花の繭 ―8―
「少し熱かあるわね」
ラズは、ベッドに横たわるソーパのおでこに、水で濡らした冷たい布を当てた。
ゆっくり休めば大丈夫。ラズは一安心すると、ベッドの端に腰をかけて、窓の外に視線を移した。
水面に輝く夕日が海に飲み込まれようとしている、黄昏時。海鳥の鳴き声、人々の帰り支度の声音が潮風に乗って聞こえてくる。街頭に火を入れる職人が姿を現し始めた。
港町は夜の帳が下りてしまえば、また違った装いを見せ始める。光の集まる所には、必ず影が出来るのだ。
(財布を掏られるなんて、最悪だわ)
自給自足の村と違って、町ではお金が必要不可欠だ。明日になったら早速、薬草を薬屋に売りに行こう。
しかし、持ってきた薬草の種類と量では、路銀はまかなえない。
早く村に、花守の元へ帰りたい。ゆっくり路銀を稼いでいる暇はない。
(手っ取り早く稼げる方法はないものかしら? とりあえず今晩は皿洗いでもさせてもらおう)
ラズは気合を入れて立ち上がると、静かに寝息をたてるソーパの様子を見てから、音を立てないように廊下へ出た。ドアを開けたとたん、階下の酒屋から賑やかな声が押し寄せてきた。
夕刻ともなれば、酒屋は賑わいをみせ、笑い声や嬌声、吟遊詩人が竪琴を片手に、英雄クリシナの詩を紡いでいるのが聞こえる。
『右に金盾の知将、左に銀剣の麗人を従えし、美しき黒獅子が戦慄の大地に舞い降りた。
一振りの剣は青き旋風を巻き起こし、大地は割れ、暗黒が深淵に飲み込まれた。
雲の隙間から、神の光が照らされん、白き小鳥が緑の大地に舞い降りた』
詠い終わった吟遊詩人に、筋骨隆々の赤ら顔の男たちが、拍手を送り、礼金が飛ぶ。
私も1曲歌ってみようかしら、と思いながら階段を下りて行くと、長椅子に座り、手を振っているナアダが見えた。
「ラズ先生~、こっちです」
ラズは込み合う客を避けながら、テーブルに着いた。テーブルにはすでに香り豊かな料理が運ばれて来ている。おいしそうな魚料理の数々だ。山のふもとにある村は、新鮮な魚は食べることが出来ない。
ラズは、めったに食べることの出来ない料理を前に、お腹の虫が豪快に鳴り響き、胃をとっさに押さえて、恥ずかしそうに辺りの様子を伺った。
ナアダは聞こえませんでしたよ。と優しそうに笑っている。ユンユは冊子に料理の絵と調味料を書き込んでいる。研究熱心なユンユの料理と薬草の冊子は、王都の図書館にあってもおかしくないくらいの素晴らしい出来栄えだ。
「あら、アンさんとナアダ先生の奥さんは?」
「今、飲み物をカウンターから貰っていますよ~」
カウンターに目をやると、異彩を放つ2人が目に入った。まれに見る美男美女カップルだ。
アンのブロンズ色の端整な容貌、背が高く、鍛えられた姿態。黒髪は後ろに撫でつけられ、ひと房が額に落ち、髭は毎朝ラズが剃っている。
ナアダの奥さんは、白い肌と対照的な漆黒のサラサラの長い髪、長い睫に縁取られた切れ長の黒眼、唯一色を持つ、深紅の唇。
「似合いすぎて、威圧さえ感じますね~」
「……そうですね」
周りに居る酔っ払いの客も、色目を使う女性たちも、完璧なカップルを、指を咥えて、うらやましそうに眺めている。
美しい似合いの2人を見ていると、ラズはお腹の奥にモヤモヤした物を感じた。
(お腹が空きすぎたのかしら? きっとそうだ)
ラズは無理やり視線を外して、笑顔を作ると、無難な話題を振りまいた。
「ナアダ先生のお嬢さんは、奥さん似なのですか?」
「うちの娘は、私によく似ていますよ~。今回の春休みには一緒に過ごす予定だったのですが、娘が、一緒に居たい人がいるから、と家族旅行を断ってきたんです。きっと男性ですよね~」
ナアダはがっかりした顔で、サラダをつついた。
「親は悲しいですね~。一生懸命育てても、どこかの馬の骨に娘を取られてしまうんですよ。娘の成長を喜び、娘の選んだ相手を信用していますよ~。それでも親離れしていく子供を見ていると、とっても寂しくなります」
