恋の狩人 ―10―
山は無気味なほど静寂に包まれていた。森の生き物たちが、息を潜めている音が聞こえてきそうだ。
夕刻の迫る時刻、足元が暗くて良く見えない。慎重に歩かねばならない。
「30分ほど歩けば、恋花の咲く木があるわ。私に付いて来てね」
ラズは、後ろを振り向いて、アンが居るのを確認した。
アンはまったく足音を立てないため、ラズは何度も確認してしまう。
「……結局、その格好で来ちゃったのね」
金の瞳の黒い騎士。腰に挿したククルの剣。どこをどう見ても、高貴な騎士に見える。
「俺はラズの騎士だからな」
白い歯がこぼれる。
――この絶望的な状態でも、アンさんは笑えるだわ。
とても心強い。
「ありがとうアンさん。貴方が居なかったら、私はもう諦めていたと思うわ」
「礼を言うのは、まだ早い」
そう言うとアンは、ラズの小柄な身体を子供のように持ち上げた。
「アンさん!」
顔が近い。金の瞳にラズの顔が移りこんでいる。
「この方が早く進める。さあ道案内してくれ、ラズ」
アンは先ほどより数倍早く歩き始めた。今は一刻を争う事態だ。恥ずかしいとか、そんなことを言っている暇はない。
「重いでしょ? 疲れたら言ってね」
それでもやっぱり、体重のことが気になる。
「重たくはない、小鳥みたいだ」
「小鳥は言い過ぎよ」
ラズが笑った。笑った瞬間、大粒の涙が転がり落ちた。
「ラズ、なぜ泣くんだ?」
アンは親指の腹で、ラズの涙を優しく拭いた。
「同じ事を言ってくれた人がいるの。小鳥みたいだって。私の赤茶色の髪が、恋の狩人の色に似ているから」
「誰が?」
「私の婚約者よ」
あれは、12年前、ラズが16歳の頃。
「まったく、医者の不養生ってのは、この事だ」
「まだ医者ないもん」
16歳のラズは、寝食を惜んで、医学の勉強に励み、病人の家を駆け回り、ついに患者の家で倒れてしまったのだ。患者の家で横になっていたラズを、幼馴染のブラフが迎えに来てくれた。
ブラフは、1人で歩ける、と言い放つラズを、無理やり背中に背負い、夕日の中を家路についた。
ラズを背負って、小さな道を歩くブラフ、2人の影が長く伸びる。
ブラフの背中はとても温かくて、心地よい。ラズは頬ずりをしたくて、堪らなかった。
「ラズは鶏ガラみたいに軽いな」
背中を通して、ブラフの声がくぐもって聞こえた。
「鶏ガラなんて、花も恥らう乙女に対して失礼よ」
「もっと太れ。俺の子供を産んでくれるんだろ」
ラズの顔が夕日に負けなくらい、真っ赤になった。
「そんなこと言ったけ? 覚えてないわ」
もちろん覚えている。でも恥ずかしくて、つい虚勢を張ってしまった。
「とぼけるなよ、覚えてるんだろ。ラズがまだ8歳かそこらだ、あたち大きくなったら、ブラフと結婚して、たくさん赤ちゃん産んであげる。て」
それは7歳の頃から変わらない、ラズの夢だ。
ブラフはラズを背中から降ろすと、真剣な表情でラズを見つめた。
「ラズ、俺の可愛い“恋の狩人”」
ブラフはラズを抱き寄せると、赤茶色の髪に口づけを落とした。そしておでこに、頬に、鼻に、瞼に、唇に、ついばむように口づけを落とす。
恋の狩人は、ブラフがラズに付けたあだ名だ。恋の狩人の羽毛の色が、ラズの髪の色によく似ているから。
「俺と結婚してくれ、ラズ」
ラズはブラフに抱きついて泣いた。何度も頷いて泣いた。
――結婚します、貴方と。
しかし、2人が祝言を挙げる前に、ブラフは戦へと駆り出された。
「待っていてくれ」
その言葉を残して。
ラズは待った、待つだけでは足りなくて、戦場に赴いた。負傷者にブラフがいないか探した。多くの負傷者を診たが、肝心のブラフには会えなかった。
