花の繭 ―1―
――王都。
それは国の最高指導者である国王が拠点とする都。政治の中心でもあり、経済の中心でもある。国の中枢。
城下町は、毎日がお祭騒ぎのように、賑わい活気づいている。キャラバンのように旅を続けながら商売をする者から、立派な門構えで貴族相手に商売する者、旅芸人の曲芸が見物客を沸かせている。人々の笑い声や、怒声は夜のとばりが降りても、途切れることはない。
城下町の活気は、国が栄えていることを反映しているのだ。
城壁に囲まれた美しく荘厳な城は、空中庭園という異名を持ち、王の威厳を見せ付けるのと同時に、難攻不落の城として有名だ。
その城の、豪華な絨毯が敷き詰められた執務室で、怒りを抑えた男の声がこだまする。その静かな声には、ガラスのような鋭利な響きを感じさせた。
「あのお方は、まだ見つからないのか?」
「も、申し訳ありません、極秘の捜査のため、思うように進まず……」
初老の男が、顔に流れる汗をしきりに拭きながら答えた。まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。初老の男の汗が、豪華な絨毯にシミを作る。
「いい訳はけっこう。いいな、草の根を分けても探し出すんだ」
「はっ」
初老の男は、うやうやしく頭を下げると。1度も合わせる事が出来なかった眼を伏せたまま、執務室を後にした。
執務室にひとりになった男は、キリキリ痛む胃を押さえた。自分が探しに行けたら、どれほど気が楽か。男は執務机に山のように積み上げられた書類をげっそりと眺めた。
* * *
所変って、のどかな、名も無き小さな村。
小鳥がさえずる、さわやかな朝。
「駄目よ」
「いいだろ、ラズ」
アンは上半身に何も身につけず、ブロンズ色の鍛えられた美しい裸身をさらして、ラズの肩に手をそっと乗せて、耳元で囁く。甘く低い声で。
「駄目ったら、駄目!」
ラズはアンを払いのけるように、背中を向けた。ラズの顔は、仄かに色づいている。
「ラズ……頼む」
懇願するアンに、ラズは聞く耳を貸さない。
「駄目よ!」
ラズは人差し指で、ビシッ! と裏庭に座り込んでいる花守を指した。
「うちで花守は飼えません! 森へ返してらっしゃい」
腰に手を当てて、断固とした態度をとるラズに、アンと花守がしょんぼり肩を落とす。
花守は犬のように、上目使いで様子を伺っている。その姿は堪らなく可愛い。
(くっ、駄目よ、ここで負けちゃ。食事代だって馬鹿にならないんだから)
「花守の面倒は、俺がちゃんと見るから」
「ひとりじゃ、世話が出来ないわよ。生き物を飼うのは大変なんだから」
その光景は、子犬を拾ってきた子供と、叱る母親の図だ。しかし、拾ってきたのは、可愛い子犬ではなく、獣の王者とも言われる、猛獣の花守だ。
「だいたい、アンさんが花守と本気でじゃれ合うから、2着しかない服がすぐにボロボロになったじゃない!」
ラズは、ボロ雑巾のようになってしまったアンの服を目の前にかざした。手先が器用なアンでも、コレを元に戻すのは不可能だ。残るは3婆姉妹に貰った黒騎士の服しかない。さすがに騎士の服で農作業はあまりにも滑稽だ。
故に春になったとはいえ、まだ肌寒いなかを、アンは上半身裸を強いられているのだ。アンは一向に寒がるそぶりを見せないのだが、ラズは目の置き場に困る。
「眼福じゃ、眼福じゃ」
「眼の正月じゃわい」
「んだ、眼の保養じゃ」
アンの服を作りに来てくれた3婆姉妹がポ~と、頬を染めて、アンに見惚れている。獣の王者である花守を目の前にして、なんとも肝の据わったおばあちゃん達だろう。この歳になれば怖いもんなんて、そうそう無い、と笑いながら言うのだ。
「おばあちゃん達、アンさんが風邪をひく前に、服を作ってあげてちょうだい。アンさんは花守を森へきちんと返すのよ」
人の言葉を理解出来るのか、花守はアンの後ろに隠れてしまった。もちろん、その巨体は隠れ切れていない。縮こまり、アンに助けを求めるその姿は、なんとも哀れみをそそる。
「可愛そうじゃ」
「んだ、んだ」
「花守とアンさんを引き離さんでくれ」
おばあちゃん達の野次にラズの頬が引きつる。恋人同士を引き裂く極悪人になった気分だ。
(私か? 悪いのは私か?)
しかし、野生の動物は自然の中で生きるのが幸せだろう。また花守はあくまで猛獣なのだ、いついかなる時、その牙を村人に向けるかわからない。ここは心を鬼にする必要がある。
「花守を飼う事は、許しません。森へ返してらっしゃい」
ラズは厳格な態度で言い渡した。最後通告だ。
「じゃあ、私はスーリャの所に行くから、おばあちゃん達はアンさんの服をお願いしますね。それから、くれぐれも“普通の服”でお願いします」
なんじゃ、つまらんのう、とぶつぶつ言うおばあちゃん達を残して、ラズは村長の家へ向かった。
* * *
春の祭りが終ると農作業はぐっと忙しくなる。畑に灰をまき、肥しをすき込み、より良い土壌作りに励むのだ。しっかりした土は、農作物を育むのに大切な基盤。
土はまるで親のようね。そう言ったのはラズ先生だったな。ユンユは陽気に畑仕事をする村人たちを眺めながら、川で洗濯物を洗っていた。
ユンユは自分の親の事は、ぼんやりとしか覚えていない。幼い頃の事は、あまり思い出したくないのだ。
美しく、煌びやかだった母は、産み落とした子供を1度も顧みる事は無かった。抱きしめられた記憶も無ければ、微笑みかけられた記憶さえ無い。覚えているのは、鏡の前で紅をさす、美しい母の後ろ姿。
ユンユの口から大きなため息が漏れる。
アンがこの村に来てから、調子が狂いっぱなしだ。
アンが届けたラズの櫛。その櫛で髪を梳かした彼女は、凛として、澄み切った表情をしていた。
何かが吹っ切れたのだろう。
ラズが幸せになってくれるのは嬉しい。出来ることなら自分の手で幸せにしたかった。
ラズとアンを見ていると疎外感にさいなまれ、孤独を感じる。
ずっとラズと2人で生活をしてきた。これからも、この平和な村で、ぬるま湯のような幸せが続くと思っていた。
(もし、ラズ先生とアンさんが結ばれることになれば、自分はどうなるんだろう?)
居場所がなくなる不安。大切な人をとられる焦燥感。進み行く道を見失い、ひとりで迷路に迷い込んだようだ。
取り残されたようなで、落ちつかない。
再びため息が漏れる。
愁いを帯びた金髪碧眼の美少年は、緩やかに流るる白い雲を仰ぎ見ながら、澄み切った奇麗な川で赤ん坊のオシメを洗っていた。