ラズは横目で、冊子に料理の挿絵を書き込むユンユを見てから、その気持ちよくわかります、とナアダに向かって大きく頷いた。
「寂しいだなんて、私も歳ですかね~。歳は取りたくないですね。髪が薄くなり始めた時、血行を促すと良いと聞いて、櫛で頭をトントン叩いていたら、頭から流血しました」
ナアダは薄い髪をそよがせて言った。結果は空しいものだったのだ。
「あ、わかります、その気持ち! 私もそばかすに蜂蜜パックが効くと聞いて、顔に蜂蜜を塗ったら、蜂に刺されました!」
「あっはっは、ラズ先生もやりますね~。私は、朝起きた時、枕に付いた髪の毛を数えるをやめましたよ~」
「私も、そばかすを数えるのは、やめました!」
ラズとナアダは、自虐的な話で意気投合してしまった。コンプレックスを持つ仲間を得る事ができて、嬉しいのだ。
話が盛り上がっていると、アンがラズとナアダの間に割り込んで、ラズの視界を遮るように座った。
「ほら、ラズは酒が飲めないだろ。水を貰ってきた」
「ありがとう」
私がお酒を飲めない事を、知っていたのね、と思いつつ、良く冷えた水を受け取った。アンの肩越しにナアダを見ると、奥さんが、ナアダの顎を持って、自分のほうを無理やり向かせている。
和やかにお喋りしているラズとナアダは、周りからは長年連れ添った、仲の良い夫婦に見えたのだ。
アンの胸は煮えたぎるような嫉妬が渦巻いていた。
――ラズは俺だけを見ていればいい。
アンはコレまで何かに執着することがなかった。故に自分らしからぬ嫉妬心を、もてあましてしまう。
出来る事なら、贅を尽くした部屋に閉じ込めて、自分だけのモノにしたい。自分だけを見ていて欲しい。
だが、それはラズを不幸にしてしまう。それどころか、彼女の心は手に入らないだろう。
ラズは鳥のように、両手を空に広げて、自由に飛び回るのを好む。ラズを誰よりも大切にしたいと思うからこそ、閉じ込めることは出来ない。絶対に。
そんなアンの心中は露とも知らず、ラズは良く冷えた水で喉を潤し、遠慮しつつ料理に箸をつけていると、ナアダが甲斐甲斐しく世話をやき始めた。アンとナアダの奥さんが、殺気のこもった目で見ていることなどお構いなしだ。
「ラズ先生、もっとたくさん食べて下さい~。たくさん食べないと、大きくなりませんよ」
ナアダは小さい子に言い聞かせるように言うと、料理を盛った小皿をラズに渡した。
いえ、もう横にしか大きくなりません。あははははと空笑いをしながら、ラズは小皿を受け取った。
白身魚の揚げ物、生魚のサラダ、あら魚のスープ、魚の香草焼き。村では考えられないような魚尽くしのご馳走だ。
「本当に何ら何まで、すみません。村に帰ったら必ずお金お返ししますから」
「気にしないで下さい~。持ちつ持たれつですよ」
その時、吟遊詩人の詩が再び始まった。美しい歌声に、ラズはしばし聞きほれた。英雄クリシナを称える英雄譚は、どこでも評判が良い。再び礼金が飛ぶ。
「手っ取り早く稼げる方法があればいいですけど、私も少し歌ってみようかしら」
ユンユとナアダの手が止まった。ラズは自覚がないが、彼女は究極の音痴なのだ。礼金が飛ぶどころか…………。
それは、やめておいたほうが、ユンユとナアダが口を開きかけた時。
「あら、あるわよ」
「え?」
上品に料理に手をつけていたナアダの奥さんに、全員の視線が集まる。
「手っ取り早く稼ぐ方法、あるわよ」
ナアダの奥さんは、いつものように、静かに微笑をたたえている。優雅な所作で箸を置くと、周りが一瞬静かになる。
「それはいったいどんな方法ですか?」
ラズが我慢しきれず聞いた。手っ取り早く稼げる方法なんて、本当にあったら嬉しいが、上手い話には裏がありそうだ。ラズの喉がゴク、と鳴った。
「それはね……」
ナアダの奥さんが不思議な微笑をたたえて、アンを頭の先から、つま先まで眺めてから、満足そうに頷いた。




