ。



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