女の涙で濡れる村✕その涙を拭う男
その後、昔話に盛り上がる老人たちを置いて、私たちは部屋へと戻った。
イクスは淡々と寝支度を始め、私も最低限の会話以外は慣れた手順で身体を動かす。
「では、明日の朝にはこの村を出ましょう。その後は予定どおり、山越えです。少しは食料を分けて貰っているのですが……この村もあまり余裕があるわけではなく。山では自給自足が主になると思いますが、ご安心下さい。弓を仕入れました。野鳥も撃ち落とせますので、肉には困らないかと。山間に小さな集落もありますし、どうかナナリー様は何も心配せず俺に――」
「イクス」
ベッドに寝転びながら、私は言葉を遮るように彼の名を呼ぶ。それでも彼は私のベッドに潜り込んできた。
「……ダメです。あの怨念は、貴女様と相性が悪いんでしょう? 村人も浄化を望んでいるわけでないようですし……それはお節介を通り過ぎて、偽善というのですよ?」
「それは……わかっているけど……」
私が壁の方を向くも、イクスは背中側から私を抱き込んできて――まるで小さい子をあやすように、優しく頭を撫でてくる。
「俺は……そんな優しい貴女様をお慕いしております。だけど、だからこそ……貴女様が無駄に傷付くことなんかありません。さぁ、このまま目を閉じてしまいましょう。貴女様は見たくないものまで、見なくてもいいんです。目障りはものは……全て俺が排除しておきますから」
彼の大きな手が、私の目を覆う。節ばって、タコや傷が多く、固い手だ。だけど、その手が誰よりも温かいことを、私は充分に知っている。
だから、私は唱えた。
「ナナリー=ガードナーが愛すべき者に、安らかなる眠りを」
少し待つと。私の首筋を温かい寝息がくすぐりだす。私は緩んだ彼の腕からそっと抜け出し、眠るイクスの少し固い髪を撫でた。
「わがままな主でごめんね」
ちゃんと、いつか解放してあげるから。
だからその時まで、身勝手な私に付き合ってほしい。夢は、いつか覚めるべきなのだ。
「こんばんは。いい夜ね」
私は一人、再び瘴気渦巻く林へやってきた。正直、木々の隙間からも瘴気が漂いすぎて空の星なんか見えやしない。空気や風もめちゃくちゃどんよりしているし。「不幸になれ、不幸になれ」と彼女はまた己の不幸を嘆いているし。
だけど、私は彼女に『いい夜』だと思って欲しいから、言葉を重ねる。
「幾多の星が本当に綺麗なんだよ。少し湖まで足を伸ばしてみようよ。星灯りが水面に反射した中を、淡く発光する魚が泳いでいるの。上も下も星灯りに包まれて、本当に幻想的なんだから――ね?」
私は彼女の手を掴むために、腕を瘴気の渦の中に突っ込む。その中に当然実体はない。ただただじっとりとしていて、生温くて、重々しい。そんな気持ち悪い感覚に、思わず顔を顰めそうになってしまうけれど。
瘴気が強く、色を深めた。夜よりも深い闇は黒々と大きく揺蕩うに連れ……私の目から、彼女の涙が溢れだす。
「やめて」「わたしの幸せを壊さないで」「大切なの」「宝物なの」「あのひとを」「あのこを」「連れて行かないで」「そばにいたいの」「一緒にいたい」「それだけだったの」「幸せになりたかっただけなの」
それを口にしているのが、私なのか、彼女なのか。自分でもわからない。それでも、叶わぬ想いに感応した私は――ただ祈るだけだ。
「みんな、あなたの幸せを願ってる」
浄化は、ただこの世から怨念を断ち切り、祓うだけじゃない。
その魂が次の人生を始められるように……背中を押すことでもあると、私は信じている。
「村のおじいさんたちも、おばあさんたちも、あなたとの時間を宝物のように大切にしていたよ。それに……あなたはずっと、そこで不幸でいなきゃいけないのかな?」
この村が、彼女にとって幸せな場所だったのか。不幸な場所だったのか。それは彼女にしかわからない。ただ、私が知っていることは――それがどちらだとしても、永遠に同じ場所に居ることはできないという、事実だけ。
「旦那さんと、お子さんと、幸せになれる場所にいっていいんだよ」
大切な人たちがこの場所を離れてしまったのなら、着いていけばいい。同じ場所に固執する必要はない。それを逃げると取るかどうかは、他人が決める事でしょ? そんなの……きっと自分には関係がないんじゃないかな。
『待って……くれて、いる……かしら?』
「待ってるよ。絶対、きっと待ってるよ」
そう――自分以外の他人の考えなんて、当人以外誰にもわからないのだから。信じたいものを信じればいいと思う。神様が本当にいるかいないかと、同じように。私は、そのお手伝いをするだけだ。
「送っても、いい?」
彼女が頷いてくれた気がした。
私はゆっくりと印を切る。闇に浮かぶ光の粒は、規則正しい線となり、彼女を明るく照らしてくれた。
「ナナリー=ガードナーの新たな友に――新しい明日を」
光の筋は螺旋状に空へと伸びていく。闇を切り裂き、木々を抜け。その螺旋の先には、幾多の星が煌めいていた。その中で二つ、大きく瞬く星明かり。
『あなた……!』
そして――明るい声を残して、彼女は消えた。
私に残るのは、自分の流す涙だけ。
「行ってらっしゃい」
安堵の息を吐き出せば、胸の奥が軽くなる。だけど、涙はなかなか止まらなくて。それでも、
「まったく……仕方ない方ですね」
前から優しく声をかけてくれた青年は、そんな私の涙を手で拭ってくれた。
「イクス⁉︎ どうして――」
私が眠らせたはずなのに!
そう最後まで口にする前に、彼は私の唇を指先で摘んだ。
「俺を欺こうとする悪いお口はこの子ですか? 悪いお口は俺が飽きるまで貪っても罰は当たりませんよね? だって悪い子なんですから」
「ふむむ〜⁉︎」
上手く喋れず呻くことしかできない私を、イクスは鼻で笑い飛ばす。もうっ! 子供扱いなのか微妙な甘言が一番戸惑うんだってばあ‼︎
だけど一通り私の唇をむにむに弄んだ彼は、小さく苦笑していた。
「すみません」
「何が?」
「いいえ……お気になさらず」
彼はしれっと「さあ、勝手に夜に出歩く悪い子は俺の胸の中にナイナイしませんとね〜」と無駄に声を弾ませて、私の手を引いて歩き出す。私からは、彼の後ろ姿しか見えない。







