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花の繭 ―3―

「平和だな」


春の明るい光がさし込み、そよ風が麗らかに吹き渡るなかを、アンは花守のふかふかの身体を枕にして仰向けに寝転んでいた。花守のお腹が上下するのに合わせてアンの身体も浮き沈みする。グルルルと喉を鳴らす花守は、獣の王者には到底見えない。


春の空はどこまでも澄み渡り、白い雲が浮び、暖かいそよ風が、花の香りを運んでくる。花々がいっせいに咲き乱れる様は、美しさを競い争うかのようだ。判定者のミツバチたちが飛び交い、黄金の蜜を集めて回る。


時の進む流れがゆるやかに感じる。戦に明け暮れた日々が嘘のようだ。


(今もあいつは、俺のことを必死で探しているんだろうな)


アンは遠い所に住む友人を思い、かすかなに微笑んだ。


村人はアンが記憶を取り戻したことを知らない。ラズは何も聞かない。アンの好きにすればよい、と考えているのだ。


(つれないことだ。ひとつの花餅を一緒に食べた仲ではないか)


惚れた相手には、もう少し自分に興味を示してもらいたいと思う。しかし、しばらくの間は、待つと決めた。婚約者であったブラフを失った心の傷に付け込むような事はしたくない。

今すぐにでも自分のモノにしたい。しようと思えば夜這いだって出来る。しかし、それではラズの心が離れていってしまう。欲しいのは、ラズの心。


自分がこんなに謙虚になれるなんて驚きだ。


(すまんな、俺はまだ帰れそうにない)


心にもないことを、そんな声が聞こえてきそうだ。あいつならきっと、そう言うだろう。


高い空を眺めていると、地響きのような、足音が聞こえてきた。


「アンさん、服ができたべ」


「着てみてごせ」


「アンさんは黒がよう似合うべ」


3婆姉妹が服を持って、ドタドタ走ってきたのだ。

アンが着た服は、事細かに採寸したのだから、身体にしっくり来るのは当たり前だ。いたってシンプルな服だが、そのシンプルさが服の上からもわかる鍛えられた肢体をより一層、浮きだたさせる。


「ほんにアンさんは、いい男だべ」


「んだ、んだ」


「これで惚れない女子はおらんべ」


3婆姉妹はラズとアンの恋の仲立ち人になろうと、浮き立っているのだ。あれやこれやと女心をアンに教えてくれるのだ。アンはありがたく拝聴するのだが、ラズにはあんまり効果がないようだ。


