黒い夢
朝の陽光が、白い紗となって幾重にも折り重なっている。澄んだ空気から、朝露をほのかに葉の上に乗せた森のかおりが滲んでいた。
葉牙助は、その清らかなひかりが、夜色をした影虎の体に降り注いでいるのを見つめていた。
少し冷えた白いもやが、彼女の体全体の輪郭を縁取り、ぼんやりとした暈のようになっている。虹色にも見えるそれに吸い寄せられるように、葉牙助はぼんやりとした寝ぼけまなこを向けていた。
影虎はそんな彼に背を向けたまま、そっと立ち止まった。
「……おい、いいか」
「う、うん」
葉牙助はおずおずと立ち止まった。くちびるを噛みながら袖を捲り、二の腕を出した。痩せたそれに、陽が当たり、つややかに白くひかる。
影虎は彼の二の腕に目をとめたまま、静かに刀の鯉口を切り、刃を抜くとそっと葉牙助の腕に当てた。
「うっ……」
刃が当たり、皮膚が裂けた痛みで葉牙助は顔を歪めた。裂けたところから、空気に触れたばかりの鮮やかな血が生まれ、それが雨のしずくが溜まった場所に当てられた布巾のように、ゆるやかに刀に吸い取られていく。
その自然な流れを見つめながら、葉牙助は不思議な思いにとらわれていた。
長年、影虎の血だけを吸い続けていたというその刀は、葉牙助の血をその身に受け入れることに、あまり抵抗を見せなかった。最初に血を吸わせたときは、引っかかるような感じがあったが、その後は蛭のようによい吸いつきを見せた。
すでに影虎との旅を始めて二日経っており、腕には血止め薬の跡が数箇所できていた。
「やっぱ慣れねえな……」
葉牙助は独り言のようにちいさくつぶやいた。自分の肌を刀の刃が深く斬る、というのではないにしても、刃先が触れて皮膚が切れ、流れた血を吸われる。それも毎日定期的にというのは、今まで経験したことのないものだった。
慣れない感覚に、腕をぶんぶんと振りたくなるが、傷が開いてしまうため、我慢して懐から出した白い晒しをくるくると巻いた。
影虎は彼の横で刀をさっと払うと、鞘におさめた。
「あー、疲れたなあ。今日はもうここで休むぞ」
いつもよりも、のんびりとした声だった。
葉牙助は影虎の方を見上げ、驚いて目と口を丸く開ける。
「えっ?」
影虎は葉牙助の方を見なかった。金色の瞳は、何を考えているのかわからないほど静かに澄んで、暮れ行く空をうつしていた。
夜がやってきた。透き通った空を渡るように、梟の声は再びほう、ほうと綿毛がふわりと空気中に浮くように漂っている。
満天の星々は、背を向け合って寝ているふたりにも、ひかりとなって降り注いでいる。
互いに髪をとき、蹲って寝ていた。
下に敷いたうすい布越しに、生々しい土の感触が肌に触れる。水をかすかにふくんだ冬のそれは、黒くつめたかった。枕にした左腕が布と共に冷えて溶けてしまいそうだった。
影虎の長い黒髪が、葉牙助の背中に触れる。虫の声も静かになった夜に、背後に眠る少女の寝息だけが聞こえていた。すうすうとしたそれは、穏やかなものだった。
葉牙助はやがて影虎の背を横目で見ながら、頭の後ろに手を重ねて、そっと彼女の丸い後頭部を見やった。
(こいつ……もしかして俺を気遣って……?)
