語らいの夜✕逃げてきたツケを払う者
兵士の甲冑を着ているとはいえ、灰色の短髪。菫色の切れ長で、だけど実は少しタレ目がちな瞳。薄い唇。そんなイクスの姿をした者に、私が問えば。
彼は一瞬目を開けた後、肩を竦めた。
「いきなりどうしましたか? 数刻ほど離れただけで俺のことをお忘れなるほど、俺の愛が足りてませんでしたか? ご要望とあらば、いくらでも捧げる用意はできておりますよ」
「ううん、いらない」
「……本当に、俺のことがお嫌いになりましたか?」
――まさか。
私がイクスのことを嫌いになるはずなんてない。たとえイクスが私のことを嫌いになろうとも……絶対に。
だけど、このヒトは私の大好きな騎士ではないから。
「本物のイクスはね、嘘を吐く時、そんな饒舌にはならないよ? あと嘘を吐く時こそ、私から目を逸らさない」
「…………」
口を閉ざして私を見下ろす彼に、私は小さく笑う。
「うそ。本当にびっくりするくらいそっくり。モノマネ上手ですね」
そう、告げたら。そのヒトは「ぷっ」と吹き出して。でも物思いに耽るルーフェンさんの背中を見て、大笑いは思いとどまったのだろう。声を潜めたまま、私に向かって目元を下げた。
「それなのに見破ったか……さすが聖女、と称賛すべきか」
「あまり聖女は関係ないかな」
「なら“愛ゆえ”というものか……なお素晴らしい。感服に値するぞ」
その声はイクスのもので。だけど口調は他人にもの。その違和感に少しだけイラッとしたせいか……私の口は思ったよりも低い声を発していた。
「……本物のイクスはどうした?」
「案ずるな。ちゃんとこの身体の内で眠っているが……無理がきていたようでな。少しばかり休ませてやることにした」
こういう情報戦は、あまり得意ではないけれど。
相手の言葉を信じるならば、イクスは無事。イクスの身体の中で眠っている――つまりはイクスの精神が休んでいることと解釈できるか。精神に関与できる存在といえば――
尊大な口ぶりから、敵意は感じず。その言葉は信用するに足りてしまうほどに。
それに該当する相手に心当たりを持ってしまう私は、一度ゆっくりと目を伏せた。
「つかぬことを訊きますが、私はあなたと会ったことありますかね?」
「どのくらいの期間の話だ?」
「三十六年ほどの間で」
私は目を開き、見上げる。
3年✕12回。間を入れず問えば、彼は笑い声を潜めるように、口元を押さえて。だけど、その目は明らかな愉悦を灯していた。
「――正解だ。我は汝らの言葉で『魔王』と呼ばれる存在。久しいな、聖女よ。我と対面してその堂々たる態度、本当に好ましく思うておるぞ」
「お褒めいただき感謝ですが……答えを言う前に正解を言われてしまって、ちょっぴり拍子抜けですね。あと、久しぶりではないと思います」
初めは……多分、城下で声をかけてきた兵士かな。ダイオウウリドナマズの時のおじいさんもそうだし……こないだの別れ際のアルバさんも、一瞬おかしかったよね。
その人らの精神に関与して、私に干渉してこようとした者。そして、それができる者――私たちの世界と表裏一体の精神世界の王、魔王が、かつてその存在を滅ぼそうとした下等生物に対して、謝罪を口にした。
「それはすまない。汝らのおかげで、近頃本当に楽しくてな。少々浮かれておるかもしれん」
イクスのことも、私のことも、魔王からすればしょせん遊びか……。
だけど、動じるな。その現実に、虚しさがひんやりと汗に籠もるけど――私は再び前を向いて話すしかないのだから。
「ルーフェンさんにバレると面倒なので手短に――黙ってイクスを返して。でないと、私とて容赦はしない。ここがどこだか、わかっているでしょう?」
ここは、かつて魔族からの猛攻撃を防いだとされるエラドンナ大砦。その機能は未だ衰えることはなく、聖女が数十人揃えば、どんな魔法も防ぐ。そして、使い方によっては――今も立派に魔族を駆逐できる兵器だ。
それを知る魔王は苦笑する。
「汝一人で起動できると?」
「バカにしないで」
昔、戦争の時はその起動に揃えられたのは五十人だったとされている。一度発動させるごとに、聖女は三人ずつ倒れていったとか。だけど、そんな歴史は関係ない。
「イクスのためなら、なんだってやってみせる」
その覚悟をこめて再度イクスを見上げれば――彼は少し淋しげな……同情するような目で私を見下ろしていた。
「ならば――早く、此奴にその気持ちとやらを伝えて、解放してやれ」
「どういうこと?」
私の疑問符に、今度は彼が目を伏せる。
「そなたらに呪いをかけたのは我だ。このイクスという男が、消えかけた汝の命をあまりに乞うものだから――我が汝の命を、この男の想いを楔にしてこの世界に縛り付けた」
「……なにそれ」
「言葉の通りだ。三年間を死に戻りしているのは、我のせいだ。そして、それから解放されたくば――汝が、その楔を外せばいい。我はそれを伝えたかった」
たしかに……このループ生活が始まったのは、私が魔王に殺されてから。だから、その原因が魔王にあることに、なんも異論がないわけではないけれど……。
魔王が言う『この男』は、もちろんイクスのことで。イクスが願ったから、私たちはループを繰り返していて。イクスの想いが楔? この世に縛り付けている?
