花の繭 ―2―
暖かい春の日差しが入り込む家の中で、スーリャは温もりのある木の椅子に座り、元気いっぱいにお乳を吸うわが子を、愛おしそうに見つめて、その小さな手を優しく握っている。
赤ん坊のつやつやでぽよぽよの、桃のような頬っぺたに、ラズはたまらず目尻を下げてしまう。
「たくさん飲むわね。この子、日に日に大きくなっていくみたい」
「ダトンみたいに、大きくなるべか?」
「なるかもね」
スーリャの旦那、ダトンはとても大柄な男性だ。
ラズの返事に、スーリャが嬉しそうに微笑んだ。ダトンは愛妻家で有名だが、スーリャもダトンのことを愛している。お互いが、お互いの似ているところを、赤ん坊に見つけ出すのが幸せなのだ。
「ラズ先生、この子が無事に生まれたのも、ラズ先生とアンさんのお陰だべ」
「違うわよ、村のみんなのお陰よ。スーリャがみんなに愛されていたから、奇跡が起きたのよ」
小さな村で起こった、大きな奇跡。
村人、全員の想いが、天に通じたのだ。まったく、ここの村人たちには驚かされる。昔から変わった人たちだと思っていたが、ここまで不思議な人たちの集まりだとは思っていなかった。彼らの過去を聞く村人はいない、いや、ナアガ先生の歳をとらない奥方には、怖くて聞けないのだ。
「私にも、みんなの歌声が聞こえたべ」
あの時は、スーリャを一刻も早く助けるために深くは考えなかったが、花守の背中に乗って飛ぶなど、それこそ奇跡のような話。
吟遊詩人の手にかかれば、かの英雄クリシナにも劣らない、面白く、雄大な噺が出来あがるだろう。
「村のみんなにも感謝している。それでも、ラズ先生には感謝してもしきれないべ」
「そう思ってくれるなら、もう無茶したら駄目よ」
もう、あんな思いはこりごりだ、と言わんばかりに、ラズはスーリャの頭を軽く小突いた。
「んだ、お義母様にも叱られたべ。私も人の親になったんだ、子供のためにも、私が元気でないとな」
スーリャは赤ん坊の背中を叩いて、げっぷをさせると、揺り篭に寝かせてやった。嫁ぐ前は小さな弟や妹の面倒を見ていただけあって、手馴れたものだ。
赤ん坊は、だあだあと言いながら、手足をばたつかせている。
「元気な赤ん坊が産まれてきてくれて、本当によかったわ。それじゃあ私は帰るわね、見送りは結構よ」
ラズは椅子から立ち上がろうとしていたスーリャの肩を抑えて、赤ん坊の頬っぺたをつんつん突いた。
小さな手がラズの指を掴む。
「赤ちゃんって、本当に可愛いわね~」
「ラズ先生もアンさんと子供作ればいいべ」
「――!? ゲホッゴホッグホ!」
スーリャの突拍子のない言葉に、ラズはむせ返ってしまった。
「大丈夫だべか?」
ラズは真っ赤な顔で、大丈夫だから、と部屋をそそくさと出て行ってしまった。
ラズが出て行った後、スーリャが、ラズ先生は初心なんだべ、と赤ん坊に呟いたのは、誰も知らない。
* * *
「まったくスーリャは、とんでもないこと言うわ」
ラズは真っ赤な顔でぶつぶつ呟きながら、村長の家の扉を開けた。
「きゃ、びっくりした」
扉を開けた、目の前に村長の奥方が座りこんでいたのだ。大柄な奥方は扉の前の階段に座り込んで、頬杖をついている。
「どうかされたんですか? 何か心配事でも?」
心配事でも? そう聞いてしまうほど、奥方の顔は曇っていた。ラズはスーリャに聞かれないように、そっと扉を閉めた。
「ラズ先生、私とうとう“お祖母ちゃん”になっちゃたわ」
はあ、とため息を漏らした奥方に、ラズはなにがしか共感を覚えてしまった。
「でもね、私は今すごく幸せよ! 孫がこんなに可愛いものだと思わなかったわ。あの白桃みたいな頬っぺた、食べちゃいたい!」
そう言うと、奥方は胸にかけてあった、掛香を青い空にかざした。
掛香は、色とりどりの刺繍を施した美しい巾着に、お香をしのばせた手の平サイズの物で、首にかけたり、家に飾ったりして、香りを楽しむ、女性のおしゃれ道具だ。
奥方の掛香は真っ白な繭を五色の糸で編みこまれ、動くたびに小さな宝石が、シャランシャランと音を奏でる素晴らしい品だ。白い繭は、さなぎから美しい蝶へと変貌するように、と願う親が、産まれたばかりの女子の赤ん坊に、贈る風習がある。また蝶は魂と同一視されることもあり、繭は魂の殻として子供が長生きするようにと、お守りの意味もある。
「美しい掛香ですね」
「私が実家から持ち出した唯一の物よ。うちの父親がね、ひとり娘だった私に良い婿を、と願をかけて高価な品であつらえたのよ。でも結局は家を飛び出して、今のダーリンの押しかけ女房になったんだけどね」
ガッハッハと笑った奥方は、首に下げていた掛香を、ゆっくりと外した。
「後悔はしていないわ。それはきっぱりと言えるの。でもね、私の親にダーリンを認めてもらいたい、私によく似た息子を見てもらいたい、働き者の嫁を、可愛らしい孫を見てもらいたい、私の幸せを見てもらいたい、一緒に幸せになりたいと、ずっと思っているの。勘当された身では、なかなか会いにいけなくてね」
「行くべきですよ!」
生きているなら、会うべきだ。ラズは強く思う。
「ええ、私の父も歳だし、心配なの。でも今は、この村を離れるわけには行かないでしょ」
