サーシャと風景
美佳の父親はある有名な電気会社の社長で、国内のみならず海外をも飛び回っていて、ほとんど家に帰ってこなかった。帰ってきても、美佳の母親との喧嘩は絶えなかった。美佳はいつも一人、部屋でこもって両親の大きな罵りあう声を聞いた。サーシャは言った。
「耳を塞ぐのよ。美佳。あの声を聞くとあなたは磨り減ってしまうのよ。」
美佳はサーシャの言った意味が分からなかったが大人しく両手で耳を塞いだ。すると、何も聞こえなくなった。静寂は美佳を落ち着かせた。それから美佳は両親が喧嘩するたびに、耳を塞ぐことを覚えた。小学校に上がる頃には、両手で耳を塞がなくても、自分で耳を聞こえなくすることが出来るようになっていた。
美佳は小学校になって、自分が生きている世界とは別の世界があることに気付いた。それがあることに気付いたのは算数の授業中だった。先生が言っていることがどんどん遠ざかり、何か「風景」のようなものが見え出した。それは美佳の見たこともない「風景」だった。きらきらとまばゆく、木々はいつも緑で、心地よい風が吹き、黄金の草原が広がっていた。美佳はその草原でいつまでも寝ていられるのだった。寝ているのを起こすのは、先生だった。
「上原さん。先生の話、聞いていた?」
「いいえ。聞いていませんでした。」
先生はいつも怒った。周りのみんなはいつも笑っていた。美佳は耳を閉ざした。
美佳はサーシャに「風景」の話をした。どんなに綺麗な場所なのか。わたしはいつまでもそこで寝ていられるのよ。わたしはそこにいきたいの。サーシャは顔を曇らせた。
「ねえ。美佳。そこは安全であり危険な場所なの。そこは「生」も「死」もないの。永遠なのよ。でも、「永遠」はこの世界にはないの。行ったら、もう戻れないわよ。」
「いいわよ。わたし、戻れなくても。この世界はわたしのいる場所ではないのよ。」
「でも、わたしとは会えなくなるわよ。」
美佳は口をつぐんだ。サーシャと会えなくなるのは悲しかった。
「あと、3年頑張ってみるわ。でも、我慢できなくなったらわたしはそこに行くわ。」
美佳は力強く言った。サーシャは何も言わず、首を振った。