昼間のことを思い返す。葉牙助の身を案じ、体を休めることを提案してくれたのか。そう思うと、なんだか心臓の奥が手のひらで包まれて、じわりと温かくなっていくように感じる。
葉牙助は、そっと半身を起こした。
「もう寝ちまったのか」
葉牙助は、四つん這いで影虎に近寄った。
そろり、そろりとゆっくりと手と膝を地につけて影虎へ近づいてゆく。
「ん……」
葉牙助が影虎の顔のかたわらに右手をついたとき、彼女はかすかに眉を寄せ、寝返りを打って仰向けになった。
月光をまともに受けた白い顔が、黒い森に囲まれた中で、泉に月を落としたように映えている。
葉牙助はその寝顔を見下ろし、徐々に頬をうすくれないに染めた。
(ひゃ~!! やっぱ近くで見るとすげえ綺麗な顔してるぜ。江戸で見たどんな女より可愛い……!)
胸がとくとくと高鳴った。片手を心臓の位置にあてる。さきほどまで冷えていた左腕も嘘のようにあたたかく血が巡っていた。
影虎は半目を開けた。月よりも濃い金色の瞳が、白い肌の上に冴えていた。
葉牙助と目が合う。金の中にある黒いまなこが、かすかに開いている。瞳の透き通ったところがきらりと刃の如く光った。
「うわっ!!」
葉牙助は、腰を丸めて後ろへころがった。
影虎は葉牙助から視線を逸らすと、気だるく半身を起こした。
「ああびっくりした! いきなり目ぇ開けるんだもんな」
葉牙助は胸に手を当てて、呼吸を上下させた。先ほどまで愛らしく鳴っていた心臓の音は、今はどくどくと血が流れる強い音に変わっていた。
「おい餓鬼。俺は眠り猫と一緒だ。自分からは他人に近付かねえが、向こうから危害をくわえようとしてきたら容赦はしねえ」
影虎は葉牙助を睨むと、不敵な笑みを浮かべ、かるく脅すように刀の鯉口に右手を添えた。
(前言撤回! こいつやっぱ鬼だ!)
先ほどの夜の月に照らされた彼女の寝顔に見惚れていた自分の溶けた顔を思い出し、恥ずかしさで胸がいっぱいになる。
「べ、べつになんでもねえよ! ちょっと小便したくなっただけだ!」
葉牙助は影虎に背を向け、かたりと体を倒して、ふたたび横になった。
影虎は葉牙助のちいさな背中を見つめ、穏やかな笑みを浮かべて、自分も背を向けて横になった。瞼を閉じ、長いまつげを伏せる。横顔に月光の薄青いひかりが当たり、真珠色の細かなきらめきを浮かべている。
静かな沈黙が流れ、風に乗るように蛍が薄緑のともしびを連れて数羽、ひらひらと飛んできた。
葉牙助はかすかに首を背後へ向け、枯れ葉色の大きな瞳だけを影虎に向けた。彼女の上下する細い肩を見ていると、葉牙助はなぜだか楽しい気分になり、完全に影虎の方を向いた。
「……なあお前さ! 江戸に着いたら俺んち寄ってけよ。十護郎兄さん、すげえ優しいから歓迎してくれるよ。兄さんの作る飯、美味いんだぜ!」
彼女のうすい肩に向けて話しかける。長い黒髪が揺れてかかったその背中は、月光の冷えたひかりを集め、艶のある白い光沢をそのすじに添うようにはらんでいる。
「まあちょっとおせっかいなところあるけどさ」
葉牙助は少し眉を歪めてへらりとあかるく笑った。そして片手で体を支えて軽く身を起こす。
髪が揺れる。
「……興味ねえ。お前との関係は江戸に着いた時点で終わりだ」
背を向けたまま、氷のようなつめたい声音の囁きだった。
その声は、葉牙助と彼女の間に生まれていた何か温かいものをやわらかく砕いた。
葉牙助はしばしの間、体を硬くし、瞠目して瞳を揺らしていた。
夜風が彼の肩先の髪を、葉が散るように静かに揺らす。薄い肌を切るようにつめたかった。
「わかったら早く寝ろ」