「アンさん、これをあげるべ」


そう言って、3婆姉妹が差し出したのは篭いっぱいの赤い果実。


「“春の果実”じゃ、甘酸っぱくて、うまいべ。ラズ先生の好物じゃ。アンさんも食べてみろ」


アンはひとつ、つまんで食べてみた。酸味が口に広がり、甘味が後からやってくる。


「うん、うまい」


アンは指先に付いた果汁を舐めとった。


「じゃろ、春の果実は恋の味じゃ!」


「甘くてすっぱい恋の味じゃ」


「接吻の味じゃ」


キャーと身悶える3婆姉妹を尻目に、アンは“春の果実”をひと粒、花守に投げた。花守は見事に空中でパクッと頬張ると、味わう暇もなく飲み込んでしまった。


「ぐるるる」


「なんだ、もっと欲しいのか?」


アンが春の果実を片手に掴んで差し出そうとすると、花守は篭を奪い取り、ペロリと全部食べてしまった。


「なんと行儀の悪い子じゃ」


「食い意地がはっとるべ」


「ひと口で食べてしまったべ」


アンは空になった篭をさかさまにして、肩をすくめた。


「すまん、婆ちゃんたち」


「残念じゃのう、もう品切れじゃ」


ラズ先生とアンさんの“はい、あ~ん作戦”が失敗じゃ、と残念がる3婆姉妹。


「春の果実は、どこにあるんだ?」


「山のふもとじゃよ。今朝がたワシ等がとりつくしたから、もうないべ」


「もっと山の上に行けば、あるべ」


「んだども、いくら恋の狩人の季節が終って、花守たちが人里離れた、森の奥深くに帰ったとはいえ。熊が冬眠から覚めとるから、あまり山の上には行かんほうがいいべ」


アンは問題ないと、にっこり笑った。


「こいつが一緒に行くから、大丈夫だ」


そう言うが早いか、アンは花守の背中にまたがると、あっという間に天空に舞い上がった。

残された3婆姉妹は、風圧にめくれ上ったスカートを必死に抑えている。


「アンさん、ラズ先生に花守は山に帰せって、言われてたべな」


「んだんだ」


「だども、花守はアンさんとラズ先生が、大好きに見えるべ」


あの花守の幸せは、どこにあるんだろう。


純白の獣は青い空を優雅に翔けていく。



* * *



「ラズ先生、ちょうどいいところに来てくれたべ、今“春の果実パイ”が出来たところだべ、食べていっていきなさい」


甘酸っぱい匂いを身にまとったアルミスが朗らかにラズを迎えてくれた。


「春の果実のパイ! ありがとう。でもその前にヌエさんに、お話があるの」


「ヌエ様なら、いつもの窓辺にいるだよ。それじゃお茶を用意しとくべ」


ヌエはいつものよう窓辺の椅子に座り、白い猫を膝に乗せて、穏やかな微笑をたたえていた。

ラズはおずおずとヌエの前に膝を着くと、そっとヌエの膝に手をかけた。ヌエは見えない目をさまよわせ、ラズのいる方向に顔を向けた。


「ヌエさん、ごめんなさい。私、ヌエさんから借りた指輪を無くしたみたい、きっとすごく大切なものだったのでしょう。一生かけて弁償します」


「指輪?」


「はい、どたばたしているうちに、森のどこかに落としたみたいで」


「指輪なら、ここに、帰ってきましたよ」


「ここに? 帰ってきた?」


ここに、とヌエは膝の上の猫を指した。真っ白な猫は、薄目を開けてラズを見ている。その目は右が金で、左が銀だ。その時、ラズの頭に閃いた。


(あの時の鳥と同じだ!)


アンの頭に止まった白い小鳥も、右目が金で左目が銀のオッドアイだった。


――魔法の指輪。


この猫は、魔法の指輪だったのだ。そういえば以前ダトンに、ヌエのところの白猫はとんでもなく長生きだと聞いたことがある。ラズの詰めていた緊張が、いっきに抜ける音がした。


「良かった~。ヌエさんからお借りした大切な指輪を無くしたと思って、戦々恐々としていたんです」


「ごめんなさい。もっと早く私から言うべきでしたね」


「いえ、私もいろいろと勉強になります」


「ホッホッホ、お話は終わったようだべ、さあラズ先生の好物の春の果実パイ。今朝早く3婆姉妹が届けてくれた、採りたてだべ」


甘い福音たる匂いが、ラズの鼻腔を刺激する。甘酸っぱい春の果実の匂いとバターの焼ける匂い。


「ん~~、いい匂い」


「女は甘いものに目がないべ」


アルミスの言葉に、3人の女は顔を見合わせて、確かにと、朗らかに笑った。


「花守はラズ先生の裏庭にいるだべか?」


パイを切り分けながら、アルミスが聞いた。


「はい、でもアンさんに森へ返すように言いました。花守も仲間の元に戻るほうが幸せだと思って」


「……それはどうかしら」


ヌエの懸念するような声に、ラズは不安を覚えた。


「え?」


「花守は、人の食べ物を食べてしまったのでしたね」


「はい」


「花守は、もう仲間の元へは戻れないかも知れませんね」


「どうして!?」


「花守は神聖で穢れを知らぬ獣。人間の不浄の物を口にしてしまっては、もう聖域には入れないでしょう」


「そんな……」


確かに森で雛が落ちているのを見つけて、木の上の巣に返したところ、親鳥が人間の匂いを嫌い、育児放棄して、他の雛も全滅したという話しを聞いたことがある。また人の手から食べることを学んだ動物は、自然に帰っても、己から獲物を取ることができなくなる。


