花の繭 ―5―
「お嬢様!」
リ・ランお嬢様が村長の奥方と判明したのち、ラズは番頭のソーパを、村長の家にまで案内した。ソーパは奥方を見るなり、その足元にすがり付いて感涙にむせび泣いている。
「お前……、もしかしてソーパかい?」
奥方は、目を見開いて驚いている。大柄で豊満な奥方に抱きついたソーパは、まるで大木にすがりつく蝉のようだ。
「はい、お嬢様!! ソ、ソーパでございます。なんてお懐かしい」
ソーパのおんおん泣く声は、痩身の身体に似合わず、大音量だ。
「いったい何事だい?」
驚いた村長が杖をついて奥の部屋から顔を出した。続いてダトンにスーリャも顔を出す。
奥方は、足にすがり付いて泣くソーパの頭に拳骨を落とした。ソーパの目に星が飛び散るような馬鹿力だ。
「静かにしなさい、赤ん坊が起きるでしょう」
「赤ん坊、リ・ランお嬢様の赤ん坊ですか!」
「馬鹿をお言い、私の孫だよ」
「孫!?」
素っ頓狂な声を上げたソーパは、涙の引っ込んだ瞳で、村長、ダトン、スーリャと順々に見つめてから、大きく頷いた。
「お幸せなのですね。リ・ランお嬢様」
ソーパがしみじみ呟いた言葉に、奥方は満面の笑みで答えた。
どうやら一件落着したようだわ、と静観していたラズが帰宅しようとした時、奥方に声を掛けられた。
「ラズ先生、待っておくれ」
「え?」
「この男は私の実家の者でね、きっと実家で何かが有ったんだ。もし良かったら一緒に聞いちゃくれないか?」
奥方が駆け落ちして30年近く、まったく音沙汰の無かった実家から、突然やってきたのだから、よほどの事件があったのだと推測できる。奥方の心配そうに曇る顔を見つめ、ラズはおずおず頷いた
「……奥方がそうおっしゃるなら」
「よかった。さあ何でわざわざこの村までやってきたんだい? 夕飯の準備があるから早いとこ話してちょうだい」
気の弱そうな痩身のソーパは、5人の大人に真剣に見つめられながら、しどろもどろ話し始めた。
* * *
ひと粒種だったリ・ランお嬢様が家を出てから、大旦那様は遠縁の男を養子に迎え入れられました。その若旦那様はとても気の弱い性格で、現在でも大旦那様が商いを牛耳っておられます。
それが少し前に、若旦那様は大旦那様に初めて逆らったのです。
若旦那様は有無を言わせず、若く美しい嫁を貰ったのです。若奥様は湯水のようにお金を使い、明らかに財産目当ての結婚でした。
業を煮やした大旦那様が離縁するように進めたところ、とても元気だった大旦那様が急にお倒れになってしまいまして、命に関わることではなかったのですが、このままでは店は若奥様に奪われてしまいます。
それが大まかな話しよ、とラズは食卓に着いたアンとユンユに、ソーパから聞いた話しを伝えた。ソーパは今晩は、村長の家に泊まることになったのだ。
「その若旦那ってのは、馬鹿ですね」
全てを聞き終わったユンユが、嫌悪を露わに吐き出した。
若い発言だなあ、とラズは耳に痛い思いだ。ラズはその若旦那の気持ちがわからなくはないのだ。立場は若旦那かも知れないが、それは名目上であり、大旦那に頭が上らず、養子という負い目もある。そこへ付け込んできた、美女という甘美な誘惑に、つい魅入られてしまったのだ。
見目麗しい2人には、わからない心理だ。ラズは目の前の麗しの天使と妖艶な悪魔のような美貌を眺めた。
「でも、ちょっと気になったのが、離縁させようとした矢先に倒れたってことよね、何だかひっかるわ」
「薬でも盛られたんでしょうか?」
ユンユがずばりと切り込んできた。
「可能性はあるわ」
「とんだ女狐に引っかかったものですね」
「まだ仮定の話だとしても、本当に薬を盛られていたら由々しき事態だわ」
命を救うべく日夜奮闘しているラズにしてみれば、けしからん話だ。