――いつまで待っていればいいの、ブラフ。
心のどこかではわかっている、ブラフはもう……。
ラズは思慕を振り払うように頭を振った。今は、昔の思い出に浸る時じゃない。
「アンさん、その木を左に曲がって」
ラズは温かいアンの体温に、安らぎを感じていた。
* * *
花守。
孤高の獣の王者。
決して、人に懐くことなく、使役される事のない。最強の獣。
その姿は、気高く美しい。
「あれが花守……」
ラズの視線の先に美しい光景が広がる。
淡く光る、桃色の恋花。朧月が春宵に浮び、赤茶色の小鳥が舞い踊る。神秘的な光景。
その周りに鎮座する、白く美しい獣。
人間の3倍はありそうな巨大な猫のようにも見える。馬のような鬣が銀の月のように仄かに光り、額に白い角が生えている。サファイアのような青い瞳が美しい。空を飛べる巨大な翼を休め、伏せている。
ラズとアンは十分な距離をたもち、風上に移動して、木陰に身を寄せた。
「準備はいいか?」
アンが剣を鞘から抜くと、朧月がキラリと反射し、金属のかすかな音が波紋のように広がった。
「待って、ナアガ先生の奥さんに貰ったこの痺れ薬を――」
その時、大きな影が2人の上に現れた。
瞬時、アンがラズを抱えて横に飛んだ。先ほどまで2人が居た地面を、大きな鍵爪が抉り取る。
「グルルル」
唸り声。それは目の前の巨大な獣の怒りの声。
「花守……」
ラズは呆然と呟いた。圧倒されて脚がすくむ。
美しい獣は、その青い瞳を怒りに染め上げ、今にも襲い掛からんと、姿勢を低く構えた。
「ガア!」
咆哮だけで、ラズとアンを吹き飛ばした。
畏怖。ラズは死を覚悟した。
「ラズ逃げろ!!」
アンは剣を構えた。
――勝てるわけないわ。
「ラズ!!」
――そうだ、痺れ薬。
ラズは、必死で辺りを見渡した。
――あった!
木陰に隠れるように落ちていた小さなビン。ラズは必死に走った。ビンを掴み、振りかえると、アンが花守を相手に応戦していた。
――すごい。
アンは流れるような剣さばきで、見事に花守の鍵爪を受け止めている。激しく交わる剣と鍵爪の音が森の中に反響する。ラズのような素人から見てもアンのすごさがわかる。
まともに花守と戦える人間が、この世に居るとは思わなかった。
ギィィン!
金属の折れる音が、夜の空にこだました。折れた剣先がラズの近くの地面に突き刺さる。
「っ! アン!」
アンが花守の鍵爪に掛かり、後方へ飛ばされた。
ラズが駆け寄ると、アンはこめかみから血を流しているではないか。
「心配するな、かすっただけだ」
「かすっただけですって! 吹っ飛んだじゃない!」
アンのこめかみの傷は小さく、血も顎までは届いていない。
「自分から、後方に飛んだだけだ」
アンのムッとした顔が、子供のようだ。こめかみの血を拭うと、アンは折れた剣に視線を落とした。
「コレはもう、使えないな」
折れた剣が、むなしくアンの手から滑り落ちる。素手で立ち向かう気だ。無茶に決まっている。
「グルルル」
花守が歯をむき出しにして、2人の前にそびえ立つ。
「アンさん、口を閉じて!」
ラズは左手で自分の口をふさぐと、痺れ薬を花守に向かって投げた。
「グアャッ!」
と悲鳴をあげた花守は、苦しそうに身もだえして、口から泡を吹いている。痺れ薬に立つ力を奪われた花守は、大きな地鳴り響かせて地面に崩れ落ちた。
「すごい効き目だわ!」
しかし、そう思ったのは、つかの間。
ラズとアンは5匹の花守に囲まれていた。花守たちは仲間を傷つけられて、怒り狂っている。
絶体絶命のピンチである。