「ちぇっ」
葉牙助は悲しげに息を吐くと、くるりと影虎に背を向けて、ちいさな体を丸めて無理やりまぶたを閉じた。
そばに沼でもあるのだろうか湿った水と枯れ葉と何かの生き物が溶けるような心地の悪いにおいがした。
花曇りのうすい霧が、あたりに静かに漂っている。花のにおいをまとったそれは、甘くかぐわしくも、どこか苦味を感じさせるものだった。
影虎は寄せていた細い眉をほどき、白いまぶたを開いた。
眠りから覚めたばかりの、潤んだ金色の瞳を開くと、薄青と薄紫と薄紅が交互に入り組んだような紗が、ゆらゆらとゆらめいて彼女の頬に触れる。
ぼんやりとした視界の中で、宙に浮かんでいるものがあることに気づいた。
その瞬間、あたりのすべての光が消え、浮かび上がっているものと自分自身だけが白くそこにある。
目が闇に慣れて冴えてきて、眇めた。
夜空に浮かぶ月のように薄いひかりの暈をまとっているそれが何かに気づいた時、はっと瞠目した。
「高虎……」
ぼうとした白い炎のように浮かんでいたものは、高虎の首だった。深い皺を刻んだ小麦色の肌をした老年の男が、まぶたを閉じて岩のように佇んでいる。
両手で上体を支え、屈んでいた影虎は、はっと立ち上がった。
いつの間にか、彼女は着た覚えのない白い着物を纏っていた。桜の花弁を重ねたようなそれは、彼女の白い肌と下ろした長い黒髪に似合っており、背景の暗闇の中で浮かび上がるように映えていた。帯は地が椿の色をしており、血のように赤い。
影虎は、高虎の首に向かってかすかに首を伸ばす。
すると、高虎の首から、雨が降るようにたらたらと血が流れ出した。
地からゆびさきを離し、着物の袖を闇の中に翻すと、花弁がほころぶように、ひかりを残して舞ってゆく。
高虎の首から流れてゆく血の粘度が、さらに増していく。
影虎は無意識に両腕で高虎の首を抱きしめた。
彼女の白い着物に、鮮やかな赤い血が染み渡るように広がっていく。抱きしめた腕の力をゆるくほどくと、影虎は高虎の首を自分の頬に近づけ、ひたとつけた。
高虎の頬はつめたく、固かった。
影虎は瞼を閉じる。透明な涙が、きらめいた粒を重ねてなめらかな白い頬を伝い降りてゆく。それが彼女のてのひらに流れ、高虎の乾いた頬をも濡らしてゆく。
「刀を捨てたら、俺も一緒に死ぬ。俺の人生は、もうそれだけの為にあるんだ。だからそれまで、地獄で待っていて……」
震える声で、今はもう亡き大切な人にそう呟いた。
閉じた視界に黒いもやが広がっていく。傷口から生まれた血のように、とどまることを知らず。
影虎の意識はそこで途絶えた。
星屑の浮かぶ夜空は、光を反射してきらきらと煌めく湖の水面のように闇の上を覆っていた。
心地よい温度の風が、黒い葉が重なる木々の間を流れ、さわさわという音を奏でさせている。
間隔を置いて横になっている葉牙助と影虎の間にも、その風は流れていった。
葉牙助は片腕を曲げ、自分の頭を枕にしていた。そこに彼の髪がこぼれている。
数分前から目を開けて、背後で嗚咽を漏らしている影虎の声を聞いていた。身を絞るような、その苦しげな切ないうめきに、心が反響して悲しい気持ちになってくる。
心配そうに、葉牙助はそっと影虎の方を見やった。
「影虎……。夢を見てるのか? 泣いてる……」
影虎は両腕に抱いた刀の鞘を、ぎゅっと抱きしめていた。
眉を寄せ、白い頬は薄青い影をした涙に濡れている。
葉牙助は口を開けたまま、切なげな表情で影虎の背を見つめていた。
ましろい月が、やがて薄紫の朝の色彩に溶けていっても、そうして震える彼女の黒い背を見守っていた。