「気になるなら、行ってみればいいじゃないか」
行動派のアンが、あっさり言った。
「ラズは人の命が関わっているのに、見過ごす事はできないんだろ」
確かにその通りだ、本当なら今すぐ荷物をまとめて出かけたい。
ラズは困ったように微笑んだ。
「今は村長の奥方の意見を待ちましょう」
――今はただ、待つしかない。
* * *
新月の晩は全てを飲み込まんとする常闇だ。目を開けていても何も見えない。
ラズは頭を枕に沈めて、まっすぐ暗闇を見つめていた。
――本当に薬を盛っているのかしら。
嫌な話だ。村長の奥方も眠れぬ夜を過ごしているのだろう。
ラズは眠ることを諦め、手探りでランプに明かりを灯した。
――少し外を歩けば、気持ちが落ち着くかもしれない。
ラズは、足元をぼんやりとしたランプの明かりで照らし、音をたてない様に慎重に扉を開き、すばやく外に出た。宵の風が体温を奪う。
空を見上げても星ひとつ瞬いていない。
暗月の夜は、植物も動物も深い眠りに入る。月は死と転生の象徴として崇められ、月の神は脱皮を繰り返す蛇神。白銀の蛇は神の使いとして崇め奉られる。その白銀の蛇は人を死に追いやることの出来る、とても強い毒を持つ、まさに生と死の象徴だ。
ラズは揺らめくランプを片手に、静かに足を進める。自分が踏みしめる土草の音が聞こえてくる、静かな夜。
音も光もない世界は、とても寂しい。
ラズは懐に手を置いた。そこにある櫛は不思議と暖かく感じる。ラズは目を閉じ、ブラフのために黙祷を捧げた。
(いつか彼の故郷に行こう。私のふるさとに)
「ラズ」
不意にアンの声が間近で聞こえて、ラズは飛んで驚いた。
「びっくりした!」
「夜更けにあまり外に出るな、心配するだろ」
「……ごめん、少し歩きたかったの」
「気にしているんだろ、村長の奥方のことを」
「……うん、村長の奥方は実の父親のことを放って置ける人じゃないわ、それでも奥方は今の時期に村長やスーリャの側を離れたくないのよ」
「ラズが奥方の代わりに行きたいんだろ」
「そう、その通り! そんでもって頑固なお爺さんを担いで、この村に奥方の元にお持ち帰りしたいわよ!」
「そん時は俺も手伝うぞ」
アンは筋肉をほぐすように肩をまわした。
「でもね、私がしゃしゃり出る問題じゃないのよね。家族って難しいわ」
ラズは大きくため息を付いたあと、重い口を開いた。
「……アンさんは家族に会いに帰らないの?」
記憶の戻ったアンが、本来居るべき場所に帰ることを止める事はできない。それはわかっていたが、アンがこの村からいなくなるのは寂しい。
「家族はいない。幼い頃、実の親に殺されそうになって、家を飛び出してから、ずっとひとりだ」
「実の親に!?」
家族にはさまざまな形がある。しかし実の子供を手に掛ける親は多くはいない。アンはどれほどの修羅場を潜り抜けてきたのだろう。
「ちなみに俺には妻も子供もいない、特定の恋人もいない。特別な女性はラズだけだ」
「またそんなこと言って」
ラズはアンの愛の言葉を本気に受け取ってはいない。そばかすの散る平凡な女に、誰もが振り向く魅力的な男性が一方的に恋心を募るだなんて、ありえない話だ。
「俺は本気だぞ」
「前にも言ったことがあるけど、看病した患者さんの中には、そういう類の感情を感謝の気持ちとごっちゃにしてしまう人がいるのよ」
「ラズ――」
アンが何かを言おうとした瞬間、空から真っ白な鳥と見まごう如き花守が舞い降りてきた。
花守の口には仄暗い光を放つ、水で出来たような美しい花が咥えられている。
「月影花」
月無き宵に仄かに青白く光る花。月の出ない夜に咲く花は自らが仄かに光り、神秘的な美しさをかもし出している。美しい花にはとげがあるように、月影花には猛毒があるのだ。
「食べちゃ駄目よ、ペッしなさい、ペッ!」