「これは私の憶測ですけどね。花守はまだまだ生態のわからない獣です」


「はい……」


ヌエの言っていることは正しい。花守を助けつもりが、結果、仲間から引き裂いてしまうことになるなんて、それなのに森に帰せだなんて。


「私が、あの時、花餅をあげなければ」


「それは、花守を助けたい気持ちからの行動だったのでしょ」


「でも、結果、花守を仲間から引き裂いたのは私です」


「ラズ先生、あんまり気に病んじゃ駄目だべ、花守を手なずけたのが、ラズ先生でよかっただよ。あくどい人間だったら、とんでもないことになっとるべ」


アルミスの元気付けるような優しい声は、ラズの耳に届かなかった。


「……ごめんなさい、私、帰ります!」


アンさんを止めなきゃ、きっと私の言ったとおり、花守を森に帰しに行くだろうから。


「ああ、ちょっと待つだべ、パイを包んであげるから、持ってお帰り」


アルミスは、ラズ先生の分、アンさんの分、ユンユの分、それから花守の分。とパイを切り分けて、袋に包み、ラズの手に渡してくれた。


「いつの間にか大家族になったべな」


包みから香る甘酸っぱい匂いが、ラズの心をくすぐった。ラズは笑顔で、


「はい」


と答えた。




ラズは、ヌエとアルミスの家から出ると、急いで家に向かった。


突然の突風に、ラズの赤茶色の髪が巻き上げられ、服がはためいた。空を仰ぎ見ると、白い獣が翔けている。


――花守。


花守は山に向かっている。


(間に合わなかった!)


あの花守を森に帰したら、きっと独りぼっちになってしまう。否、させてしまう。


ラズは踵を返して、花守の向かう先に走った。



家族分の春の果実パイを抱えて。



* * *



森をどれくらいさ迷い歩いたのだろう。花守はいったいどこに? 昼も過ぎ、いつの間にか夕刻に近い時間帯だ。朝ごはんを食べたきりで、あちこち歩き回ったため、ラズのお腹の虫が盛大に騒ぎ始めた。

甘酸っぱいパイの香りに、生唾がこみ上げる。


(だめだめ、コレはみんなで食べるんだから)


傾き始めた太陽を見ながら、ラズは気持ちが焦り始めた。夜の森は危険だ。そろそろ家路に着かなくては。


あの角を曲がったら、今日はひとまず家に帰ろう。と自分の中で決まりごとをつくり、きょろきょろ辺りを見渡しながら歩いた。空も見上げて必死に探した。


「痛!」


前方不注意だったラズは、体ごと、何かにぶつかった。鼻をさすりながら、目の前の物体に焦点をあわせると。


「………………」


2メートルは超える巨大な熊と目があった。


一瞬で体感温度が下がる。

ラズは熊の目を見つめたままゆっくり後退し始めた。決して後ろ姿を見せてはいけない。逃げればすぐさま追いかけられて、一巻の終わりだ。

左足をゆっくり後ろに下げる。熊も前足をゆっくり前に進ませる。ラズと熊の距離は一向に離れない。


熊はラズが隙を見せたら容赦なく襲ってくるだろう。


――このままじゃ、助からない。


「アルミスさん、ごめんなさい」


ラズは甘酸っぱい香りの漂うパイの包みを、熊の後方に投げた。熊が気をとられているうちに、ラズは走った。全力で。


しかし、熊は甘酸っぱい香りのするパイの包みより、動く獲物のほうがお好みのようだ。


「なんで、こっちに来るのよ!」


必死で駆け抜けた森の中。木の間を潜り抜けると、そこは断崖絶壁の崖だった。


減速が間に合わず、ラズは崖の点前でつんのめってしまった。バランスをとるため両腕を思いっきり回した。が、足元の岩が崩れ落ちる。

ラズの身体は、空中の放り出された。しかし、ラズは死に物狂いで岩肌にしがみついた。足元ははるか下に望む雄大な大地。落ちたら命は無いだろう。何としでもこの崖から這い上がらなくては。

ラズは力を振り絞り、崖を登ろうと、上を見上げた。


そこに待っていたのは、熊のかぎ爪。


ラズはとっさに岩肌から手を離してしまった。


「きゃああああああ」


ラズは真っ逆さまに、崖から落ちていった。



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