「確かに……」
奥方が、腰のリハビリ中の村長や、初めての子育て中のスーリャを放って置けるわけがない。どうしたものか、と考えあぐねいていると、奥方の声が思考を遮った。
「あら、あれはユンユじゃない」
村長の家に向かってとぼとぼ歩いてくるユンユは、明らかに落ち込んでいる。
「ユンユ、どうしたの?」
今日はいったい全体どうしたものだ。春の愁いかしら、と思いながらラズはユンユに声をかけた。ユンユは、奥方のほうを見ると、申し訳なさそうに口を開いた。
「奥方、すいません、オシメを川で洗っていたら、うっかり流してしまいました」
「あら、ユンユにしては珍しいわね。ラズ先生ならともかく、ユンユもそんなおっちょこちょいをするのね」
「私なら、ともかくって……」
「ラズ先生は、しょっちゅう洗濯物を川に流して、川の中を水しぶきを立てて、追いかけていたじゃない。見かねたユンユが家事一切を引き受けることになってしまって」
「ぐっ……」
奥方の思い出し笑いに、ラズは面目ない気持ちで、一杯になった。ラズは家事が苦手なのだ。
「そうだわ、ユンユ、いまラズ先生と話していたのだけど、良かったら港町にお使いに行って来てくれない」
奥方がひらめいた、と両手を叩いて言った。
「港町ですか?」
港町ならラズと何度か行ったことがある。そんなに遠いところではない。
「そう、私の実家に、この掛香と、私が書いた手紙を渡してもらいたいの」
「駄目よ、何を言っているんですか」
奥方の提案に俊敏に反応したのはラズだった。
「ユンユをひとりで港町にお使いに行かせるなんて、無茶です!」
そのラズの言葉にユンユはむっとした。ユンユは柳眉を逆立てて、ラズに食い下がった。
「どうして無茶なんですか?」
「ユンユはまだ15歳よ」
「もう15です。先生より身長だって高い。港街に行って帰ることくらい出来ます」
「でも、まだ……」
「ラズ先生は、いつも僕を子ども扱いする! いいかげんうんざりなんだ!!」
ラズの言葉に、ユンユの怒声が被さった。
「そんなつもりは、ただユンユはすごく奇麗で、だからまた……そうだ、アンさんと一緒に」
「先生は、僕を信用してないんだ!!」
そう言い捨てると、ユンユは踵を返し、風のように走り去っていった。
「…………ユンユ」
初めて真っ向から、怒鳴れて、ラズは戸惑っていた。最近、反抗期かな? と思う節はあったが、こんなに感情を露わにして、ラズに喰って掛かるなんて、ユンユらしくない。
「あらあら、親子喧嘩だね」
奥方がにやにや笑いながらラズを見ていた。
「始めて、喧嘩しました」
「いいことじゃな、喧嘩するほど仲がいいって言うでしょ。でも、ラズ先生も、そろそろ子離れが必要な時期になってきたんだね」
ガッハッハッハと豪快に笑った奥方は、ラズの手に掛香を渡した。
「あの子を信じてやんなさい」
ほんのりと甘い花の香りのする掛香は、どこか寂しそうにラズの手に収まった。
* * *
「ラズ先生に、なんて事を言ってしまったんだ……」
ユンユは自責の念にかられていた。泥沼の底に沈んだような気持は、恥の枷も相まって、一向に浮上できそうにない。
――アンさんと一緒に。
ナイフのようなラズの言葉に、ユンユの心は締め付けられたのだ。嫉妬だとわかっている。
(アンさんなら信用できるのか、数日前に会ったばかりの男じゃないか!? 確かに僕はまだまだ子供さ! それでもアンさんよりは、僕のほうを信じてもらいたかった)
歯痒さを、ラズにぶつけてしまった。
ユンユはわかっていた、ラズが自分の事を心配してくれいているのを。あの誘拐事件から、ラズは過保護になったのだ。この村に移り住んだもの、あの事件が後を引いていたからだ。
ラズには負い目など、感じてもらいたくないのに。
戦で孤児になったユンユは、誰も引き取り手がいなかった。その出生ゆえ、忌み嫌われ、孤児院でさえ引き取ってもらえなかったのだ。
生きて行くには、どこかの金持ちの慰め者になるしかなかった。そんな時、見返りを求めず、手を差し伸べてくれたラズには、誰よりも感謝している。
感謝とう言葉では言い表せない。
「それなのに……」
自分はまだまだ子供だ。
ユンユの独白は森の中に消えていった。
「帰ってから、ラズ先生にきちんと謝らなくては」
謝ろう、そう決めたとたん、気持ちが上向きになるのがわかった。そうだ、流してしまったオシメの代わり、新しいのを縫って返さなきゃならない。とつらつら考えながら歩いていると、ユンユの耳にガサ、と茂みを掻き分ける音が聞こえた。
「!!」
ユンユは薬草採取のために、いつも携帯しているナイフを鞘から抜き、音のしたほうを向いた。この時期は冬眠から覚めたばかりの獣が、お腹を空かせて森のふもとまで降りてくるのだ。
(しまった。熊避けの鈴を持たずに、森の中に入って来てしまった)
森は彼らの領域であり、人は規律を守らなければ、痛い目に遭う。
ユンユの背中に冷たい汗が流れる。自分の鼓動の音が、森の中に渦巻くようだ。
再び茂みが。ガサガサ音をたてた。
ナイフを持つ手に力がこもる。
「――!」
ユンユのナイフが飛び、森の中に悲鳴が反響した。