ラズは慌てて花守の口から、月影花をもぎ取った。
「痛っ!」
ラズの手が花守の歯に当たり、手の甲に擦り傷ができた。じわりと血がにじんでいる。
「ぐるるる」
花守がラズの傷を舐めた。悲しそうな瞳がラズの顔を映し出す。
「花守は食べるために月影花を採ってきたんじゃないと思うぞ」
「え?」
「おそらく、ラズにお詫びの品として奇麗な花を渡したかっただろう」
そういえば、アンが採って来た春の果実は、花守が全部食べてしまったのだった。
「そうだったの、ごめん。お前があんまり食いしん坊だから、月影花を食べるつもりかと勘違いしてしまったわ」
月影花は“亡者の涙”という異名もあるほど猛毒を持っているため、花守が口に咥えているのを見て、焦ってしまったのだ。
しょんぼりと肩を落とす花守を見て、ラズは申し訳ない気持ちで一杯になった。好意で摘んできた花を有無を言わせず捨ててしまったのだ。
「お花をありがとう、気持ちだけ貰っておくわ」
ラズは優しく花守の首を撫でる。花守から香る甘い花の香りが、濃くなっている気がした。
「お前の毛は本当に奇麗ね」
真珠のように輝く美しい毛並み。
ラズは櫛を取り出して、その白い毛を梳かし始めた。花守は喉を鳴らして嬉しそうだ。お腹を見せて、もっと梳いてくれとせがむ。
「ラズが気に止むことはない」
懸命に花守を梳いてやっていると、不意にアンの声が聞こえた。
「花のこと?」
「いや、花餅を与えてしまったことを気に病んでいただろう。花守は自らの意思でこの村に来たんだ」
「…………」
ぐるぐると喉を鳴らす花守を見て、ラズは静かに微笑をたたえた。
「ありがとう、アンさんはいつも私の考えている事がわかるのね」
ラズは花守の毛を梳かしながら、アンに背を向けたまま呟いた。このままだと彼に甘えてしまいそうだ。女でひとり、ユンユを育て、誰にも頼ることなく生きてきたラズにとって、誰かに甘えるのは、何かが壊れてしまそうで、とても不安を感じた。月のない夜のように。
アンは一心に花守の毛を梳くラズを後ろから抱きしめた。
「ちょっ」
文句を言おうと肩にまわされるアンの腕を掴んだ。しかしアンの腕は力強く、ラズの力では引き剥がせない。アンはラズの頭に顎を乗せて、体を密着させ包み込むように抱きしめた。
「今は、少しこのままで……」
低い声が密着した体から響いて聞こえる。
月も見ていない幽玄な夜に、2人の鼓動が響く。
どれくらい時間がたったのだろう。長いようで短い時間。
「……花守が寝ちゃったわ」
花守は顔を自分のお腹に突っ込み、丸くなって寝息をたてている。
「…………」
「アンさん?」
「…………」
ピクリとも動かないアンにラズは不安を覚えた。
「……寝たの?」
まさかと思いつつ、ラズは首をねじって振り返ってみた。アンの黒と見まごう金の瞳と目が合い、ラズの鼓動が大きくはねた。
「ラズの体は柔らかいな」
にっこり笑ったアンの白い歯がこぼれ出る。その手はむにっとラズのお腹のお肉をつかんだ。
「なっ! 乙女のお肉をつかむとは何事か!」
ラズはアンのお腹に肘鉄を食らわし、体を振りほどくと、怒ったようにずかずかと歩き出した。その後を音もなくアンが追いかける。
「寝るのか? 1人寝は寂しいだろ、添い寝をしてやろうか」
「結構です!」
「怒ったのか? ラズはもう少し肥えていた方がいいぞ」
「太るならまだしも、肥えるとか言わないで」
「肥えるも、太るも、変らないだろう」
「もう! 早く寝なさい。1人で!」
2人の声は闇夜に消えていく。ラズとアンが立ち去った幽暗な地面に、青白く朧に光る花がある。猛毒を持つ月影花。
むっくりと起きた花守が、その花を赤い大きな口でパクリと食べた。花守は静かに目を瞑る。月の無い漆黒の夜は原初の闇。