「この繰り返しの間……この男は酒に溺れた時以外、一睡もできておらん。そのため身体も限界にきている。動くたびに激痛が走るほどにな」
魔法には魔法なりの理論がある。理論があれば規律あり、制約もある。
魔の頂点に立つ者がかけた呪いならば――それらの大小はあるだろう。だけど魔王とて、ゼロから有を生むことはできないらしい。
私が生きる代わりに、イクスが苦しみ。
私たちが幸せな日々を繰り返すたびに、世界が苦しんでいた。
「その朽ち落ちそうな楔を保持するため、世界が狂い始めている。汝も実感していただろう? そこの男の運命など……汝のまわりが、変わり始めていることを」
彼の視線の先には、当然今も夜空を見上げているルーフェンさんの背中。
運命が歪んだ結果、最悪を背負うことになってしまった人。
「今回は、他人ともいえる相手だったかもしれんが」
――やめて。聞きたくない。
まるで金縛りにあったように、耳を塞ぐことができなかった。だから、現実はまっすぐに私に伝えられる。
「その狂いは、どんどん歪みの中心である汝に近づいてくるぞ。もしかしたら……次は汝の大切な妹になるかもな?」
それは、あくまで『可能性』でしかないけれど。それでも、可愛い妹の笑顔が踏み潰される足音が聞こえるようで。「まあ、それは少々脅しだが」なんて苦笑されても、まるで笑えそうにない。
「だが、さらにループを繰り返すなら……そんな世界になるやもしれん。それは、我にもわからぬこと――」
「どうすればいい?」
だから、私は腹をくくる。表情を引き締める。でも内心、嘲笑する。
やっぱり、私に聖女なんて称号は不釣り合いだったのだろう。
私に都合が悪い現実と未来を提示されて――ようやく逃げることからやめると決心できるくらい……私は利己的な女なのだから。
「どうすれば、このループ生活から抜け出せるの?」
「だから、先に言っただろう……汝の想いをこの男に伝え、楔としている“イクスの報われぬ気持ち”を解放してやればいい。その時、この男から汝に関する記憶が消えるがな」
私は即答ができなかった。何を言われているのか、胸にストンと落ちてくれなくて。それなのに、現実は待ってくれない。「案じなくとも、それで汝が命を落とすことはない」と、魔王は言ってくれるけど。その代償として、イクスの記憶が失われると、言うものだから。
そして、前を見たイクスは告げる。
「ここまで……だな。覚えておくといい、我は汝らを害するつもりなどはない。ただ……見届けたいと思う。人間の愛とはどういうものなのか、を」
ただ、わかることは――本当に、魔王に悪意はないのだろう。魔族は……人間よりも現実的に思考する存在らしいから。人間が、私たちが振り回される『情』というものに希薄だと言われている。
その頂点たる王は、「おぉ、忘れるところだった」ととても人間らしく目を見開いた。
「アンのこと、本当にありがとう。無事に母親とも再会している。彼女からも感謝を伝えてほしいと言付けを頼まれていた」
「アン……さん?」
突如出てきた、学術都市で出会った少女の名前に。人間に恋した可愛らしい魔族の名前に。私が疑問符を返せば、イクスが優しく微笑む。
「今や、アンは精神世界の人気者だぞ? 魔族の誰もが経験したことがない『愛』を体験してきたのだからな」
「そう……ですか……」
私が、ぼんやりとそう返した時。
「待たせたな!」
ルーフェンさんが振り返って。途端、イクスの膝が曲がりかけ、私が慌てて彼の身体を支える。すると、まるで寝起きのような顔で瞼を擦ったイクスが「す、すみませんっ」と慌てて姿勢を正した。
その様子に、ルーフェンはくつくつと笑う。
「はっ、変態騎士は徹夜が苦手ってか? そんなんじゃ夜も期待できねぇな~?」
「ば、馬鹿言うな。俺はナナリー様のためなら不眠不休で愛を捧げる所存だっ‼」
ね、ナナリー様? ――と。
イクスが柔らかく微笑んでくるものだから。私はいつも通りを装って「あはは」と乾いた笑いを返す。
明けない夜はない。いくら願っても、朝は非情だ。誰もに平等にやってくる。
いつの間にか、空が白み始めていた。







